連載は続く~SF掌編『気象庁”月平均気温偏差”の図』編

その昔、利根川進氏とノーベル賞の頃、立花隆氏との著作や岩波新書から出た氏の著書を読むだけでもPCR法を含む工夫の数々について一般が興味を持たせられる。
だから準備の無い身体にとっていかに・・・の辺りは、やはり油断はならないと同時に、ヒトの身体への信頼も忘れないでいたいと素人的には指摘したくさせる。
ここらは安保氏の発信ヒントでもあったりする。ヒトとか生き物のバランスを保つ働きはかなりのもので当面人知(智)を超え続ける。
たまたまインフルエンザによる”淘汰圧”にさらされてお亡くなりになる老若女男諸氏のことはヒトの工夫の試行錯誤を生じさせつつけている。
一方で、ヒトそれ自体が答えもしてくれる。
話題のウィルスも例年の如くのインフルエンザほど猛威をふるってはいないとしても、やはり重い症状を得てしまう人々にとってはたまったものではない。そこをなんとか、こそヒトが同情とかさまざまな動因を見ようと思えば見えるらしさだったりすると思える。
工夫しながら動くことを億劫がらないで着たからこそ、日々なんらか成果を得続けられるし、そうできる”頭の冴え”を持続し続けている。
免疫を身につけられたらその後は他人を助ける側に回れる。この場合ワクチンを待たなくても可能。
高熱でヒトはもたない。下がりすぎてももたない。
もたない度合いもありうる。からだがそれまで丈夫というか、もちこたえる準備のあるなしっぽい。
地球も似ている。似ているという表現のところでとどめて想像してもらいたい。
氷河期における氷期間氷期の移行については昨今、観測成果のたまもので、多くを一般が素材に使えるようになってきた。
氷河期とか氷河期ではない時期とかの変遷は太陽エネルギーを得ることの長期の趨勢と関わるからいわば準備、体力の問題と捉えることができる。無理なダイエットをしているからだかそうでないか、なんていう違い像。
で気温は体温にたとえられる。とにかくめまぐるしく簡単に変化するのが日々の気温。
気温を指標に中長期趨勢に関わる温暖化=氷河期の趨勢のように語ることは、決定的な間違いだ。そこは押さえておきたい。
で、一般が利用できる気象庁のデータを参照する。(www.jma.go.jp/jma/index.html)

