連載は続く~SF掌編『もう少し仮説を加えるのに、息抜きを兼ねた寄り道』編


ヒトにとってはたとえ縄文時代タイプの今からすればかなり制約もたっぷりに思える条件を想起できる時代であっても、かなりの広範な活動域を生きていたことは、教科書的知識においてすら周知のことだ。
人口密度のことも想像しながら、どんな相手と道中出会うことになるかなど不可抗力要素込みでの旅路を簡単に持ち出せきそうだ。
今時なら、大抵の諸氏においてグローバルな展開の情報だけはたっぷり日々”浴び”ている。
どんなタイプと遭遇しようが、攻撃してくるとか騙(だま)すとかの危険タイプ以外については、既知のなんらかとして納めることが可能になるくらいではないか。
その昔はどうだったか。
たとえば似た習慣をお互い様にする仕様を工夫してしまうのがヒトの営みだった。
宗派宗教はそういうことに一応役立ってきた。
その集団の営みを持続させるためにあくせくする担い手系の諸氏においては、共存志向のなんらかを含ませた志も相当に心身に育てていたと想像できる。
列島でも、今時ではパワースポット系発想から情報があふれ出ているらしいと知ったばかりなのだけど、中央構造線に沿った地面視野からもわかり易いルートに沿って一宮系の神社が目白押しだ。
今日的には半島部がちょっと辿りにくいのだけど、その昔を想像できれば半島との往来がいかにその営みを当てに出来たかもしれないなど想像させる連なりを引用できる。
そこで以下、6世紀から8世紀にかけての半島、列島関係、藤原氏出現に関わる歴史とか絡めてその間接情報として、主にウィキペディア情報と、お馴染みのカシミール(地図ブラウザ)を使って国土地理院の2万5千分の一、5万分の一、20万分の一の地図を眺めながら得た辺りを開陳。
邪馬台国周遊コース(カシミールを使って探索された酒井正士氏紹介のルートを採用)を経ると四国の瀬戸内側に沿ったルートから和歌山へ入って奈良盆地南部の要所をかすり伊勢神宮のところから海を渡って諏訪湖へ抜けるルートを辿り、中央構造線から外れて、それでも道ということではより見やすいルートを辿ると、日本海へ抜けられる。糸魚川か迂回して直江津の辺り。(海岸線に沿って能登半島にも視野として無理なく到達できる)

対馬には2つ
①海神神社(かいじんじんじゃ)
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)

長崎・壱岐には1つ
①天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)

福岡には2つ
住吉神社(すみよしじんじゃ)
筥崎宮(はこざきぐう)

大分には3つ
宇佐神宮(うさじんぐう)
柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)

徳島は3つ
①八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)
②一宮神社(いちのみやじんじゃ)
大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)

和歌山に3つ
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
日前神宮國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)
⓷丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)

三重に1つ
伊勢神宮(いせじんぐう)

愛知に1つ
①砥鹿神社(とがじんじゃ)

長野に1つ
諏訪大社(すわたいしゃ)

新潟は2つ
天津神社(あまつじんじゃ)
②居多神社(こたじんじゃ)

長期の趨勢として気候の状態は(気温や海岸線や気象の現れ方や)?
互助系が機能していても、盗賊の類が跋扈しやすい時期だったか(戦さ後のヒトの気持ちが荒れていた時期とか)どうか。
互助が必須だったか、飲み食い術の備え次第だったかとか。
農業が発達するにつれて人口圧が作用しているようだと、各地がそれなりにだれかが仕切る領域化しやすくなる(中央集権かバラバラかはともかく)。
ただごそっと人脈のつらなりを意識できる人々の展開での棲み分けの場合だと、その人脈に載った仕組み成りが機能はしていたという観点での、商人・旅人が遭遇するなんらかはありうる。(特定のネットワークに載るだれかたちにだけ通じている仕組みの類)
*たとえば防人など歌集に載るくらいだから、同族の一体性というごく限られた人脈として成立していたと素人は想像できる(各地に散らばっていたとしても)。

神社とか記紀国史系知見に詳しい諸氏ならば、更に、中央構造線ルートから、集団の営みのなにかしらについて探り当て整理してくれるかもしれない。

縄文系諸氏は人口圧ということでは、積極的に関りずらかったと仮説できるなら、あたかもネアンデルタール人系の諸氏がホモサピエンス系の諸氏の異性たちからその体力を見込まれて惚れられやすかったとしても、追々、人口圧の中に呑み込まれて、内実をとって表向きは消滅するようなことを選んでしまったように、縄文系も自然消滅した感じの列島人口分布を想像し易い(決定的に混血してその混血した人々が人工圧を行使してきた)。
となると、農地の煩型とも遭遇しやすい旅となってしまったのかどうか。
移動性を確保できていたのかどうか。
既に棲み分け化が激しかったのかどうか。
どういった棲み分け状態の時期にたまたま中央集権事業を意識的に始めてしまったか、ということも歴史性ということでは、重要な観点になる。