連載は続く~ SF 掌編『歴史を仮説してみた』編


列島という地理的な範囲を想定できた上での統一体を藤原氏にゆだねられた、というタイプの想定を前提にできたときに想像できるその先を、またもや素人流ということでお許しいただく。
これまでも藤原氏が"権力系の天皇制"っぽくさせてしまう引力圏の"素"と素人は仮定してきたので、そこらはそのまま使ってしまう。
ついこの間まで、ないし未だに有力層がある程度見えてはいるけれど、それぞれ自立的で、その力(集団を営む上での改良力も含む衣食住を伝承し続けられる技(わざ)系の力などなど(ということで気持ちを動かせる芸能・芸術系の力も当然含む))をそれぞれなりに有する勢力として散らばっている上に、先住系との工夫もそれなりにこなしている(ここらは以前引用させてもらった松本建速氏『つくられたエミシ』知見を参照)列島での起源的歴史はそれほどではない人々の言語空間が濃く作用しがちな対大国との関係性を想起しておきたい。
その前提を想定できる場合、中央集権を描くことの困難くらいは想像できそうだ。
作為に基づく計画的な事業が実質を形作ってしまう。でも、それを気づかせて、何か、いいことがあるかどうか。きっと主流はそう考える(はずだ)。
だから中央集権のある種の継続的性質を前史に挟み込むくらいの作為を要請された(はずだ)。
実質的な担い手を任された藤原氏をいかにその位置に継続的に就かせ。実力も発揮してもらえるか。そこらは大国側の濃く関われる時期の初期の段階での心配だったと推測することは素人の憶測にしろそれなりに通じるのではないか。
これまでのバラバラ状態。ただし、物部氏とか蘇我氏とか教科書知見でも紹介されているような有名どころを忘れるわけにはいかない。
そういう、古墳考古知見から欧米では既知の蘇我氏の実力について、名前から軽くつい見てしまう列島のことば発想は、棚上げしておく必要を素人なりに指摘できる。
だから実際に蘇我氏の人物たちに当てはめうるだれかたちを文献・考古資料に詳しい、いかにも歴史系な諸氏において、具体的な表現を試みてもらいたいところだ。
ただし、ここまでの想定だけだと、既存の色々が出てくるだけにしがちかもしれない。
ここでまたもや素人がこれまで勝手に仮定してきたことを持ち出す。
バラバラにしろ、(列島での歴史がそれほどではないことば上、ある程度通じやすい集団たち)各氏族系にとっての、なんらかまとまり感を表象として感じ合えるなにがしをきっと育てていたはずだ、ということで今で言う天皇に当たるだれかを想定してきた。
しかも更に肉付けとして、どの集団のだれか、がわかってしまう表象性を帯びさせない工夫として、大奥的な多妻性を考えていたのだけど、いかにもなその形はひょっとしたら九州系の王制とセットのあり方かも、とも今は思えているけれど、そこらは、事情通諸氏の発信でいくらでも当時のより相応しい歴史に近づけうる。
ただ、とにかく今のような皇族を生じるようなことはありえない。それぞれの氏族脈こそが重要で、そのまとまり感をただリーダー層にとっての共通の表象として心身に感じ取れる要素だったわけだ。だから重要すぎるほどに重要だけど、一般にとっては知らなくても良い。リーダー層脈は伝承しあう。奥義系の内容だったかもしれない。
そして既に王制の九州系にとっては他所のことに属したはずだ。
なんらかバラバラ系の方でのまとまりを表象していた今で言う天皇的位置のだれかというか仕組みを助けに使って、中央集権ぽさの継続性を演出した可能性を指摘することが肝心なこととなる。
中央集権ぽさのかなり希薄な土地柄にかなりの短期に中央集権を持ち込もうとした試行錯誤のごく初期に、結果かなり上手くいってしまったのだから、歴史知見としてきっと貴重で、応用のための基礎知見の一種の可能性も指摘できる。それ以上に、そういう作為が想定外の偶然の均衡を生じさせて、一見いい加減そうでいて、巧みにまとまりを支え、しかも強圧的にしないで済む列島っぽいまとまりを偶然がそうあり続ける限りで、可能にしてしまう”システム”知見を今も表現できている、と素人は考えている。
端折って走りすぎた。戻って、その当時、中央集権の作為事業を成し始める。
そのための一要素を指摘できた。
その他に、大国が知ろうとすればそれを読むことになる資料には何を書いておくか、で、正格漢文の第14巻から第21巻と第24巻から第27巻を用意した。文字に慣れた当時の列島育ちにとっては流し読みできる文字使いの文章は他の巻だ。それらは、異論反論で世の中が落ち着かなくならない内容的工夫もある程度要る(ある程度と量的な制約を指摘できるのはだれもが読むわけではないから)。
