連載は続く~ SF 掌編『ここらで素人仮説その一をライター諸氏に投げかけたい[4/17 修正]』編


ヒトは落ち着くことを知らない。
そう前提しておきたい。
ざっと言うならすぐにでも飽きた態度を示し始める。
教壇に立つタイプ諸氏ならば、そのための工夫の数々を即想起されるのではないか。
もう一つ、開けた通路を、通りやすい通路を作ってまでして、往来したがる。
交易とか商売に向く諸氏には説明不要で、今時の一般諸氏においては、家に閉じこもっていてさえネット商売に引っかかったりしてないか。
ちょっとばかりネット商店にさえ出かけたくなる。
だから列島版で言えば、楽市楽座とかそうでもしなければ・・というよりは、規制をかけて、動きをついコントロールさせたがるように、集団扱いの下手順にそういうことを安直に思いつくようにしてきた。で、時々、やり過ぎに気づいて、楽市楽座とかする。
でもヒトはダイナミック好きだから、条件の中、制約の中、とにかく動き回る。
そうは言っても時代状況次第、土地柄次第では、あらぬ動きに出てくるやからもいたりするから、そしてその原因がことばの違いだったり、信じる秩序観の違いだったりで、多少面倒を伴うような場合は、発生する事態もそれなりに込み入ってしまうので、ある程度広域に似た考えを伝播させて、安全圏を確保しようと試みたりしてきた。
安全な旅行もそういう風にしておけば、旅行記を残せるくらいにこなせるようにする。

さて列島のこと。
ここで是非、歴史的事情通諸氏にシナリオなりを作ってもらいたくなって、仮説その一を提案してみたい。
先のことも頭の片隅においていただけるとありがたい。
列島では縄文末期から弥生の時期のある頃までは"海進"と現状に戻るまでの"海退"の海岸線が内陸にかなり迫った時期を現代に繋がる人脈の祖先が体験している。その経験は必ず伝承の話し言葉化された。
大陸・半島から列島部へ人々はなだれを打ってではなく、時々まとまりながらやってきた。なんらかきっかけがあってよりまとまった移動もありえた。
そして地理的な制約から日本海側の特定の地域地域や、同じ日本海側でも北九州域のある海岸線は便利に集中しやすかった。
遣唐使話から、遭難しやすかったとか想像すると、ちょっと考えにくい動きだけど、やや温暖でそのうち追々今のような気候になってくる時期の話だ。
変化の時期だから時にはかなり寒くなった時期も混じる。
だけどとにかく地理的な集中度合いを想起できるならば、それと同じ半島経路の場合が多と想定できるなら、長らく半島住まいだった人々も遠く大陸で遊牧まじりの生活をしていたかもしれない人々も、それなりに列島着と同時にある程度の期間はお隣さん(と言っても人口密度は大都会の高密度ほどにはなっていないはず)どうしの関係を意識しあえた。その後、海進の時期の記憶を聞いたり、その経験が作ったかもしれない東山道系の道をたどって列島の東方へと移っていく。長く生活できそうなところを探して移り住む。
そういう風だから、北九州域と中国地方辺くらいが、集住しやすい。
長くそんな感じで移住の流れとともに集住も進んでいく。
集団の営みもより工夫が加えられる。
九州生活を長くした後、奈良の盆地にある程度親しんだ集団群が移り住む。
どういう理由だったか、そこらは歴史的事情通諸氏に跡付けていただきたい。
九州には先進情報が入りやすいし、大国との交渉も時に必要でそれができもする地理優位さを譲りたがらない勢力がずっと残っている。
でもヒトはダイナミック好きだから、そのうち静止状態のような動的均衡にそれ自体を動かすような変動要因が加わる。
大国では隋から唐へとダイナミックな動きが見られた。
その余波か、とうとう列島勢力にもなんらか圧を意識されるようになる。何しろ九州勢は半島と密にやりとりしてきたし、それで情報の擬似同時性も確保できていたから、ひしひしと伝わってくる圧を意識できてしまった。
そこで大混乱を避けるために手打ちとなった。それは先進地半島で行われた。
それに不満を持つ連中もいた。そして仲良し関係に訴えて反撃しようということになったけれど、簡単に逆の反撃にあってしまう。
でも既に大局において手打ちは成っていたので、落ち着きを取り戻したその瞬間から、中国での試行錯誤の一面を採用することになる。
列島に来ていた半島系の有力層・知識層はちょっと古い教科書を完璧に理解していた口だった。
藤原京の設計となる。しかし、留学系の僧やが色々意見してもくれたり、中国系の知識層も頼れることになったりで、改良してそれまでほとんど知らなかったタイプの中央集権を制度として採用し始める。
幸い、文献が出回って、中央集権の知識とか、中央集権の事業とかを知っているだれかはごく限られていた。列島に散らばって安定的に済んでいる各集団においては、寝耳に水のような形で、中央集権が始まった。
まずは権威筋の印象の刻印作戦だ。
制度がその線で機能するようにできる。ただ制度ができたから従うようにと言ったって、だれも言うことを聞いてはくれない。権威筋が必要だ。
そのための文脈つくりもだから同時に始まる。
手打ち勢力から、実務系として百済の筆頭系が選ばれる。
その頃、今の奈良域では蘇我氏というのがかなりの集団形成を成していて、それに従う有力層も育っていた。それなりの集権の組織を動かしていた。(新規の新参に近い勢力の中央集権事業勢力にとては)邪魔だ、となるわけだ。
そこでその連中へは仕方ない、平和路線でと思っていたけれど、そうも行かなくなった、多少偉そうに強引に、従わせて、その権威をいただく必要があった。
その集団をまとめる権威を列島各地のそんないきさつなどぜんぜん意識にないことも踏まえてまとめるための権威として今日の天皇に当たるポジションをこしらえた。
そしてそれにだれを当てるかも考えていた。北九州域では早くから先進的な政治の仕組みを試行錯誤していたし、多少野蛮な風習も含ませていた。その筆頭を蘇我氏の位置に入ってもらった。だから煩いし、倭習とは言え文字ことばもこなす勢力を力を弱体化させつつ、勢力下におけると同時に、いきさつを知らない列島各地の諸勢力をも、なんとなくいつのまにか勢力下に置けるような偶然の機会を得てしまう。
追々、歴史書を有力層に読ませて、実はこういうことがずっと続いてきたんだ。そして偉いのは、その脈に近いところから順だよ、と頭に入れて、伝承してもらうようにした。
だから、数十年か百年近くすぎると、その頃にできた歴史書、テキストに書かれた内容を元に、自分たちはそのだれそれと近いからうんぬんかんぬん、のような経験的事実をテキストにあわせる話で伝承が続くようにすることに成功してしまう。
ここらは、歴史的事情通諸氏が、たとえば『古語拾遺』を想起したりして、更に膨大な歴史知見を動員してそのからくりを整理していただければ、かなりの新事実にたどりついて、それを踏まえた新知見としてこれからのための書物を成していただけると素人は期待してしまう。
今回の場合は、蘇我氏の位置こそが、今の天皇の位置に当たるとしてみた(うるさ型勢力向け対応で、その他の中央集権を意識上希薄にしてきた諸勢力へは既成事実圧での観念植え付け策が効いてくれればよかった)。九州王朝が政治の営みとしては先進情報を消化した大したものだったとしても、勢力として立派に機能させ、東山道経由での各地との交流の濃度さはあるものの、影響圏を形作っている途上だったりして、それなりの後ろ盾と勢いと策略と仏教のようなお互い様圏を共有できるなにがしが要った時期を想像させたくする。
現代史に響くはずの桓武天皇の時期のことは、素人は相当遅くに知ったことだけど、知る人ぞ知るで、こだわられてきた時期だ。
子供の世代が『大同類聚方』を編纂している。
(中央集権ということ自体や中央集権化が内包することになる広域の様々に関するネットワークとかを含む整理された形での)いきさつを知らない人々が未だたくさんいた頃だ。
既成事実として、藤原氏天皇の権威づけと周辺の人材構成の準備をかなりこなしてしまう。
ただ大国からすれば、征"夷"の役割の筆頭役が要る。
だから征夷大将軍は大国との付き合いが続く限りで、ずっと用意され続けることになる。
ただし、漢文教養を欠くのかキャラクターがそうだったからなのか、将軍という呼称のニュアンスが気に入ったから征夷大将軍を選んだとか言う人物も現れたりするみたいだから、征夷の意味がずっと伝承され続けていたかどうかは素人からは判別しがたい。

