連載は続く~SF掌編『ほんのり時事事情へ一言のつらなり』編


ヒトが関わることでの奇跡的な出来事は、とにかく、だれかれとなく関われている状況が不可欠。
もちろん、熱心に関わり続ける様々な要素も忘れるわけにはいかない。
けれどもそれらがより優先して関わりうるかどうかなどは成り行き次第なのだから、当てにしては混乱の元だ。
弁証法役割分担思い込み過多の状態での思想信条割拠の下、様々が(いがみ合っているとか温和に認め合っているとか様々を込みで)棲み分けている状態の惰性で成せることではない。
それぞれの向きがたまたま同一に向くようなシンプルな求心力が機能して、しかも働き掛け合いの同様の力の向きが作用してくれて、更に、人々の面従腹背のあり方における焦点のおぼろげがそれなりの方向性を持てるようだと、時に偶然というか奇跡的な機会ともなりうる。
集団活動に慣れた思考だと、個々のバラバラ性をついまとめたくなるだろうけれど、通常、ヒトは生き物だから、個々バラバラの思惑を人生の内に育て続ける。しかもお互いを大切に(実際的な範囲で)し合う。
そこらは、どの地域性においても通用する考えと察する。
その観測を邪魔するのが、より近い時期まで戦闘状況を経てきたかどうかだったりする。
女子供への守りの姿勢を担う性があるならば、それらは、守られる側からすれば、暴力的、強圧的とも取れるような、心身を育てている。そしてそれは日常の感覚からすれば、恐らく異常に映る。その当たり前感覚を失ってしまうと、あたかも伝承のような発想で、事態をその土地柄は見做してしまうから、事態収拾は面倒なことにしがちだ。
更に、そこには宗教的信じ込み圧も、と言い及ぶ段で、宗教ということをふれておきたい。
端折った云いになってしまうけれど、ヒトにとっての確実さをめぐって、宗教ということばで括れるヒトにとっての事象を説明しやすくする。
宗教というよりは神概念、を持ち出してしまう。
ヒトが疎の状態で生業(なりわい)をこなしていた頃から大きなうねりのように粗密を繰り返して、今日の状態へと至る。氷河期を生きている以上、今後もきっと似たうねりに巻き込まれやすい。こう予想することは、た易い。
けれども、いつの時代でも、ヒトは確実さを希求し続けている。
どう確かに次を踏めるか。
そのために様々を工夫してきた。
サヴァイヴァル状況では、空気を読め!系な諸氏という迷惑な連中をあぶり出すことは非常に簡単だ。でも、集団の営みの力学が働いて、その馬鹿げた方法に従わらせられる圧から逃れやすい諸氏も居ればそうでない諸氏も居るようなことになる。
そういう不可抗力も働きやすいけれど、通底しているのは、確実さを内面では追い続ける。
どうすれば、その窮状・急場を凌げさせるか。
ついでに、実際的であることが通常としてきた列島育ち系には、空気を読め系はごく少数派だ。世論作り系のなんらかの思惑が、別のことばをたまたま一時的に流行らせたと想像するしかない。巷では空気を読め系のように他を依存する独り立ち不足のだれかを警戒する。そうするし、だけど表向ききつく態度を示すこともない。実害を生じさせそうな時にはだれかれとなく、力を削ぐような工夫を注ぐ。
確実さを探る営為の過程で、観測とか素材の処理をめぐって、どれをどう・・的な、秩序系をも揺るがすそれなりの、取捨選択をめぐる面倒が介在しやすい。
それでも相当に確実さの手順を育て伝承する地域性を育てることに成功し続ける。
そうはいっても、既知の、手持ちの”道具立て(観念系が育てててきたのも含めて)”では、どちらもどっちと表現手法上は似たり寄ったりにしてしまう争点も生じる。そういう時に、構成員諸氏にとって確実と受け止めさせる実際的手法を要請させる。
今時の多数決とかその類の工夫を模索し続ける。
いつでも自分らが正しいと、個々性において、ではなく、集団の営みの部分要素として、成り立つようなことも生じやすい。ヒトは一面、面倒くさがり屋だ。