天武系が中断して、天智系が継続した、ということの引っかかりを素人も持っていて、大国として継続的に中央集権化事業に付き合っていられるわけが無いので、その中心的担い手の象徴としての天武系(倭習巻)、天武との関係で濃密過ぎる前代としての天智の扱いの工夫、ということで、中央集権の初期のより近い歴史的人物として思いでも沢山でてきてしまう時期の人物の継続性を持ち込む等が工夫に当たる。
実際には各地の氏族ごとにより尊重されるべき氏神的ななんらかを大切にし合ってきていたと想像できる。ただし、中央集権のまとまり工夫にとっては、脆くさせる蓋然性を持続的に内包させてしまう要素だから、一応邪魔がられて天皇一本に、しかも、九州王朝こそその種の経験は豊富だから、日の丸(半島系と九州系にとっては身近なシンボル)とか、今の伊勢神宮のような象徴性を移して、中央集権事業の工夫の一つにしている。素人的にはそう考えることで、列島のバラバラ性とまとまり感をなんとか腑に落ちるようにさせると、今は思えている。
それぞれが、作為による工夫だけど、偶然の重なりが、欧米流の思想としての自由を殺戮の激しいのを交えながらの戦い取る形式以外でも実質成り立たせてしまうような、応用知見として貴重なことを、素人流には指摘したくさせる。欧米流の思想枠組みを超の水準ではみ出させる。偶然頼りかよ!!多分、だけどかなり上手くこなしていく意欲さえ失わなければこれからもこんな調子でたよりなさそうで、なんとかやりぬけるかもしれない。
江戸期はかなり上手くやってのけた、けれど、軍事政権だ。征夷の意味合いは前記松本建速氏知見を想起してもらえばいい。建前上でも、それは仮想的への軍事のための編成だ。
そのトップを集団の営み上の要所に就かせた。そういう事態的制約も一方で想起できる江戸時代像を忘れてはいけない。
スパイダーマンを演じていた役者氏が、沖縄戦で、まったく武器を使わず医療の為の兵として従軍していた映画を先日見てしまった。列島でも臨済宗の僧の中には、武士やかり出されたにわか兵に違いない人々が列島内で争っていた戦場に出向いて医療に当たっている知見を有している。列島の人々の実際的感知力は、自分たちは選ばれし人々に属するのだから、あなたたちは命がけで、私たちを助けるべきだ、の為に様々を駆使してくる策謀、詐欺の類に多くの場合だまされにくい。命をつなぐ上で、わが心身抜きにありえないだろう、くらいの実際的感受性をめったに忘れることは無い。欧米流の思想の思い込み方を学びすぎて実際的判断を見誤る、ということも時には起こるから、そこらは、完璧ということではない。けれども、欧米諸国も含め諸外国にとってもここらのいい加減に実際生活では感じてしまうはずだけど、実質、平和を持続する知恵の一つに属する列島気質の試行錯誤の辺りは、今でも応用知見の一つではないか、など素人はついしつこくなるけれど指摘しておきたい。
素人考えでは、実朝氏の時期くらいまでは、九州王朝を意識してなんらか作為を発揮していた脈が自らの出自として意識できた上で行使できていたのでは、など指摘できる。
ということで、日本書紀についての基礎知見、森氏の分類とその意欲をにじませる応用ネット発信文章(先日紹介してみた)を、踏まえつつ、今や進行形にある日本書紀解読の、ある方向性を得ることでの、事情通諸氏ならば可能な具体的肉付けを仮説であっても、できれば読んでみたい。


ヨーロッパでは本当に殺し合いを経て、その中で、より自立性を保ち合うための工夫を志向する人々が各地に試行錯誤の場を広げていった。
素人の観測範囲は狭いからやっとドイツの脈からイギリスへの過程くらいを山川出版の歴史年表の付録を参照しながらネット検索など応用してたどり着ける程度だ。
だからなんやかや言われるけれど、イギリスの王室もそれなりに苦難を乗り越えてそこまできているし、オクスフォードの卒業生系官僚組織の端々が信念にもとづいて命がけ系サギにだまされたわけではないのに、命がけに近い形で啓蒙にまい進してきた過去(ご当地にとっては迷惑だったとしても)を、集団の営みにおいて、一万人くらいまでの集団ならなんとかできても、数十万、数百万となるにつれて利害を調整することの面倒くささを請け負いたくなる意欲は失せだすと素人は考えるので、そういうことに挑めるだれかたちを軽々とけなすこともまた軽率、と言うことくらいはしておきたい。だからって、他人の命を軽んじることは、そもそもの市民社会へ向けたお互い様という基本からは外れてしまうことも、煩く、ことばとしては発信し続ける必要も素人だから指摘しておける。
無茶かどうか、そこらはこれからの思想の営みと関わらせて、判断材料にできそうな辺りを一つ指摘しておきたい。
