連載は続く~SF掌編『中休みかも、な日々にて』編

 

人々のほとんどが免疫を持っていないウイルス由来の可能性の中に重病化も含まれる病気が現にはやり始めた場合、どうヒトは対処できるのか。
歴史的な知見から季節性のインフルエンザの流行の像が参考に出来ることは周知だ。
インフルエンザは厚労省の資料から毎年千万人台規模で感染者を生じている(特徴が変異し易いRNAウイルス)。
免疫の有無がその後に影響することは、インフルエンザが子供たちに感染を生みやすいことでわかっている。→全セ代が免疫を持っていないウイルスの場合、そして重病も招くような場合、と想定できるときの対処の必要に気づけそうだ。

(インフルエンザによる死亡者数についての参考資料)
https://www.lab.toho-u.ac.jp/nurs/socio_epidemiology/blog/dqmvu90000000d2i.html

で、この話をひとまず置いて、ちょっと以前ならかなり低定価で入手できて頻繁な使い捨て使用ができた家庭用マスクだったら今の時点で使いやすかったはず。
ところが高値・品薄ときて頻繁な使い捨てなどできるはずもなく、一日中同じのをつけっぱなしが実情じゃなかろうか。するとそれは高齢者にとってはとても危険な要素とみなせる。だから国際ニュースではマスク着用を義務化するとか、危ない発信も見聞するけれど、列島ではそういうことにならないよう願いたい。高齢者、老人は免疫の無いウイルスタイプの疾病、とりわけ今回の新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の場合、高齢者にはより危ない。もし感染していれば高齢者の場合、多くは無症状ということはありそうにない。罹ってなくて無症状。ということで見た目で大体わかってもらえる。マスクは特に要らない、というわけだ。けれども若者諸氏の場合はそうはいかない。ここらを押さえてもらいたい。

かつて1918-20 にかけて3度流行ったスペイン風邪の場合、二度目の流行時(流行とされるくらい季節性が濃いウイルス[H1N1型]だった)に極端に死亡者が一気に出た。
若者も大勢含む犠牲者だった。
結核が矢鱈と流行するくらい栄養状態の悪い時期でもあったことは踏まえておく必要がありそうだ。
時代はかわって、飽食の列島環境下、しかし喜べないタイプのストレスを受けやすい列島環境でもあることは付け足しておける。
つまりことと次第では、季節性が希薄なことは医学にも詳しい政治家氏も指摘されていたけれど、次なる蔓延時には、気軽ではいられない可能性も秘めているということだ。
ヒトからヒトへ移る今回のもインフルエンザの昨今の現象を参考に出来る。
多くの介護施設では季節性インフルエンザが(学級閉鎖とかのニュースがきっかけだったり)流行りだすと外来客を受け入れなくなる。業者の出入りも管理下に置かれるようになる。
それが覿面(てきめん)に効果を奏する。
家族が(孫とか)子供たちとともに面会に来ると、入居の高齢者諸氏に感染者が生じがちだった、ということがなくなった。
これはたまたま季節性を有し、免疫も人それぞれということで高齢者であってもかかりやすかったりかかりにくかったりが年代によってバラバラになりがちだけど、罹りにくい状況作り、ということでは、功を奏するわけだ。
年中、というタイプのウイルスだったりすると、年中閉鎖?ということにもなってしまって、入居中の人々にとってはとても辛い日々となりかねない。
今回のはそういう性質っぽいので、ここしばらく、というか、やはり報道番組のいくつかでも指摘されていたように世界の数十億人規模での免疫が持てるようなって、しかもインフルエンザのようなある程度の犠牲者の継続や膨大な感染者数という実態にも日常感覚がぶれない慣れを生じるまでは、危険ととなりあわせの工夫を継続する必要がありそうだ。
そこらを今のところ列島の諸氏はたくみにこなしていると察する。
とにかく場合によっては相当にやばくなりかねないウイルスで、それへの治療の定型、安全性の高い、並の値段のワクチンの提供などが無い現状の中、どういう工夫がその危険度合いを回避させるかは知恵をつけつつあり、実際に行使もしてきている。
いわゆる三蜜の回避もより厳密にやってのけるのと、例外がたまたま生じた際もひるまず落ち着いて対処できる余裕が必須だ。余計な争いごとの方が危険になる。

糖尿病のための薬の中には免疫力を落とすタイプがあることを知った。
初段でのマクロファージほかの活躍。
感染細胞でのインターフェロン(*)の活躍。
この二点は押さえておける。
『医学のあゆみ』誌(vol.246 no.11 '13.09.14)中"糖尿病治療薬の標的としてのマクロファージ"のp966から
M1マクロファージをその薬が制御しようとする。
そしてそのM1マクロファージはインターフェロンγ(IFNγ)と密接だ。
免疫発動とIFNγは密接だ。

* 1954年、長野泰一、小島保彦連名で発見発表。

こういう時にこそ、実際的に応用できることを専門的にも、日常的にも工夫しておくといい。
それらの中から試行錯誤後に使えそうだと残ってくる。もちろん、結果云々からは不明なまま有効なのが試行されていた可能性まで含めたほうがいい。