でも、それは墓穴へと通じさせやすい。
墓穴直行組はその通りに自滅していったはずだ。
そこまで自らを誇張しない小集団の営みでは、自活組織化して、例えば宗派のような営みとして、育ち、伝承の循環を可能にしてしまう。
こういうと昨今の時期での宗派の営みを担う諸氏においては貶めることばのように受け止めるかもしれない。今は今で、ヒトにとっての集団性の不可欠の要素から、部分性を謙虚にしてくれていればの話で、充分に欠かせない要素を担いうる。
ヒトがハグレザルのように人生を全うできることは相当に難しい。
恐らく、育て続けてきた観念系という働きがそれを許さない。バランスよく育ち続ける必須の要素としてのもまれ合う集団性が要る。
何らかの導き要素も、それが洗脳的秘密兵器となってはまずいのだけど、時々の惑(まど)いでの導き手、助力としてなら、充分に働いてくれる。観念系はいつでもぐらつきがちだ。
だからこそ活かせるとも言えるけれど、そう気づいていても、ぐらつく。
ただ、確実さの担い手として自己主張できるし、力関係次第では、それっぽく振舞うことを可能にしてしまうのだが、そういうことは集団の営みの中では、非常に迷惑なことになる。むしろ個々の営みと、それら試行錯誤を可能にする下積みの支え役になることができる。
しかも色々とか、十人十色的な押さえ方で、済む事態ならばいざ知らず、そうも言ってられない多くとか深刻にヒトの人生を左右するような事態は一人一人の人生においても結構起こりがちで、そういう時に、確実さを提供できる必要がある。それができれば苦労はない。そういうことだけど、だからと言って、個々の試行錯誤を無用とするわけでは決してない。
しかも、だからなんだけど、ヒトが何かを成す、成し続けるに当たっては、それが沢山を巻き込んでしまうことなの?或いは、お互いの距離を測って、棲み分ける方を優先させながらの試行錯誤の過程なの?のような大枠を提示できたりもする。
これはこれで話が長くなってしまう。
確実さを求める作業の困難はサイエンスの営みとして一応結実させているのが現状で、方法をある程度尊重し合えるならば、派手な争いにしないで済ませられる。
確実さの度合がかなり近い場合、ないし、別次元発想同志と認め合えれば、それら夫々として試行錯誤の場を持てることがなにより、となるわけだ。
ただヒトのくせをしっかり押させることもそこには重要になる。
しっかりまとめて整理できた教科書を仮定して、それをしっかり頭に詰め込んだ専門家の状態だと、慎重にならざるを得なくする。観念の働きのくせだ。たくさんの確実さ、分岐を読み取れ、しかも既知において、そう認識できる、という事態くらいは、認知できる頭脳を想定できる。
これからか今そこで、発明、発見、観測がありうるかもしれない。そういう事態まで込みで思考、観念操作できている。
一方で、それら観測や研究の集中段階を経験しているところの諸氏においては、謙虚云々どころの話ではなくなっている。既知への疑問などが背景に働いていたりする。それでは確実さは得られない。この発見をまとめることで、きっと既知の整理の制約をなんとかできる。そう予想立てていられるしその確度への強度は相当に働いている状態だ。
だからサイエンスの事態についても個々の姿勢にざっと二様くらいは指摘可能だ。
そして、バタイユ氏の指摘も踏まえておくことが要る。
個々における観念の育て方の入り組みにおいて、理解されやすさ、難(にく)さ、が、単調な形ではなく、いつでもありえている。
この地点は実際性においてのわかりにくさだ。
確実って?とならざるをえない。
しかも実際的にヒトは振舞う知恵というのか経験を積み重ねてきている。
その込み入った事態を出来るだけ温和に通り過ぎさせる知恵は、個々の営みを他者巻き込みの実害を少なくできる工夫込みで、尊重し合える、その後への展望次第だ。
