連載は続く~SF掌編『コロナ騒動、三つの話』編


コロナ騒動のからみで3つほど。

① コロナ騒動の初期、ヒトの身体の免疫系にとって新型で、自前の免疫で抗し切れないタイプのウイルス感染症(COVID-19)だ、とハッキリしない段階をそう初めの段階と見たい。そして、症状を各地で表し、RNAウイルスらしく変異を繰り返して、症状や免疫との絡みからも有意な変異かどうかも関心を持って追っていた頃を端境期として、せいぜい夏場頃まで。更に、軽症者多数を生じて、重症のあり方にある程度の落ちつきを見る頃を今に至る最終期を見なしたい。
 初期の段階で中国方式を真似て海外からの人々の入り口を閉ざしたことは実効性のある方法だった。非常時についての専門家諸氏も含めて多くが指摘していたことで事はある程度うまく運んだ。けれども、医療現場での患者殺到状態を未然に振是ぐための初期対応には失敗しており、その時点でかなりの見えない感染者を膨大量へと拡散させている。
 その拡散を受けて、医療現場はずっと多忙なまま夏場へ移る。
 拡散後にもどういった対処蛾可能なのか、症状について、夏場を迎えるころまで、世間では落ちつかないイメージで溢れていた。若者も危ないし、軽い症状でも後遺症が、とか色々ニュースが世間を騒がせ続けた。
 けれども、それと並行して、ニュースが騒げば騒ぐほど、世間での経験との乖離も体験が積み重ねられていった。
 報道シャワーで汚染された頭の持ち主諸氏においては過剰な反応が生まれて人権侵害的差別、営業妨害的なことばを浴びせるものが出てきていた。
 それでも大方においては、軽く罹って治ってしまうタイプがほとんどで、罹らない人々にとっても本当に罹っていないのか、罹ったけれど治ってしまったのか、よくわからない日々のようなことになっていた。
 それでも隔離政策が進行中だったから医療現場や保健所やの公衆衛生と関わる部門は休む暇もない状態が続いている。
 人々には集合現象向けに、緩急とか定型のリズムに陥らない、飽きさせない、どうしょもないストレスへと誘わない工夫が世の工夫としている必要上、商業活動の一環としての様々への参加が一時はある程度ゆるく許される状況を生んだ。
 蔓延しているから、ということを忘れたことにして、仕事が暇では困るからかどうか、突然、感染者が増え始めたから、そろそろ制限をはじめたいな、と言い出した。これが最終段階の途中経過だった。
 医療現場の逼迫の原因は、隔離策だ。広く公衆衛生と関わる人々を矢鱈と忙しくさせる。ただ働きしてないよ、ということを強いて見せびらかすわけではない場合でも、上司というのか指令部門からそうこられると、仕事をしないわけにはいかない。ここら企業勤めの諸氏においても昨今の事情ではそういう靡き方を大方において採用されがちと察する。
 だから問題の急所について議論することなく忙しく、そして起こってしまっている現象への対応を求めて、感染者増が原因だから、とか大勢に言わせている。
 危機管理部門がインフルエンザが仮に猛威を振るういつものパタンの時期に、危機意識を持って問題整理と対処法について毎回進言してきたのなら、それを是非紹介すべきだ。
 万が一、インフルエンザの毎年の猛威の時期に今回とは違って、たいした問題としてこなかったのならk、現状のコロナ感染症についても同様の判断こそが、より最適に近い反応と素人は考える。そうでなければ、本当に万が一のケースの判断を任せることはできない疑似専門家と見なすことになる。でないとサヴァイヴァルには使えない。個人で考えた方が良い、ということになってしまう。
 愚案に付き合わされることの危険こそが危機の時の大変さなことは、その危機を体験した世代でないと判らない場合が多い。理屈の多弁とか圧しの強さに嫌々付き合うことになりがちだ。そして実際の場では失敗を重ねる。
 軽いコロナ感染症への対処はもう判り切っている段階なのに、すでに蔓延している氏、インフルエンザでの知見を応用して、インフルエンザ時の対処で充分のはずなのに、見えないところでの老人感染を起こしやすい条件作りに励んでいる格好だ。
 検査したり強制が合ったりする場では両端にぶれる。一方は顕在化して、もう一方は潜在化、地下かし易くする。そして密かに別の病気として亡くなる場合も沢山出てくる。
 諸外国の便乗死因と鏡面関係に近い。

② よほどマスクにこだわらせたいのか、AI番組のほんの出だしのところだけ聞いて、その先は見てないのだけど、軽症で済ませるという論文が出ているとのこと。
 軽症で済むことに越したことはない、それは喜ばしい。でもマスクがそうする原因となるとちょっと・・だ。重いのが流行った場合の油断となりかねない指摘だ。
 それでは困る。こう軽いコロナ感染症ゆえに、そこら中に油断だらけの暴論に近いご託宣が散らばり出している。困ったことだ。サヴァイヴァルモードからは、採用できっこないのだ。どうしてかは何度も指摘してきた。

⓷ 公務員系諸氏にとっては法律が身近と察する。だから何かと法律にして、縛りを効かせて、そうすれば施策に実効性を持たせることができる、とかも発想されがちと思える。
 今、どうして医療現場を含む広く公衆衛生部門が逼迫しているかと言えばコロナ感染症への隔離策が前提になっているからだ。この軽いCOVID-19において。
 インフルエンザへの医療策に大きな変化が生じたのだろうか?多分違うし、前回かでふれたように、慣れれば、ある程度おざなりになる。これがいつものインフルエンザへの対処の医療ほかの姿だから。
 万が一に備える、のであれば、素人だけど、今の、現状へは不適用となる内容、既定だったら信頼できる、と指摘しておきたい。でないと、矢鱈と重宝がられてしまいそうだ。
 万が一でも専門家が過信しないで、自分が確実に指摘できる範囲は自分において承知しておいてもらいたい。後は、個々がその集団合意に従うか、個々で動くか、他人を傷つけない市民社会のルール前提に、ゆだねる策が最善だ。市民社会のルールはシンプルにお互い様だから、どういう闇の世界だろうと、それを尊重出来れば、危険因子とはなりにくくなる。
 そして世の中のつくり方ということの中枢と巷との自由の持ち合いの工夫の具体化とも成しうる。
 ここらは、そうできるかできないか次第で、歴史にさらされる。残る。記録として。
 色々な要素がそこに検証できるようになる。
 隔離方式の事例は列島では今になって有名になったのを素人が指摘できる。
 後藤=北里方式で、とこかに矢鱈とでかい施設で、でかいけれど、北里知見の粋を集めたような質のを作ってやらないとダメだ。後藤は自らも理解できたかもしれないけれど、政治的にも後押しできた人物だ。
 個々で日々の営業に手いっぱいの医療現場を多忙にする緊急時のボランティア的かき集めは効果を成しそうもない。
 今時の営業はスリム化し過ぎているから、いざと言う時に人集めするにも専門職の場合きっと苦労することになる。もっと研究的な立場のゆとりとかを持たせた職業生活改革が要る。ここらこそコロナでの生活変容として採用してもらいたいものだ。