連載は続く~ SF 掌編『コロナ騒動とか US 1950年代SF映画とか』編


コロナ騒動では面従腹背という大人の態度を落ち着いて表現されている諸氏においても、遊ばれてるかも・・くらいのちょっとした勘くらいは働かせているのでは、と察する。
先日少々引用させてもらった喜田氏などはかなりの対インフルエンザ準備を自ら担い、多方面に働きかけられている。
だから今回、コロナウイルス系ではなくてインフルエンザウイルスの騒動ならば、列島に限っては相当な対処か、インチキっぽいかどうかの判別まで可能だったと言えそうだ。
既知から外れたとして、どういう外れ方かのサイエンス知見・作業は並ではない。
だからインチキするほうもばれないための準備費用が合う合わないの天秤にかけざるをえなくする。
そういう意味でも準備は予防効果を発揮する。
たまたま、コロナウイルスだったので、そういうことが適わなかった。
だから遊ばれているのかも、という疑念も、少しくらいなら示しておけそうだ。
だってインフルエンザウイルスがいたずらしたとして、その細部をかなりのところまで短期に探られてしまって、きっとたどり着いてしまう。
だから万が一いたずらが混じっていたなら、コロナウイルスしかなかった、という仮説も成り立つ。
ただそうやって故意の方の話で盛り上がっていてもしょうがないわけだ。
列島はすばらしいことに喜田氏がデータ整理ほかの準備知見を列島のメジャーな部門に啓蒙できて、準備もしている。他諸国からすれば、それは脅される意味じゃないけれど”脅威”だ。侮れない意味合いで。
ということは、恐らくコロナ騒動をきっと使っている。なんらか対処の為の準備に予算を得やすくして、それをこなしている。今度コロナ騒動が出たら、なんだかわかんないけど慌てろ!めいた発信ではなくて、わが国ではもう準備万端!のような発信が予算豊富な諸国から発信される。他が困った状態で、取引を持ち込まれやすいかも。
当てにしすぎては駄目なワクチン作戦は補助手段として研究は続く。
当面の治療薬開拓は、対症療法では、の欧米発想医学・医療部門として避けるわけいにはいかないだろうから、きっと機能、機序面から使えそうなのを探して、更に新薬とかへと貪欲じゃかなろうか。
既存の薬品の中に副作用とかの心配のない混ぜ物・合成物の少ない薬品も見つかっているらしいので、そこらも列島を初め、かなり試されていく。
そうやって喜田氏の言う、病状としては重くさせがちな季節性となって繰り返しやってくるコロナかぜやインフルエンザの症状でダウンしないで済むよう現代医療は取り組む。代替系もそこに、確実な臨床を明解に整理して提示できるようになれば、より安価で、副作用に悩まされない風邪の治し方として定着させていける。

今になって、騒ぎなれした解説者諸氏は、ことばの選び方も慣れて、慣用句盛りだくさんで、素人視聴者からすれば、大丈夫?!状態だけれども、そこはマスメディア業界ゆえの性(さが)だろうから、他の番組でも見て口直しするか、見ないかとかとにかく滅入らない工夫は必要のようだ。

同じ時間帯の番組を選択できるように沢山作れる条件を用意してしまうと、番組毎に趣味に応じた住み分けが生じてしまうらしい。感覚的になんとなくわかりやすい。
それもまたちょっと問題だろぉ・・・との多くの声が聞こえてきそうだ。
幸いか、列島ではそう極端に同時間帯に選択できる局が膨大というわけではないか?よくは知らないけれど、どうなんだろう。
宣伝広告番組か有料放送かくらいの印象は濃く持てている。だから見るテレビ番組を選ぶというたまたまの時間帯に実際に選択肢に上るのは、かつての関東圏だった数局とかだったのと、ほとんど変わらない。
これはこれで、なんとなくただ見てしまうようなことに誘われかねないので(誤解のないように指摘するなら、当方にとっては、ということで、番組の作りがおざなりとかなんとか批評するつもりはありません、ここでは)いつでも力の入ったスペシャル番組ばかりというわけにはいかないもんな、など知ったかする素人が突如登場していたりする。
集合現象まで想像できて、選択肢の多さで弁解できるかどうか、となると、結構民主主義の実際的(!)達成とか試行錯誤というのはそれなりに難しそうだ。
列島では、週刊誌とかワイドショーとかそれなりににぎわすから、怪しい脈に支えられて結構な立場の選挙に有力候補として出るところまではできても、それなりの裏情報が盛んに世間をにぎわせる仕組みくらいはできている。そうでない土地柄だとどうしたって、情報通の公式筋が公式になんらか対処せざるをえなくするから、本当に、歴史的な民主主義ね向けた試行錯誤というのは難しいと素人考えを持つ。
それと、同時期論は以前、ちょっとふれた。この時期をごいっしょできる諸氏がこの時期を演出できる。構成してくれる。そういう時代相をいっしょに体験していく。
テレビとかつい見てしまう年寄りなので、ニュース報道の表舞台でストレス一杯かもしれない役をこなされている諸氏は意外に身近に同時代をごいっしょ系かもしれない。映画なんかで僕は知ってるよ、そりゃそうだろう、自分はテレビに出てるからね、とかの会話と瓜二つの現象。そういう不思議なことが起こっているのもマスメディアが発達した諸国ではごく普通のことで、わずかの諸氏への圧が相当、という事態だ。(業界の内輪事として)ケアとかきっと大変なのではないか。
ドラマもそうだ。ただBSでは再放送が多いので、一方的に役者諸氏を同時期の御一緒系に見なしてしまっている。ここらは年寄りのことだから、多くが許してくれそうだ。
この時期ということを考えされられたのが、先日BS103で放送されていた『禁断の惑星』('56)。
多少怪しいタイトルだけど、実際に意味深い。理想をめぐる思考のある方向を突き詰めて、その試行錯誤の場となった星を先に訪れていた人物と後から探しに来た人物たちとの遭遇の話。
そこで語られる言葉は、それなりに実際的に響く類だ。参考になるものだ。
そういう作り方が1950年代前後から60年代にかかったあたりまで可能だったUS映画業界を想起してもらいたい。最近のBS放送映画を参考にして・・
1944年若草の頃
1947年殺人狂時代
1948年イースターパレード
1948年赤い河
1955年足長おじさん
1956年禁断の惑星
そして1950年台になると先のようなSFが沢山登場して列島の映画館でも公開になっている。
本日見た『地球の静止する日』(The Day the Earth Stood Still '51)も、実際的な考え方に近いほうで物事を判断させるようにして理想を論じている。セリフことばで論じている。
実は、『禁断の惑星』(Forbidden Planet '56)からの刺激で当時のSFの中から難点か選んで安価だったものでまとめて何本か購入して見ているところです。
そういうことを経ているから、たとえばデンゼルワシントン氏演じる主役に向かって(公務員の諜報や特殊任務に就いて)自分たちにとってやっていることが正しいことなのかなんなのかわからなくなる、と言ってのけて居直り犯罪者として振る舞う人物を対置してのある語りも可能になるのかな、など思い浮かべた次第。
(国際的な関係性の中で警察役をこなすとか)大国って大変な立場だ。
コロナ騒動はマクロな大局の出来事に目を向かわせがちにするかもしれないけれど、いつも瑣末だけどじんわりねっちり関わってくる改良できればそうしたいな、の辺りの難所がどこかへ吹き飛んでしまったわけではないし、ついでの難事も副産物として残していきそうだ。