「各種データ・資料」→
 「気温・降水量の長期変化傾向」→
 「世界と日本の平均気温・降水量」→
 「月、季節、年平均気温偏差の分布図」

この分布図は1891年までさかのぼって参照できる。
この分布図の各年1月分を今日(2020年1月)までたどると気づけることを紹介してみたい。
温度上昇に戦争有り?
ここらは燃料系の膨大消費ということで昔から指摘され続けてきた。環境汚染負荷要因として実は・・の辺り。
しかし!と強調できるのだけど、2000年代に入っての色調の極端な変化ほどの変化はそれまで見ることができにくい。
戦争ということで一律かというとそうでもない。色変化が顕著でない時期も見られる。
そこで、燃料系統の種類になんらか違いが、とも仮定できそうだけど、1983とか1988とか時々全体に及ぶくらいの変化を見られるのと違って2000年代のは濃く濃くなっていく。
ということで、戦争も確かに要因に違いないだろうけれど、他にもありそうだ、と思わせた。
もちろん、ここでは体温のイメージでの気温を関わる。体力自体の方ではない。
体力のことに関しては、国立環境研究所の地球環境研究センター気候変動リスク評価研究室長(現副センター長)の江守正多氏がたたき台になってくれるような話を公開してくれている。そこでは放送大で丸山氏が発信していた内容にも反論となるようなことがふれられている。
二酸化炭素負荷よりは雲量の変化の方がはるかに要因になりうる。太陽エネルギーを得る量の変化に雲量の変化が生じるその度合いを%で表現していたのだけど、二酸化炭素についても、と江守氏はふれていた。
ただ江守氏の話はスヴェンスマルク氏の話が出てくる前に長期趨勢で関わる規則的変化に関わる要因(なんとかサイクルの類)に依拠している。それがどうも無理そうだ、と当時の当方は思えて、三崎氏のエアゾル仮説をヒントにしたくさせた経緯が個人的にはあるので、”なんとも今更”に思えてしまう世代だったりする。
太陽エネルギーをもらい損ね続けていると、それは間違いなく地表面にとっては対極的にしばらくはそこから逃れられない別の趨勢を生じさせる。最近の気温がどうのこうの言ってられなくなる。
戦争にしろ更にそこでの消費へ寝るぎー素材は?と考えて、でも戦争だけではなさそうだ、ということから、ふと2000年代に顕著・・・ということで、ひょっとして、とここは素人なので、専門家諸氏だと無知とか指摘されるのを恐れて敢えて言い出したりしそうにないことを指摘してみたくなっていた。
それは電子レンジ効果の面のあるなし。
電磁波はそういう効果を発揮する。気象庁気象衛星画像のうち、水蒸気流の画像を見てもらえると、それなりに身近に感じられるように察するけれど、一応表を水蒸気が覆っている。しかも流れ続けている。
電磁波の加熱作用についてはその原理のところは現象と規則性のところまでサイエンスは押さえている段階でその先の厳密さ、精密さについてはもう一押しのような記述がネットでは読める。
ヒトの思考はシミュレーションモデルが現実を再現するかどうかの際に、再現してくれる方を好んで選んでモデル自体の出来については考慮外に置きがちにする。いじくってしまうわけだ。いつもそういう危険が伴う、ということを考慮できていれば問題の一端はなんとかできそうだ。
気温変化、気象変化の激しさに、ヒトの活動(今時のメジャーな発信は経済活動とみなしがちだ)を結びつける。その際に、戦争経済という風にとらえるならそれも一つ要素になるような話になる程度の話にしがちだ。
それでわかってくるのか、という素人の疑問から、事態にふれている。
欧州にて、中東にて、ヴェトナムにて戦争が生じていた。で時間がずれて太平洋域にも気温変化が生じる。ここらは、ある程度規則的だ。
でもUSの工業的負荷が以外に欧州ほど目だってこない。
仮に電磁波による加熱効果だとして、どの周波数と誘導体との組み合わせでより生じている事態なのかなど、事情通諸氏による推理を期待してみたい。
それが無理なことが判明することだってきっとつまらないことではない、とこれもまた期待してみたい。


君:そのデータとか用語がわかっていれば、話として面白うそう、ね。
私:暇、じゃないけどぉ・・、調べ物をしたくなっていた今日この頃、さ。
君:さ、って流してるわけ、ね。
私:とにかくヒトってさ、自分が生まれる前の数十年のことは相当昔のことのように実感してしまう。その一方で実人生中の数十年なんて、ひとそれぞれのところは認めつつ、ね、具体的、具体的に、すごく身近にしてしまうものだよ。同じ幅なのに、だよ。
君:ふーーーん、そうかも。そんなあなたにとってはきょうこの頃ということね。
私:そ、ね。
君:それ、だけ?


市民社会は行政が活発に活動状態を保ってくれることでそれなりに円滑に機能する。
お互い様の相互性は大昔からヒトが期待して培ってきたことだけど、なかなか現場の事情として生々しくは思うように機能しづらかった。そこを理念のための装置として行政組織を利用できるようにした。何度も引用するけれどUKの陰陽の官僚の活動は理念に向けて信念の人生とともに諸活動を支えていたということを岩波新書の三谷氏の著作はヒント発信してくれていた。でもそこどまりになってしまう。そこを巷にまでお互い様を理念とすることを建前としては普及させて、形としてはある程度試行錯誤の段階をなんとか招くことができた昨今。
とはいえ、自らの言い分には熱心になれるけれど、いざ他人が発言を始めると他人事というか、聞く耳を持つ耐性が失せて、ほかのことに関心がいくというか注意力散漫にしてしまったり、煩く感じたりで、話し合いは生じない。
国会でも与野党混在で怒りまくって、だから話合いではなく、頭の機能を極端に制約して、ことばを放つ作業にしがちにする。今はそういう頭の学知見が一般にも普及するようになっているから、頭にきた状態になったら会議は中止するしかない。話し合いにはならないから。怒りからの行動は、今時の知見からして、決してほめられないというか、間違いを間違いとして判別できない状態であるような頭の状態に近い、ということで押さえるしかない。自らのこととしては結果の責任まで考慮できない暴走状態、ということで、そこはヒトの知恵を行使するその直前の判断が物を言うようになる。
しかし理念的行政のあり方として市民社会を想像はできてもいざ実際の運用面では行政の配慮は忖度系の危なっかしさを伴いがちにする。有力者の思惑が翻弄しがちにする。
あるいはヒトである行政担当者が黒子としてしかも感受性も機能させながらというのは至難に近い。だから理念的をでにくい。
そこで個々の自由裁量まかせにゆだねたいところだけど、先のように自分の発信には熱心になれるしけれど、他人の発信に耳を傾けにくいということでの自らの発信だからその発信の仕方自体がおぼつかないものにしたちだ。そういうヒトの集団的な制約も顕著だ。
民主主義のお互い様性は本当に難しい。数千万人に一分間の発言の場を用意することすら非現実的となってしまう。