アラビアの知賢は、宗派系が発達して、ヒト観念の自由を奪い兼ねない趨勢も紛れ込むようになった人世紀に、神を確実さの試行錯誤へ引き寄せて、ブラックボックス手法応用において神と成している。確実さを説明し切るほど現ヒトの実力は及ばないにしろ、神にとっては全てが熟知されているし司っているだろう。それらこそ前提に出来るのだから、後は、入力と出力の間に再現性の確実さを認めることができるならば、御の字とすることができる、という便法であり、明確な工学的確度認識手法だ。
そこでのブラックボックスを神秘とした。現状ヒトでは届かないけれど、神からすればわかりきっている。なぜなら確実な再現性を得ているのだから。わけのわからないことを差して神秘としたのでは決してないことが重要だ。工学発想は相当に昔から育てられていたし、宗派系が覇権を競うようなヒト観念にとって危ない時期であろうと、そこを押しのけて、ヒトの営みを妨げなかった。そうだからこそ、今日を迎えられている。


放送大で『地球史を読み解く』を担われた丸山氏のことは何度も印象させてもらっている。
生命発生についてどう仮定しているか、昨今のRNAウイルス(SARS-CoV-2)騒動を踏まえて、少し調べたくなっていたわけだ。そのために youtube にて公開されているビデオの最新版(’20)をその箇所前後を見ていた(全体を通すと一時間以上の長尺もので、中身が濃い分、通して見るにはそれなりの準備が要る作品)。すると、プレートテクトニクス発生、起源についてしっかり仮説を提示されていた!
ここらは、丸山氏ら(ここが大切、”ら”です)がハビタブルとかのことばによって、生命が居るかどうかについて判断するためにいくつかの条件を持ち出せることとも関わる。かけがえのない偶然の重なり。歴史性とも言える。ことばの上で同じことが生じるなら、同じことが起こってもおかしくないよねめいた。安直な推論。そういうことを歴史性ということで、可能性の度合を自ずから想定させる。
巨大小惑星が原始地球に衝突。衝突のエネルギーが、いくつかの要素を生じさせて、当時の海部、陸部が意味を成し、衝突クレーターの凹地の海の衝突地点でのホットスポット的な動きが隆起を生じ、その流れで、重みによるプレートの横動きを伴わせ、陸部に寄るところで沈み込みを生じ、となると、図式的な今日慣れ親しんだ(20世紀の途中から身近になった考え)プレートテクトニクスの動きの一面そのもの。
で一度動き始めると、もう後は、成るように動くだけ。帰結は地球の形がある限りの話。


待てない連中は明治維新前後を生じさせて、今でもそこでの殺傷事の悲惨から怨念を消し去ることはできないようにしている。
伝承を担うことは非常に大変そうだくらいなら、だれもが想像できそうだけど、内実を確実に伝承できるものなのか、への疑問は、だれも、他人のことだから、で終わりにしたい話に違いない。
それくらい、実はかの藤原氏でさえ、初期から今日へとその思惑の内実が伝承されてきたようには素人には思えないでいる。
実用の情報力は20世紀前半期での近衛氏の情報力の凄さを示すご自身の文章から察せられる。でも明治の特殊性を踏まえた、江戸の奇跡と天皇の位置づけなど、考慮できていたのかどうかとなると明治とその後が答えとなる。

似たようなことは、支持者を装う待てない連中が、いくらでも状況へ作用させるようなことが起こる。

大統領府では、やる気のある部門がいつも作戦を推進中だ。
だから恐らく現場に慣れてしまった思考が惰性化した内部の人々にとってはそれも作戦の一つと捉えがちにして、その質量について細やかな感受を瞬時にこなすことには慣れない状態にしがちと想像してしまう。
そういう状態では、作戦部門のやりたい放題の少し近いところで事態が進行しがちになってしまう。
