連載は続く~SF掌編『こもらず、外の空気を吸いに、(今日も)散歩!かな?』編


デンゼル・ワシントン氏の出ていた映画で、生真面目なワシントン氏演じる役柄へ、同じ境遇だった人物が、(諜報も絡む)特殊作戦で活躍していると、何が正しいことなのか判断がつかなくなって当然なのだ。だから今こうしてお前から見れば悪いこと、残虐なことに見えるかもしれないことだって決して悪いことじゃない。だれもわからない。というようなことを言い放った。
似たようなセリフを映画はちらほら時々使っているように、振返れる。
少なくとも、映画を作っている人々にはそういう論が出てくるくらい大変な時期を向かえているというか、昔からそうだったはずだけど、今もそういうことになっていて、それへどう答えられるか、という肝心のところへと関心を誘っている。
などと素人老人ゆえに、推測しているわけだ。

テレビドラマでは日々膨大な人々が事件で殺されている。一本の一時間数十分のドラマの中で複数がお亡くなりになる。出演者諸氏はさすがに合掌して答えている。誰に対してもじゃないところが、ドラマじみている。

話題かどうかはともかく、ブレつつの強烈な映像が印象的なラース・フォン・トリアー監督がそれら被害者と捕まる前に殺されてしまうかもしれない犯人をしつこく描く映画を作っていた。
どぎつく、昨今の風潮へ一撃、的な印象論を語る諸氏もいらっしゃるようだけど、老人からはそう受け止めたくさせている。
ありがちな事件物では、犯行の詳細としては描かない。そこにはショッキングなシーンと言うことで配慮も働く。けれども、裁判とかではしっかりフォローされる。
それに個々性、個々の人生として受け止められるには、事実の結果報告みたいなのでは弱い。全体を受け止めることは、一人一人の人生にとって確かに重荷になるから、そこは常識的な受け止めで良いとは思うけれど、いざ振返ろうと思えばできる素材として、が必用なことは言うまでもない。そこではずっしると人生を感じ取ることができる。
ふとその躊躇さえ機能していれば・・・。が逆の方で動いて・・・。
しかし振返れればラース・フォン・トリアー氏の作品のようなどうしょもない時間を共有することになる。それぞれに見世物にしてしまえば、残忍ショーの娯楽に落とし込むことも可能なくらい、他人事なのだけど、ここらはポルノと同様で、一般人の普段の生活が、いつでも発情しているヒトでありいつでも冷静でもヒトという発情期を持たないゆえの苦悩くらいは気取って見せびらかしたくなる生き物からくる、他人の視線にさらされればそれはお笑いか、ゲテモノショーでプロフェッショナルなポルノとは似て異なる無様が落ちなのだろうけれど、ヒトの当たり前の様には違いない。(双方にとって)残酷な場面も見世物として見過ごしかねないとしても、わが身に起こってみれば、という話にすると、ヒトの内実は余計な煩いことを言うわいとかで受け止めがちなのだから、お節介はしないけれど、同情の足しくらい、話題提供の素材くらいには使える。
日々のなにげない娯楽として流しつつ、実はの感受性への逆効果の辺りに気づきながら、楽しむことは楽しんで、頭を働かせることは働かせてみたいな、啓蒙世界での生き方もありかな、など年寄りめいたことを時々(いつものことかもしれないけれど)言ってみたくなる。
十三金ノリだと、恐怖映画同様、ヤラレル側の独特のキャラ演出になってしまうので、そこはLvT監督の手腕として感じ取れるのではないか。(月が地球へ接近してくる作品の映画演出とかも)

ここから前回の一部を受けて、911の指揮命令系には、US の歴史は偽旗作戦で大勢を犠牲にしてきだのだ、なぜ今更ニューヨークのごく一部をぶち壊して悪い?!と逆切れ、居直りをしている諸氏がおられるかもしれない。
そこをきっとデンゼルワシントン氏は、そうじゃないな、俺と違うな(これは横山ドラマの一時間もののセリフからいただき)と返す。
そして懲らしめる。ドラマや映画では結構大胆にもその場で、償(つぐな)わせる。
現実は法治だから、しっかり事実関係とかある程度の真実の場を用意して、建前にしっかり形を与える過程が要る。そこを外すと、近代試行錯誤が希薄さを帯びてしまう。