沢山の人々の利害がもみくちゃになってしまう。そういう現実を指摘できる。
それでも、自分たちこそその責任を負うつもりだから、自分たちの指示に従いなさい、そうすれば必ず上手くいくから。と言ってのけてしまう思想には無茶が付きまとう、と指摘できる。列島の伝統系なら、共産社会の成っているイメージそのものはいいんじゃない、と受け止めると思うけれど、だれもが納得いくような調整役を実際的な感覚から、面倒くさがると思える。そこまでは無理でできない、と。その違いは、かなり根本的な集団の営み手法と結びつく。
無茶を承知で強引にやってしまう思い込み過剰な思想表現には、だから修正が要ると、今の素人である当方は見ている。
ヒトの様々に対して、強引に、指示してなんとかしてしまう発想は、事態としては危険だし、集団の営みの思想としては、ヒトという制約を逸脱しているように察する。
列島では、究極の場を持ち込まないように、納得ずくを試してきたことを民俗学宮本常一氏が紹介してくれている。時には何日もかけて徹夜も辞さず、とことん話合う。議論の場じゃない、プライベートに近い近づきの場でこんこんと話し込む。説得作戦じゃない。でも落としどころを探り合う。


さて、進化論だった、と唐突に。
素人が独自に、ということではなく、多くが疑問とともに紹介してきてくれていたことに属する。
今や観測重視の機運が継続中で、似たように更に突っ込んで考えてくれている諸氏がいそうなことは想像できる素人だけど、あいにくそれらを読んでいないので、素人考えを持ち出す。
この生き物に至る原材料は、素粒子のつくりものだ。
ただ素人考えでは素粒子ということばは使いたくなくて、せいぜい原子くらいにとどめておきたい。
なのに生き物のように振舞える。だから、原材料自体にその秘密が含まれていないとおかしい、となる。
そこへ、素人なりに、落ち着くかな、と思える押さえ方をことばにしてみたくなった。
条件が様々に(機会としては長中短さまざまに)変化し続けて、それと外れすぎると生き物は残れない。残れないギリギリの形質が、中期の変異に応じることを可能にしてしまう。そういうことも、結果的にあったはずだとことばにしかできないくらい、様々な形質が今この地表面で生き物として生死を繰り返している。
が、そこにも”歴史性”を何度か指摘してきた。一応DNAを想起してもらって差し支えないけれど、ある条件で生き残って・・をある条件の幅がある程度を保って長年月続く中でフィルター役を果たして、(場所ということで)そこでの振り分けが生じてしまう。そういうことのばらばらの積み重ねが、ある範囲での変異可能性を発揮しやすいDNAの持ち主として振り分けてしまう。極端な異形を生じても、自ずから極端の度合いが絞られてしまう。
けれども、より細胞の数が少ない単位生物の頃で、振り分けの蓄積が少ない時期なら、とてつもない変異を繰り返すことでの、結果的な条件変化対応を成し遂げていたはずで、しかも地球史上の変異の中で、となる。だから単細胞であっても、相似くらいで、厳格に合同のもう一つを生じるということでなら、ある条件で絶滅していてもおかしくないので、初めからでたらめにでたらめ対応していた、と勝手に想定しておきたい。(ここらはダーウィン氏の仮説を採用しているわけだ。初期から並行してもろもろが進化してきたわけではないこと。)
細胞的なあり方になっていると、もうだから、その先については、学者諸氏も沢山イメージを発信してくれている。
でたらめに対してでたらめで応じる範囲が絞られ、むしろ多用化で応じる。ある系統っぽく、持続的な細胞群が生じている。
その中に、多細胞化も生じてしまう。こうなると、微妙な条件変異でも脆い面と、生き残ってしまう要素を発揮しやすい面とが、多様性として結果的に生き物系に生じている。
ヒトも含めて、地球上生命という一群感覚を故意にもつことにすれば、多様性を温存できることは、そのうちのどれかが、激変とかじわじわ変化とかに結果的に対応していて生き残ってしまう。でもヒトが大切にしてきた多様性として残ることは無い。どれかたちが、少し残って、やがて更に変異をこうむりながら別の繁栄の仕方をするし、そういうことを繰り返す。むなしいと言えばそうかもしれないけれど、思い上がらなければ、素直に受け入れることもできる。難しいところだ。
素人考えでは、ヒトは氷河期に向いた生き物で、しかも温暖な時期に向いている。だから氷河期が終われば、なんらか奇形的変異を抱えて生き延びたヒトならどうか知らないが、通常のヒトたちは、生き残りにくいと条件変化を感じ始めてもおかしくないと推理している。
細胞化後はだからこんな感じで似たり寄ったりの話になってしまう。
