連載は続く~SF掌編『冬の散歩道っぽくなってきた今日この頃』編


私:夢での話、だけど・・、キミと出くわしたような・・・。
君:??珍(めずら)しい、こと?
私:キミ、だったのかも、っていうか、そういう話。
君:うん・・。それで。
私:レギンス、とかじゃなかった。ジーンズ系?だったかも。
君:どうぞぉ・・、忙しいから・・・・。
私:そこは散歩に使う道。そしてそこだけは腰くらいまでの鉄柵が設けてあって。確かぁ・・白く塗装してたか・・。橙っぽかったかな?そこを夜道、女性が柵に沿って歩いてこちらに近づきつつあった。ボクは、歩みの形から、キミっぽく感じた、視野のどこかでそう感じて、そちらにより焦点を絞った、わけ。で見えた表情の口元とかはキミ?って思えた、よ。で同時に、まつ毛がやけに濃く長かった、というか、付けまつげのような印象。で、キミじゃないな、と直感してけれど、キミ似のその方が通過した後、でも似てたな、って思えて・・・。
君:つまり似てるかも、で何もしなかった、ってことよ。夢にまで見るほど惚れてる相手、でしょ。似てるだけで、本物じゃないかもしれない、ってだけでしょ。だったら・・・
私:そ、ね。ここ何番地とかなんとかね、話しかけてみるくらいの芸当ないと、ね。そりゃ、思ったよ、その時、直ぐ、でもね。一方のスピードにこちらも逆方向のスピードだから・・・。1分もすればかなり離れてしまってね。でさ、もう話さないではいられなくなって、ね。わかって、くれる?
君:情けない。相手にしたくない、わ。仕事、忙しいから。

 

 

探偵氏、いつものようにテレヴィを見てた。
植物性肉を細密に合成してい作って製品化のニュース。
商売っ気のある探偵氏、こちらも夢想。
某米飯バーガーは手間の分少々値が張る。
探偵氏は、トルティーヤ食品のように包むことを考えた。米飯を包むし中の具材はもちろんだ。
もちを薄くすることで包む。暖かくして食べるからややパリパリで柔らか食感の米飯サンドを食べることができる。
もちじゃなく、米のオブラートで包めるかもとも考えた。こちらだって温めて食べる分には柔らかくできる。
もろトウモロコシ系トルティーヤで包む手もある。より薄くして。海苔(のり)の代わりじゃないか、と言ってしまえばそれまでだけど、かなり応用が効くはずだ。
植物性”肉”の方は、恐らく介護事情のリアルがきっとそうさせているはずだ、と介護施設生活熟練者からは強引に推測してみたい。海外でも巨体系文明圏で、同じヒトからして、巨体を介護することは機械でいくらでも代用は効くけれど、される側の事情からして、機械に頼られては困る圧が相当に働くと充分に指摘可能だ。同情心が働いた介護の担い手による生々しい現場感覚発露による介護手法は機械には到底無理だ。とりあえずしばらくの間は、くらいのことは言い切れる。だから、無茶な巨体化を改良するのにはまず、食、ということなのだろう。それに食材料のサイクルからということで放送では指摘されていたと思う。膨大な餌を何で賄(まかな)うの、っていうわけのようだ。
おにぎり系はそれとして、トルティーヤ、バーガー系の食べ方で米飯をいただくには、となれば、きっとこちらが代案だろうな、と一人、ニヤニヤしている探偵氏だったりする。


同じ、テレヴィネタから探偵氏が言っていたことを紹介してみよう。
お馴染み、グッドドクターUS版の2シーズン目の第4回目の話。
このタイプは一歩もその殻(から)から出る気にならないのか、って強く印象に残るようなシーンが続けざまの回だった。自閉症サヴァンな外科医を目指す若者。こいつが、他人の気も知らないで・・・を散々に体現し尽す。ところが、このドラマ、US系の人々も法治を標榜(ひょうぼう)はする(暗躍系のダレス氏人脈も法律家が頻出する)けれど、単に形式に陥るばかりではない、という、ヒトの全体的観念操作能力からの発信のようなドラマ仕立てにしていたんだ。と言っていた。日常というか病院の日常にもそういう形式に傾きすぎた判断が溢れ、それをどう察するか次第で相手への近づきの可能、不可能も出てくる。確かに形式知は重要だ。そしてそれなしでは円滑な日常のやりくりは不可能。それはわかる。しかし、瞬間的にそこでの察しが効くかどうかも欠かせない。型に落とし込んだ所作が最適に機能してくれている範囲で、円滑さは保たれるし、日常動作として、実に無駄な時間を省かせてくれる。でも、その型の含みを勘違いして使いこなすだれか、という場合や、含み外で適用してしまう場合や、含みが時世に追いついてないという場合や、それらについて事例を添える手間をここでは省くけれど、熟達の型の使用にはそれなりの制約がついて回る。そういうことさえ意識の載せないで当たり前にして、傲慢になってしまう一般というありかたも起こりがちだ。最善・最短の判断を結果的にもたらす可能性もある型を身に着けた人々により所為であっても、いつでもそうとは限らない。しかも形式どうしでもめごとになった場合の比較の難しさってこともありうる。形式的に判断できる場合も逆にもちろんありうる。イエス、ノーでたどっていける例の順路など典型だ。便利には違いない。
でも、だ。後悔に後悔し続けている、瀕死の状態かもしれない老医師にとって、たとえ自ら発する幻だろうが、愛娘(まなむすめ)との対話を薬を飲むことで打ち消されるようなことにつながる行為は御免被りたい。そこを若い外科医志望氏はまるきりわかろうとしない。自らの殻を破る威力に欠ける。だから愛してやまない異性にも、虚ろに形式的にしかことばを行使しえないでいる。ただ、その異性は何かしら(本当のところ何にか、はこの回以後わかってくるはずだ)ふと気づいて、手を差し伸べる。そういうシーンでその回は終わっている。


35ミリフィルムで撮られてたらしい昔の子供世代には話題を呼んだ『ウルトラQ』の4K版を放送で見た限りでは、古いUS版映画の画像品質も列島版でも可能なのだな、と思わせたもんだ。老いて、でも、こういう体験もできるんだな、なんてね。

 

君:探偵さん、ちょっとばかりご機嫌じゃない?
私:みたい、だったね。・・・・、寒くなってきたけれど・・・、散歩、しようよ。
君:私、仕事、忙しいの。
私:・・・、そこを、なんとか。・・・。
君:忙しいから・・・・。
私:だから、そこを・・。
君:通り過ぎてしまったんでしょ。
私:えっ、それって・・・。
君:冗談、に、決まってる、でしょ。もぉ・・・。
私:・・・。
君:・・いいわよぉ。いいわ、少しだけ、よ。お茶して直ぐ戻る、の。
私:寒さが一気に吹っ飛んだ感じ。
君:大げさ過ぎて、嘘っぽいわ!散歩よ、行きましょ。
私:ははぁっ。
君:・・ん、もぉ、付いてけない・・。ふふっ。