学校の過密には変化が求められていそうだ。
通勤に膨大な時間を費やすあり方にも工夫できる余地が出てきた。
買い物が継続する工夫のあり方感染症版は散々試された。
大学4年間で急速に育つ。そういうことを参考にして、小中年代でも、少々目標を提供できることで、上手に誘えた短時間での集中を使いこなして学習達成の快を味わってもらえるといい。人生のその先があやふやの段階、年代での難しさが伴うので、何を、ということでは全般に関わる教養ということになるのだろうけれど、それでも興味をひくのに集中できることもいい経験になるのでは。
中高くらいになってくると、ここらも人生のその先のことを考えて、というわけにはほとんどがいかないから、当面の興味と相談で集中しての経験をつめる。
集中ばかりでは飽きてしまうし、知らず知らず疲弊しているだろうから、その他の膨大な時間についての工夫は、人それぞれのその時期での性格が濃く関わってしまうのかもしれないけれど、独自な発想も交えて試行錯誤できることも大事そうだ、と指摘することくらいはできる。他に合わせる、というノリ以外を試せるし、近代の試行錯誤のところに気づいてくれることも大事だ。

参考になるとありがたいが、弁証法役割分担を思い込み上濃くする政治家諸氏が活躍する列島ほかの生々しい政治の場ではとかく問題となりかねない懸案も一方が持ち出す。当然そこにはそれに対する意見が強く出てくることが期待されている。そしてその論争とかせめぎあいの結果が止揚となって相対的に上手くいくと思い込めているのだけど、実際にはそうはいかないでずっとやってきたので、1970年代の知見からはそろそろ弁証法はやめようという見識が当時の若者に提示されたりしたのだった。
政府からこの混乱の時期に無理難題を持ち出すことは、弁証法役割分担の論からすると社会工学パスカルの原理応用面からも、ありうるわけだけれど、列島は底流としては奏してこなかった工夫応用場であることを踏まえれば、そういう真似はここでも抑制できたほうがいいわけだ。野党の代表がテレヴィのいくつかの番組で発信していたけれど、それを弁証法の役割分担のもう一方とみなしてはまずいのだ。とにかくこの際だからとどさくさ発信で相手の出方を待つとか、でなければやってしまえ、のノリではまずいわけだ。今のとことんの将来にも役立つ試行錯誤の面でよりしっかりものにしておく必要を指摘できる。より最善を目指して、結果何を将来のための試行錯誤として残しておけるか、それに野党勢が珍しく与党ともいっしょにとりくもうとしているようだ。それをほごにしようという感じの弁証法役割分担のノリではしょーもないではないか。
第二波の世界的な流行はグローバリズムが実際の世の中、簡単に生じると予想できる。
それが大変なことにはならずにやり過ごせることがなによりだけど、そうはならないような趨勢が見えてさえ、列島での工夫が功を奏して、世界に向けた感染症対処モデルの一つを提供できるかもしれない。それくらいの本気度程度は今だからこそ発揮してもらいたいものだ。
年代に関わらずかなりの症状が出る波になったらば、だれもがきっと注意し始める。
けれども人口のほとんどにとっては軽くやり過ごせるのに一部にかなりキツイことになる現状で、列島だと多くが工夫することに加担できている。このことは貴重だ。
次のステージがどうなろうと、この工夫のより自覚的な対応によってやりすごせる。
そしてバラバラにしか乗じるはずの無い病の実際について、受け入れるシステムの側にこれまでを参考に出来た、準備が加納かどうかが問われてくる。

電子系ほかネット依存過多に対しては太陽活動の偶然的変化の致命傷についての列島学問からの発信を指摘しておける。これで日常をマヒさせるようでは、列島の経験から学ぶ姿勢は情けないことになる。列島の人々はそこらは慎重に着実にオルタナティヴをいつでも学んできている。自給自足とまではいかないけれど、いわゆるローテクでの万全で円滑な経済活動を含む全般的なやりくりをだれもが即イメージできるようにしておきたい。すぐに手にできるだけの日ごろがくりかえされているといい。

接触とか人の集まりを親密さをシンボリックに使いこなす欧米系のある脈については、今回のウイルス騒ぎを経ても更に親密さ表現欲ゆえに止められそうに無い。
列島は実際的かたぎだから、危険回避の方の習慣を表にしてきたわけだ。
他人を排除と招待で蜜な関係を象徴させるよりは、招待するようなことをあまり行使しないで、円滑な人間集団の営みを志向してきた。そんな感じの違いくらいは指摘できる。
欧米系はマスクを厭(いと)うくらいたぶん本当はキレイ好きだったとも言える。
密接することを本当のところでは好まない、警戒するけれど、親密さを表現するための選択、それが魂の要素とすれば、そういうことは伝承の中で忘れられやすい、ということになる。


君:なにげにわかりにくい話になってきた・・・。探偵さん。
探偵:そぉ?
私:そね。
探偵:結構、ネットとか資料漁りして、色々目をとおして・・・・。
君:お年よりの事情、少しは理解できたつもり、よ。
探偵:つもり?!
君:うん。
私:つもり。
探偵:喫茶店とか開いてるところも出てきたみたいだ、よ。どぉ?
君:いいんじゃ、ない。
私:もちろん。
3人:出かけましょ!!!