でも生き物的原初要素を原材料に求めることが可能だと考えるなら、もっと遡(さかのぼ)ってみないといけない。
DNAの含みは、たとえば地球でそれが開始されたとしても、なんでもござれの生成を繰り返し続ける要素を想定させる。
ヒトという具体性は制約ばかりだけどその”種(たね)”の試行錯誤にとっては、継続中がいつものことになる。太陽が地球を飲む頃までは続きそうだ。
種中の種に遡るほうで考えてみると、進化はどう押さえられるか。
力の働きとして、各要素が集まる。とにかくドカンと音がするかはともかく、各要素ができるきっかけ知見は天体観測の達人諸氏が気前よく教えてくれるいい時代だ。むかし、ヨーロッパでは口にしようものなら命がけだったのだ。だからそういう気質をずっとひきづっている苦労人諸氏の一面を欧米系の諸氏に指摘しておいてもそう外していないと察する。
思想の営みにもそれが影響しないはずが無い。
思想(宗教立ち上げ)家諸氏の昔版の方々は、集団の営みを担うことにおいて意欲的であっても乱暴な連中に対しては、争わせて片方に担わせるをいつも繰り返させる処世の工夫を思想普及の思想内容と行動に含ませていたことを今なら押さえておくことが要る、と言えるようになった。結構それなりに危ない発想を秘めさせている。とばっちりに合う一般の身にもなってもらいたいね、と漫画的には指摘できる。
そんなヒトのやりくりも条件の一つなんだろうけれど、種の運動系にとっては、ヒトに限っていちいちこだわってくれているはずがない。
星の寿命がきてはじけて、各材料が散って、それらが力の作用で集まって、またもや星ができて・・はすでに進化の一つの過程とみなさないとだめだな、と素人でもやっと感づいている。
繰り返すことと、一過性のことと、どちらかに折り合いをつけたいかもしれないけれど、一過性的に繰り返し続けてるのではないか。
原子状態での材料化がごく初期の姿らしいことは、NHKのコスミックフロント映像を見慣れている諸氏には、普通のことになっていそうだ。色の分布とかでわかるそうだ。
コズミックフロント以前の宇宙系の番組、1990年代だったかでの紹介では、金もそうやって宇宙規模でできる。だから信じられない量がどかんとできてしまう。それも条件次第だから、たまたま。
そういう塊がほかのもろもろとともに散らかって、集まって地球の塊要素となって、隕石がぶつかったり地震で割れたりとかなんらか巨大変異によって、路頭に現れれば経済的に採掘可能な鉱物として重宝する、というか、がっぽり稼げる別の意味の要素を構成してしまう。飛来してくる過程でか、なんだか(地球がやたら灼熱化したりただごとではすまない条件を経ている)、巨大な塊として地中に埋もれていれば、ただ使える大きさにしてで済むけれど、便利に大きな塊の純金で採掘できることは少ないようだ。
そういう個々の中で、生き物に特有の要素たちが、ぱっと頭に浮かぶ以上に色々なのが素材となって今時の生き物は活動できている。
そこを踏まえつつ、もう少し単純化できる構成こそが重要だ。
だから考えようでは力の作用の結果が、DNA的な要素集合となってそれゆえに動き出した、と見なすことも可能になってしまう。
否、要素の種、その根本のところで力動のような要素系が含まれているのか?
今素人流を発揮させてもらえるなら、含まれていなくても可、と見なせそうに思える。
力の作用が、ある時、今時の力の学の範囲が支えきれないような働き方を演じ始める。
DNA的な、ないし、RNAのような働き方が原材料と出会って、工場が稼動し始めるともう、生き物っぽくなってくる。それだけでなくて、そのでたらめな可能性ゆえに、その似たタイプたちは永遠かと思えるような繰り返しを獲得している。でたらめさが即、ばらばら状態を生じさせたからいいようなものの、条件次第では本当の絶滅を向かえて、新たな生成の機会待ちを地表面でかこつようなこともきっとあったはずだ。
ヒトっぽいと具体的過ぎて、時期的偶然条件とごいっしょ、ということになる。
ぐっと引いて、宇宙規模で見るなら、だからそれら全体が生成の繰り返しの地球版として観察できることに気づけそうだ。
地球型生命の場合のハビタブルな条件は丸山氏らが指摘してくれている。
なかなかクリアするには難しい。他のところに居てくれるかどうか、相当に難しい。
仮に、これまではほとんど死ねば分解されてまた命に戻っていくの繰り返しを可能にしていたとして、それがなり難いプラスチックとは、と沢山繰り返し言われてきたことに行き着く。
ヒトが、地表面微生物たちにとって、飛びつきたくなる要素を欠くなんらかを作ってしまったのか、それとも、近くにそういうのがいないだけなのか。騒ぎの背景ではきっと慎重にサイエンス系が探索してくれているのではないか。