けれどもトップの成り手次第では、一般の感受アンテナを発揮できて、それって単に戦争やりたがりと違う?!と即時反応できたりする。そしてその人物含め、進行に横やりを入れることを可能にして、市民社会の安泰をなんとかなんとか保つことができるようにする。

(だからということではないが)政党とかの勢力争いにわざと沿わないことばを用いたい。
今のコロナ騒動は、大勢として軽く済む風邪現象と確実に見なせるので、対処を誤らなければ、ないし思惑過剰の”作戦”の構想に固執しない限りで、そちらへの費用を節約出来る上に、経済の営みを、問題点など事態の進行の中で見え見えにもなったなどは、禍転じて福となすの事案として大いに使いこなすことにして、回復へと持って行けるし、それまでの窮状を引き受けることに再び気付けるようにもする。
BSの報道番組では、風邪を蔓延させないで縮小するということばを選びがちにしていた経営の実の担い手諸氏には素人ながら、今回の特徴を踏まえて、蔓延させて、ほとんどは軽く回復して、実働の方に向かわせられ、今年のこれからはほとんど心配しないで、大変な経済状態へと向き合えるようにもすると、発想転換を促す方でアドバイスしたくなる。
氏は詰まった医療現場について、一面、粗製乱造医療専門家部門への危惧も含ませたアイデア発信をされていたのだけど、危ない方ではなく、詰まらない、医療現場の準備へと思考を向かわせる提案は実際に応用力ということでは貴重だ。
ワクチン以外の策を大胆に研究させて即効性のある列島の実際的思考の持ち主、素質の持ち主を信じて、成果を期待したい。
いざという時に、数か月でも長すぎるのだ。現場で専門家が次々に”討ち死に”では、話にならない。より多くの患者を診ることで傾向を素早く整理・察知して、次なる応用へ繋げないと、間に合わない。
そのための免疫が要る。防御も大事だけど、生命を前提に、免疫を持たせるに越したことはない。(ウイルスとかとの)お互い様の安心感をいち早く大勢に、だ。
風邪を経験してきているヒトがなによりもそこらを実は熟知しているにも関わらず、専門知の棲み分け方に失敗したのか、日常知としての経験の応用に繋(つな)がりにくくしている。
だから、意外に政治をやっている諸氏が実際的感覚を失っていないことに気付かせた。
医療部門の専門家諸氏は対症療法発想をしっかり身に着けている分、ファウチ氏がトランプ政権時に、イギリス産変異ウイルスのデータからの知見を聞かれて、変異が重病化をもたらすようなデータは出ていないよ、とさりげなく、心配過剰演出を目論むマスメディア系の圧を流していた。それが、バイデン政権になると、心配過剰のりヨイショ部門担当になったようなことばが多発するようになっているから、対症療法に馴染む近現代医療のくせの発揮と素人は見做してみた。
列島政党部門系諸氏は、そこらはより実際的に、今回の演習状態を前提に、獲得免疫の趨勢作り発想を逃していない。だからワクチンが効くかどうかへのこだわりを持ち込むと話はややこしくなるので、ここは大幅に譲って、一応、少しは効くのだ、として、話を進めと、とにかく得られるならば、そして検証もしっかり経ているなら、それは採用して、欲する人々へはそれを提供する。安全性とか、副反応でも大丈夫なことを踏まえて宣伝もする、と言っている。ここらは与野党とものようだ。押しつけでもないことが、列島育ちらしい。でも立場上、宣伝するとやる気を見せびらかす。
呑気な騒動である今回はそれで済む。でも一応、重病系が蔓延しやすい場合、インフルエンザに罹ったら、ほとんどにおいて例外なく重病過程を経る感染症をもたらす、と判明するような事例の場合、先のように実働部門へはいち早く免疫獲得をもたらさないと、後がつづかなくなる。畑を耕す人々がいなくなって生鮮品が巷から失せたらという程度のことを輸入とかの話にしないで、想像してもらいたい。もちろん、先に医療現場がパンクしてしまう。しかも次の担い手は赤ちゃんとか幼児たちだ。未だこれから教育が要る。列島在住の発想で医療を伝授する人々が極端に減っている中で。こんなことは悪い冗談だから、とにかく、いち早く、免疫獲得の手法を応用している。ここらは今は口にされていないだけで、専門的研究層諸氏は熟知されていると想像する。それらをとにかく一つ一つ試行される。そして急場を凌ぎつつ、より多くの回復も試行される。
