連載は続く SF掌編『大分の別府の件』編


最近はネット経由の買い物が、本の場合だけど、多くなっているので、目的のを探して買って、というパタンにしがち。
それがたまたま、その日に限って、ちょっとばかりお店にて立ち読みしていた。
で目に付いて手にしてたのが酒井正士著『邪馬台国別府温泉だった』(小学館新書 '20.8.4刊)。
さてこの本、例によって例の如くの手続きを経て、場所を指定している。
点を押さえていくから、どの点を採るかで、その次の距離が描く円の位置が違ってくる。
と指摘しておいて、しかし、事前にも話題になりそうな内容なのに、ネット上の九州系にしろ奈良系にしろちっとも騒いでなさそうなのはどうして?と思えたけれど、むしろそういう感じ方をするのは情報に疎い当方だからか・・・。
とにかく斬新のようで堅実で、ただ結論が驚き、という感じで、しかも、軍配は九州、で落ち着きそうな推論になっている。
以下、魏志倭人伝の距離にふれた辺りを羅列しながら、酒井氏の著書の論も並べてみる。
対馬以後の点の置き所、という関心で整理してみたい。
ちなみに、酒井氏はカシミールやネット上の地図データを自ら処理して画像を扱う世代の方だ。
著書10ページの図1に酒井氏が考えたルートが紹介されているので、皆さんは是非まず著書を購入してそのページを参照して下さい。

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帯方郡治→狗那韓國→對海國→ここから


【形式】原文の一部引用  :  [次までの距離]→地点名(現地名)→


又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國  :  [南 渡海 千餘里]→一大国(壱岐市)→

又渡一海 千餘里 至末廬國  :  [渡海 千餘里]→末廬国(洞海湾・枝光)→

東南陸行 五百里 到伊都國  :  [東南 陸行 五百里]→伊都国(築上町)→
(加えて伊都國は"郡使往來常所駐"とも)

東南至奴國 百里  :  [東南 百里]→奴国(豊前市)→

東行至不彌國 百里  :  [東行 百里]→不彌国(中津市)→

南至邪馬台壹國 女王之所郡 水行十日陸行一月  :  [南]→邪馬台国(別府市)→

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原文の所は、漢文で漢字が途切れなく繋がっているので、区切りなど漢文読みの文法知識は不可欠。
著者は当時においても距離などを扱う技術はかなり、と見なしている。それは中国技術史から、一般もわかろうと思えばできることだ。
列島での地図作りに、井上ひさし氏作のドラマから伊能忠敬氏の技術が知れ渡ったけれど、そういうことは中国では魏志の頃にも使われていた、ということだ。つまり伊能忠敬氏の地図水準の地図を描こうと思えばできる距離測量が行われていた。
それには、やはり帝国運営の内圧、というか情熱のようなのを今の知見から押さえておく必要がありそうだ。
常駐所の伊都国(築上町)へは定期的往来が必要だった。
地理的な確実性データを持っていたということ。

だから著者は面白いように簡単に解いて行かれたのではないか。

北九州域の独特さを押さえたくなる。
南部にかけての巨大噴火による絶滅が起こりやすい土地柄だ。
半島から帝国支配の圧が時に応じて影響しやすい地理的位置。
文字扱いを基本の一つにするし使いこなした官僚制を啓蒙圧に使う勢力と長く付き合うつもりの勢力が育っている土地柄。


さて今時の列島はというと、汚染マスク(タンを吐いたティシュペーパーと思えばわかり易い)を平気で使い続けるくしゃみ・せきをする諸氏以外に、せきやくしゃみをするわけでもないより大勢の諸氏までが、ひょっとしたらマスクは自分が感染しないだめと勘違いしてつけているかもしれない、そういう熱狂の巷を年寄りは、せこくせこく走り回っていた。でもネット発信が率直に言っているようで、列島の人々ってのは実際的な諸氏が多いから、一種の面従腹背の態度の一種と取っておいた方が、マスク乱舞のけしきには相応しいと年配の一人からは指摘しておきたい。
ただ、以前ふれたか探偵氏が言ってたのか、その一手目が上手だったように思う。仕掛け方が上手で、皆がそちらへ流れる振りをしておかないと浮いちゃうな、と思えるようなムード作りに成功している、ということでは、マスメディアは更に人気を落とすことを自ら演じてしまっている。啓蒙の貴重な装置だったのに、どうなることやら・・・。

