連載は続く~ SF 掌編『時々、お役立ち、三話』編


つい先日、メタンハイドレートが溶け出すと地表面での温暖化に拍車がかかって、大変な事にもなる。ということを紹介してくれる番組を見ることができた。
地表面での気温上昇が仮にメタンハイドレートを溶かすことになれば、事態は、悪循環となって、温暖化ガス=メタンが有意な量、空中を占めるようになって、ヒトの生存にとってどころか、地表面規模での異変を生じさせかねない、という内容だった。
ただその性質こそがかつての地球に生命を誕生させるお膳立てとなった、という知見も合わせて紹介されていた。
この番組を見て、素人ながら、なんとなく安心できた。
地表面の気温については、今が氷河期の最中、ということで、かなり低いけれど、地球史において、ずっと高温気温の時期を驚くほどの期間経て、メタンによる温暖化相乗を生じさせること無くきている。
シベリアの巨大台地形成を担った巨大噴火の時期にはさすがにメタンハイドレートが溶け出してその量が半端ではなく、地表面環境に甚大な影響を与えたと、先の番組で紹介している。そういう地球史上でもごく稀にそういうことは起こるけれど、地球史における高い気温の時期程度では、地質的時間を経ても起こりにくい。ということに、今時の啓蒙データを空想した上で、安心の材料としていた。


ところで、介護は職業的に担っても実は難しいようだ。そこらを9割以上の諸氏においてヤバイ方で対応してしまうよ、と指摘してみた。
で、今日、ホンダのF1技術陣のノリを感じ取れる番組も録画しておいて見た。
技術系は、時に競争的な関係性のお膳立ての下、自チームの技が他の試行錯誤よりも凄いぞ、という実際を体験してみたくなるみたいだ。やはりヒトだから、単調さでずっといくというわけにはいかない。技術のエキスパート諸氏においても同様だった。
それを見て、介護のことも想像したくさせた。
なにかのイヴェントの盛り立て要素に介護技術を競うというタイプはきっと各地で行われてそだけど、ホンダ技術陣だったら、それでは、社交場は好い顔をしてくれそうだけど、本当のところ、物足りないんじゃないか、と思え、技術・技能を絡めた場合、同様のノリを用意する必要を感じた次第。
そこで空想劇場。
介護技(わざ)自慢の諸氏に集まってもらって、技能コンテスト。
答えは無いタイプの設定をその場で出して、解決してもらう。
そして見ている審査員諸氏が一応、様々な指標から判断して、暫定の優勝ほかを決める。
なぜ暫定か、というと、とりあえず、審査員間での論議は経ているので、審査された競技者の異論を聞く(人数上、上位入賞者に限定はされる)。ことばを使いこなすタイプ、ということも求められてしまうけれど、審査員はこれこれについて見逃していないか?とか優勝者が一見平穏に済ませているようだけど、実は・・の所を指摘して見て、検証にさらすとか、見られているようで、見られていない技の箇所を再演してみせる機会を説得から得られるとか、その過程を経て、最終的な順が決定となる。
ただここで終わることは無く、いまや介護のグローバルに技術・技能は共有できたほうがいいので、世界交流の機会への参加資格を得られる。
その場で各国の様々な条件化での介護技を紹介しあえて、学び合えて、指導者知見を持って、帰ってくる。必ず啓蒙する機会を提供される。介護職の忙しさはあるけれど、時々、出かけて、各国の巧み介護技を紹介して回る。自らの応用技も披露できる


前々回くらいでは、読み手にとっての、というところで日本書紀の書き手に関するα群、β群という森知見についての素人考えを持ち出した。
むしろ書き手にとってのなんらか、を想定しての故意なりも想像できそうだ。
書き手がオリジナルの資料を読み込むことができない。それでは書き写すこともできないのでは?と思われそうだけど、口述による伝達でもいいし、メモにして渡しても、できる。
そのかわり、オリジナルの記述内容は本当はどのような内容なのか正確なことはわからないままになる。ここらは、正格漢文の書き手である中国生まれの諸氏に対して、列島事情の知られたくないところをアレンジして写してもらいたい場合に、使える。
第14巻から21巻までと、第24巻から27巻まではそういう性質をこの場合、想像できることになる。
この想像の前提としては、素人考えになるけれど、既存の状態として古田系発想諸氏にも、雄略期に中央集権を達成していると見る現メインストリーム発想諸氏にも、異論となってしまうけれど、九州王朝の中央集権試行錯誤中も含む、そして中央集権ではない列島の状態だから移住してある系統の集団がどこかずっと遠くに住んでいる、ということも起こっている。戦国時代の群雄割拠とも性質的に相当にことなる散らばり。
古墳期の散らかりには、限られた脈の有力層の啓蒙的展開とその浸透度の希薄さとして、仮説を持ち寄りたい。今日の姿がその答えとしたい。
だから文字の浸透の仕方、ことばの浸透の仕方も脈次第、脈とご一緒のような展開を想像しておく。
かなりの偏りを想起できる。
そこに、残党諸氏が荒らして、事件に巻き込まれてその犠牲となった当時の”市民”たちの反感を意識しながら、同じ脈でありながら大国と決着をつけて生き延びた人々の中の指導層が大国の圧しを得て、官僚的知見・技術を持った人々も使いこなせる条件付で、中央集権に乗り出したとしたら、それこそ極端に面白い大河ドラマになるか映画にもなりうる。
だから、大国には言いたくない要素と、中央集権が上手くいって、立場を強めるような粉飾を可能にするなど、いろいろ史書を作る際の工夫は当然のようにありうる。
そして無理は長続きしないから、六国史は途切れることになる。ここらも映画とかドラマになる。しかも現状へと連なる知見たっぷりじゃなかろうか。グローバルななんらかとしても、役に立つ。