でも落ちつくのは、より多くが罹って、その偶然の中で、病原のくせも熟知されるようになって付き合い方がわかるほどに免疫獲得者以外を探すのがむずかしいくらいの頃だ。
風邪タイプとの付き合い方とはそういう感じになる。
このタイプでは間違えても感染しないようすることでもたらされる恐怖状況を先送りしないことだ。


ヒトも問題だ。だから、思想信条の自由のあり方への工夫は欠かせない。
どのお国柄でも大変な試行錯誤が始まっている。
何度もことばにして、しつこくなるかもしれないけれど、政党活動と思想活動は別部門として活性状態を保てていた方が、ヒトには向いている。
ご意見番どまりになるかもしれないけれど、思想系の煩型はその節度への繊細さが求められる。
政治系は実際的に、人と交わりながらが必須だ。でないと、他者への軽い扱いについ慣れやすくさせるのも大量な数を相手とする選挙とかで活動慣れしてしまう危うさだ
近現代の志向を共にする限りで(人類学が各土地柄の必須を見出す変身も遂げてきた辺りを踏まえることができる。つまり植民地営業用だったかもしれない諸学問にも近現代からするお互い様発想が機能しての辺り)、考え方、思想をめぐる信じ込みたい欲とか、個々に任せられる。性に合うかどうか程度のことなのだから、実際には。こうことばにすると、実質での大変な思いをしている諸氏のことを助けられなくするのではと心配されそうだ。
前提がお互い様なのが近現代での培った志向だから、そう心配は要らない。むしろ、思想信条に凝り固まって非寛容になる方が危険だ。ヒトの観念系はそちらに向いて、安心したり、面倒を避けたがる(実際には面倒事を生じさせるのだけど)。
貧富の格差問題の解決法は難しい。
ただここらへも、素人流は、支払い手段をはじめ、資源をより多く使いこなせる立場をめぐって競い合うことの知恵、ということで提案はし続けている。
個々の生活の場では、確かに、支払い手段の大小から、使いこなせる道具立てがかなり違ってしまうのだけど、たまたまインターネット環境だと、仮想的な使いこなしの範囲では、かなり節約生活が可能になる。
後は、それゆえに得た時間を手作業でどう関われるか次第だったりする。
地震の多い列島環境だから、それなりの住宅も欲したくさせる。そうなのだけど、そこらをできれば制度の面で下支えというか、資金面ということよりも、再起可能性のための制度的準備が必用に感じる。
どこだって壊滅的な万が一のことは、滅多に起こらないけれど、どこかしらでは起こる。
その際に判っていることは、作ったものは壊れる。壊れない場合もあるけれど、隣りが壊れてその隣は大丈夫ってころも充分に起こる。だから再起可能性をしっかりお膳立てしておけることが政治的活動には重要だ。
お隣中国だって思想家発想系と政治政党発想系とかごっちゃと想像できる。
しかも今の仕組み上、そこらをわきまえて分離することを内部的には難しくしてしまう。
政治的な決断によって、少しだけずらせば済むことが、進みにくい。
大(中小)国間の諜報脈のもぐりこみと作戦の入り組みも相手にしながら正論で行くしかないようなもう一つの線も見え隠れしていて、ご苦労は大変なもの、とUS事情同様、他国のことながら素人流の想像を逞しくしてしまうわけだ。
それでも、同志たちが考え方は異にしつつ、個々の人生を侃々諤々(かんかんがくがく)楽しめるような土壌を備え続けられることは、お互い様環境には欠かせそうにない。