ネット発信では思索の順を追える。だからだれかの発信について、ある発言があってそれに即応して過剰になってしまうことの必要のない当たりに、慣れれば、そう応じられるようにする。
いくつかの材料を得て、ある考えをネット発信してくれて、それも貴重だけど、更に材料を得て、率直に、しっかり以前の発言について訂正したりの作業をするわけではないけれど、そんなことあったの?!すると以前の推理では治まらないというか事実誤認にもなりかねないな、となる。そして読み手も材料のそれぞれについてある程度の確かさ加減を推し量りつつ、なるほどと受け取れたりする。
事情通、データ処理に長けた職業柄の諸氏でさえそうなのだ。そしてそれは現実のマスメディアを形作ってきた緒作業でもそうだったはすだ。
啓蒙装置であることはそういうタイプの試行錯誤面を見せたがらなくさせる。だから啓蒙装置としての営みは大変なことになってしまった。これはまた別の脈絡で。
一方に権威系として育てる部門と、もう一方でいい加減部門を両立させてバランスをとったつもりにさせてきたけれど、それこそうまく行きっこない。ヒトは確実さを押さえつつ、余裕をとりもどしながら生活を楽しもうとする。権威系もその方向性では必ず綻びてしまうし、ヤバヤバ系は、そういうこととしてでしか振舞えないから、いづれ飽きが来てしまう。どこにも重しとなるような出来事定置に加担できにくくしてしまう。
もちろん、より厳密に、出来事定置自体のあやうさへ言及するのは簡単だけど、そこまでのことではなく、日々の押さえ方としての確実さ程度のことが破綻し続けるあやうさになる。
だからといって啓蒙への試行錯誤を止めるわけにはいかない。そういうことだ。

ネットの即時性を応用できにくくする災害のタイプの時、や、それを支えるインフラが使えなくなる趨勢が生じてしまった時に以前に戻らないで代替していける数々への模索もきっと大切だ。

未だにウイルスそのものを指す略英語とそれがもたらす感染症現象をあらわす略英語の区別があいまいに使われ続けている、にも関わらず、通じてしまうことばの不思議を年寄りなので一応楽しんでいる、と言ってのけると顰蹙を買いそうだが、ついことばにしてしまった、よ。


君:あら!いやだ。私は・・それもながら、で、聞いてるだけだから・・・。仕事、忙しいのよ。


年寄りの関心からは、これからの世界では、インフルエンザに対しても今回のウイルス騒動のような対応を公的部門がとろうとするのかどうか、ってこと。とにかく膨大な特定層の死人がでることに変わりはない病気だから。でないとした場合、ロックダウンやらそれに近い制限をした政治・行政やマスメディア部門が相当な顰蹙を買うことになる。裁判沙汰もかなりの規模になりかねない。冷静になれば同じことに極く近くなることがわかってくるのだから。
感染者がわかった場合、インフルエンザでも膨大な病死者を発生させる。だから隔離してしばらくは巷に出ないようにするのか?
学校はしばしば閉鎖の事態がおこる。でもそれは学級とかの試行が生じたりを含む。学校の閉鎖となると地域の大騒ぎな事態に当たる。静まるのを待つ。
でも近所の商店が閉鎖になるようなことはまずありえない。
ただし、副島氏の新刊新書にあるようにお隣中国では武漢の当初、500人規模の軍事的医療スタッフ出動があったらしい。そういう特殊ケースが今回の出来事だとすれば、今起こっている様々な試行錯誤は、インフルエンザと混同してはまずいと思える。
そこらをあいまいにしたままだと、インフルエンザ現象と極似しているにも関わらず過剰な手段に訴えていると返されても、どう応じうるのだろう?(これは世界規模で言える)


探偵:う・・・ん、そうか、そういうことだとすると・・・・。そういうこともあったのかぁ・・・。本買って読めばよかったな。知らなかったし・・・。ネット最近見てないもんな。億劫でさ。航空システムのシミュレーションにはまってて、そっちが断然面白いんだ!
私:えっ?!それ、なんていうゲーム。
探偵:なんてたっけなぁ・・・。・・忘れた。最近、覚え、悪くてさ、ってのは冗談、だからな!!強調しとくぞ!、うん。
君:そうよね、会話、途切れないし、探偵さん、あいかわらず頭、冴えてるのでは。
探偵:おっ!いい感じ。さすが、君ならではの反応。うん、お茶、ご馳走しようか?
君:あら、ありがとう。じゃ、これだけ片付けてしまうわ。少しだから・・。
探偵:はいよ。じゃ、待ってるよ。おい、あんた、話はお仕舞い?
私:お茶、誘ってくれたんで、中断。またそのうち。
探偵:いいよ、行った先で、また話してよ。どぉ?
君:そうよそうよ。そうしてよ。
私:・・じゃ、・・そうしよう、かな、なんて。
君:でたぁ!久しぶりの”なんて”、ね。
探偵:なに、二人で盛り上がってんの、ちょっとじいさん、焼けちゃうよ。
君:えぇぇぇっ!!
探偵:な、なんだよ、その反応。イヤだなぁ・・・。早く、行こう、お茶。早く。
君:そよ、ねぇぇ・・。
私:なんか、そっちの方が怪しく盛り上がってない?
探偵:そりゃ年の功さ、ね。
君:そぉね。(遅れて私、追随ノリで”そぉね”)。