    数千万分を60分で割って、時間数にしてみれば少し実感がわくのではないか。
    端折って600万人としてみる。それを60で割る。
    10万時間。日数として感じたければ、24で割れば済む。
    整数で出てこないので端折ると、4170日くらい。
    これは何年か?で365で割る。
    11年。11年かかる。
    * 計算には各種演算もできるし、電卓にも使いやすい Qualculate! 使用。
      http://qalculate.github.io/

場所と人数を分ければいいじゃん!?
これはもうギャグだ。ギャグ。
それくらい民主主義の実際的運用は難しい。
ブロードキャストの困難(今時の制約を引き受けての啓蒙の先端部門)にも想像が行きやすい。
だから個々の現場での活躍が要る。選別が居場所の選別を伴わせること無く、満遍なくが欠かせないことに思い至る諸氏が大勢いてもらいたい。かつてのUKでの大学教育はそこを補っていたと想像できる。またそういう人生上の信念を応援していた感じだ。ただし、余計なおせっかいになりえた要素もありうるので、そこらは時代的制約に違いない。
お互い様が通れば介護施設でのお年寄り諸氏はもう少し手ごたえある人生の晩年をすごしやすくなる。
子供たちは年長者たちの知恵とかをどう生かせるように体得できるかを直接的にやりとりしやすくなる。若年時特有の思いこみ信じ込みでの暴走ではない学び。
働き盛り世代はどうだろう。現場での試行錯誤が少ししやすくなるかも。

忖度しあうことを回避できて、お互い様を相互性にできて・・・、だと隙間を行政の役割として埋める作業がより円滑にする。そこらはきっと想像しやすい。
でも先のように理念的にことが運んでくれるならの話にしがちだ。そこで、自発的な機会を用意するし実際に使いこなそうとする。そこでもお互い様の相互性に近づけられるかどうかはいつでも問われてしまう。
ありがちなのは、小さな政治の場。すぐになんらか駆け引きを付きまとわせてしまう。
啓蒙がある程度いつでも行き渡っていて、住み分けの度合いがお互いに我慢できる程度ならば、駆け引きで譲りすぎを心配しあうようなことは生じにくい。
でも、推論に対して、別の何事かを知っている知っていないの政治を持ち込んで覇権争いのような場にすりかえる言論は安易に使われがちだ。事実の何がしを用いて推論して結果を得、そこから判断したりを、その過程で集団の場から遠ざけてしまう。推論するだれかを外して、推論の中身を比べる程度のことも端折らせてしまう。そういう小さな政治の場を作りたがる集団の作為も介在しがちだったりする。
基本に戻れば、知識とか素材については啓蒙の場にさらすこと。できるだけ同じ素材を共有してそこから推論して判断してを踏めることが大事だ。するとその事態についてのよりよいなにかしらをお互いが判断するいい機会にできる。どうしてそういう推論ができてそういう判断へといたるかについてオープンに語り合える。
もちろん、ことと次第によっては奥義に属することもありうる。ここらはいつの時代でも注意は喚起できる。
クレジットとかで支払い手段の額をべらぼうに膨らませる錬金術を酷使してみせたお国柄においては結局守りなのかどうか、極端な資産の格差で答えることになった。これは今鮮明だ。
一方で先の通り、個々の言いたいだけ言い放つ方式にしがちなお互い様性軽視になりかねないヒトのさがをもう少しだけたくみに操れるようにしながらの集団性試行錯誤中な昨今、暴走しないけれど改良にも果敢に挑戦する持てる層が育っている間は奥義かもしれないけれど、なんとか平穏と活発さが続く。
社会工学t期パスカルの原理応用の場は、本当にどこにも生じ続けている。大変なことだ。ヒトの欲望にしっかり凝視できて即応のオルタナティヴが要る。まんまのりではもともこもない。そこは別のかかわり方を駆使して、独り占めのせめぎあいとは違う局面をいつも生じさせ続けるヒトによる工夫が要る。競争状態に保つ、とかのニュアンスではなくて、本当に独り占めの欲動へのオルタナティブな関わりということになる。経済活動的な独占とか寡占とか競争とかとはちと異なる。
楽しくしながら沈思熟考できるかどうか。
そうすると老いもある程度健康にが出来やすくなりそうだ。お互いのことだから。


