連載は続く~ SF 掌編『6世紀から8世紀に藤原氏出現を探るための仮説②と③④』編


フィクサー勢力がいたはずのことを仮説②としたい。
中央集権事業推進勢力は、仮説②の影響も得て、事業が成功するにはの緻密な知見整理を成していた辺り、と実際に事業が進むことの困難について、熟知していた、と仮説③にする。

列島全体と関わる条件的仮設。
以前にもふれたけれど、九州"王朝"勢力とフィクサー勢力には正格漢文理解者がいた。
倭習でなら理解できる文字使用に慣れた人々も各地に育っている。
その各地ということでは、浮いた存在のような派遣的な立場での住み着きの各地がきっと多かった。
そういうことでは、倭習すら文字理解ということではあいまいな人々が(集団に関わる伝承を可能にするなど)立派に集団を営めていた各地の方が余程多かった。
ここらを仮説④とする。

仮説②について簡単にふれる。
列島では今日に至るまで易姓革命を基本、厭(いと)う。
実際に政治的生々しさで演じられるある時期においてすら、そこを回避させたということを想定して、すると漢文理解は並々ならない人々が既に列島に居て、しかも表には出てこないタイプたちだったと想像させる。
イメージとしては秦の時代の法家の脈々だ。筆頭の人物脈のほとんどが処刑されるような荒々しい時代を経ている。儒教へのオルタナティヴ発想をしっかり思想の熟知水準で持っているタイプだ。中国の営みについても、思想することにおけるヒトについても、人々と共に治めることについても、史書を扱うことにおいても、熟達している。
そういう人々がフィクサーとしてなんらか列島の政治勢力と関わりえているならば、そこに知見の作用が有効になってもおかしくない。そういう意味でのフィクサー仮説(②)。

仮説③④については、その一端をふれてみたい。
文字とかことばに関わる。
ヒトのくせとして、母語習得過程のようなプロセスを人生の中で得ると、心身にことばが浸み込むように母語の使い手ができあがる。
(別々のを)ほぼ同等でバイリンガルとなった人々のヤバサはそこらから今日ではしっかり指摘されるようになっている。(バイリンガルの使い手をヒトと見ないで道具として形式的に使うなら、多少便利という感じだが、ヒト個人・人生という視野を無理やりでも持ちこまないことが肝要(皮肉っぽい表現))
そう前置きして、たとえ一世代内であっても、文字を母語の内に含ませる人生を歩ませれば、使い手となる年代に充分な使い手を見ることができてしまう。
その世代間継承が更に、文字・ことば使用の都合にとってはより使い勝手の良さへと作用するようにする。
話題にしたい6世紀から8世紀からは外れるけれど、10世紀の人物紀貫之氏がひらがなを慣用化させる上でかなりの役を担っている。特にひらがなの場合、漢字書体まるごとの草書体を抽象化したタイプなので、和漢を交えた書き文字慣用へはそう時間がかからない。
官僚組織の営みにおける文字の重みは担い手諸氏において熟知されている。だから・・・の営為の一齣(こま)と捉(とら)えられそうに思う。
もう一つ、簡単に。
とにかく、昔のことで、住み分け濃厚の時期だったのだから、それぞれの事情を超えての中央集権の過程となってしまうことの不都合を事業の担い手諸氏は、こちらについても熟知されていたと想起できる。
主な担い手が九州勢と百済勢だ。武断でごり押しするのではなく、長期の我慢で実質成功すればよい深謀遠慮のタイプたちだ。
しかもヒトの性格は様々だから、激しい何がしにも時には対処が要る。
各地の伝承が世代を越えて、記憶のうやむや化とともに、由来の混同を演出できればそれこそ平和的解決に結びつく。工夫その1じゃなかろうか。
でも、世代的に生々しい事件としての話題が事業開始の時期からはある広がりにおいて生じることが避けられない。つまり、天智の頃以後は極端な編集は難しくなっている。
天智は残党の騒動に加担して大国からの信用を減じている。
それでも九州王朝の伝承の担い手だ。なんとかせねば・・・。
そこで一旦、天武なる人物に委ねる。各地の伝承思い込み勢力にもなんらか納得しやすさを醸(かも)す系脈タイプ。
事業がある段階まで達せられれば、また世間に埋没してもらって結構、でも、一定の落ち着きを得るまでは、表で、各地の伝承との軋轢に晒(さら)されることになるけれど、我慢してもらう。この天智~天武・称徳~光仁の展開についても工夫その2とかできそうだ。

隋書での倭国に関する記事からは、倭国の連続性が明確だ。
酒井説では大分の中津にあたる奴国が出てくる。
そこらを前提にできると、伝書鳩とか情報内容豊富な伝達経路としての早業を要しなくても、それなりの有意な時間で物事が動くことを無理なく受け入れやすくする。
半島経由で北九州域のどこかに着いて、その先、奈良盆地辺りまで何キロあるか。
400km以上だ。
少なくとも、中国の史書に現れる和国の出来事は九州での出来事と見たほうが良い。
その上で、仮説③の工夫の要素から、列島版史書がどういう編集を成し遂げたのかを探れる。
一方で前回引用したように、中央構造線ルートで、北九州域と奈良盆地南部の有力豪族勢が居住していたところとのつながりは、昔の工夫としての往来にしっかり含ませることができる。大阪沿岸部経由のルートでも差し支えない。
また倭国は真に内容が確かであれば、貢がれる側だった。
そこらの系脈上のより正確な整理も必要だ。
前提を錯誤したままにしておくと、膨大な(歴史系諸氏独特の)博識が宝の持ち腐(ぐさ)れとなりかねない。