素人である当方的には、弁証法的役割分担は遠慮したい、と何度も指摘しているけれど、清の頃の中国でアヘンを使った謀略を行使した欧米系の発想にも問題ありと見るので、ここは現代において、東西が知恵を出し合って、生活しやすいし、飽きもしない、工夫たっぷりの世の中運営の作法を是非とも開拓して、お互い様がいつでも闇の細部にまで届くように(たとえば世界の介護現場のお年寄りたちに向けて)回復するような巷の動態を誘うようにしてもらいたいところだ。

*九州王朝はかなりの名君ぽい人物を排出していたらしい。
 それと蘇我氏も恐らく今で言う神仏の双方を尊重できる頭脳系だったと思える。
 ということで現天皇像はそういう素をそれなりに伝承しようという集団の営みの具体像のようにも素人からは受け取れる。ただ九州王朝系に偏りすぎると現実政治にはみ出す格好になるから、そこは儒教のりの一部易姓革命を取り入れない知恵が息づいているのを参考にできるなら、徳川系初期知見のなにがしをずっと持続しようとしている向きも感じ取れる。(含みを豊かにする)頭脳と平穏の象徴性

** 天智・天武の流れについても上記からかなりの推測が可能になる。
  しかし、なぜ近江の大津だったのかは、是非事情通諸氏によって事情を整理していただけるとありがたい。
  また、順がおかしくない?(白村江の事件よりも後かい?蘇我氏の件・・、)と当然の知見からの疑問が出てきそうだけど、書紀の内容編集の巧みを再構想するきっかけにこの仮説1を応用していただけるとやはりありがたい。
  藤原氏の登場、本格的法治型中央集権事業の開始をどれほど腑に落ちる形で歴史の流れの中に落ちつかせることができるかの一つの試み、ということで素人"考え"を受け取っていただければ。