君:成績で選別されてきた世代は、どうしても成績の優劣を暗黙に意識してことばがでてくる、の。
私:その後の世代だといじめとか暴言にさらされてきたから、まけじと自ら暴言とか強圧的になることで相手に通じやすくさせるのりが出やすい、よね。表向きの印象表現とは裏腹。それらが大人年代とか親世代になってく。少なくとも列島では。US、ヒチコック監督の映画でさ、USに移って直ぐ頃に出来た作品らしいけど、女性の描き方がすごい。ごく身近な父親の実像を想像すらできない知識だけは持ってるタイプの人物になってた。USはそういう女性として生きる時代を持ってたと勝手に想像してみた。だからUSでは女性がいきりたって判断を間違えやすい。いきりたつことなくことばをもちいることができる土壌がもっとしっかり育っていれば、もっと条件の良いUSなのだから女性の進出の仕方は極端に思えるくらい可能なはず。おとこぶらないで女性として十分に各分野で活躍できる。いまだって・・・のはずだけど、印象としては肩をいからせてないと未だやってけないのでは、とつい想像してしまう。それくらい、女性ということではかなり発揮しづらい世の中を20世紀の半ばころも育てていた。列島での女性像は女性性を上手く取り込んで情報通を発揮するくらいの達者な人物像を時代物でも採用してきた、とそれとの対比で持ち出せるように思う。
君:物を買って生活してるわけだし・・・。貧富の差、そうだとしても、あなたの言う支払い手段、それがないと困るわけでしょ。作りすぎた、の?
私:印象として喜ばれるから・・、つい、じゃないの。
君:でも極端なインフレになっていない?
私:(莫大な需要の担い手になるのがごく少数ってことで)偏ってることが第一、べらぼうなもの不足にもならないし、そこそこの収入層に可能な範囲での物も作られ続けて、それらを買うことも伴ってれば。その昔のインドとUKとの関係じゃないけど、列島の人々、相当に安価な物品にめぐまれてるから。上げた給料の額もかなりで、その分、臨時雇いとか契約とかの常雇いじゃない人々の安い給料の平均でつじつまあわせできるかも。ここらはただそうかもと思えただけ。確かめたわけじゃない。つじつま、ってのは、グローバルに経済力以上の部分的な不均衡を勝手に持ち込んでも追々均されてしまうからという観点。しかも時点時点での格差についても、断じ過ぎても奥義のただの無理解にさせかねない歴史的な途中経過の辺り。でもそこらはその時点時点での積極的な政治・行政とかもふくめた活動全体の応え方にかかる。そこらに不具合があればそれなりに不満のかく乱にあいかねない。わざと政治的に使うのとは別の脈絡で。
君:普通にお財布の中身みて、計算して、っていう感じじゃないみたいね、あなたの話し方だと・・・。
私:そう思える、ってこと、ね。人ごみにも注意しないと、だし、大変な今年っぽい。
君:でも、よ。散歩、して・・・お茶して・・、しましょ。
私:うん。
君:好い陽気、よ。お年寄りにも無理、ないって。
私:また、でたぁ!(年齢相応ってことでいいと思うけどぉ・・)
君:ふふっ。