連載は続く~ SF 掌編『少し中国の当時を伺ってみた仮説ε』編


素人を言い訳に、出来すぎた史的組み合わせについて、胡散臭く思わない方で応じてみた。
時は7世紀後半からその少し先まで。ということで、中国・半島・列島をまるごと同時代に置く。(以下、ウィキペディアの記事を軸に補足資料に目を通したもの)
①655年末近く、唐では武照が高宗の皇后になった(武后)。
 その過程で皇后位置をめぐる粛清劇が生じている。
②660年新羅よりの請願から百済を軍により討伐。

(顕慶五年<660年>)・・古田武彦本(『法隆寺の中の九州王朝』p291)を参考に「旧唐書 本紀第四 高宗 上」から引用ここから
八月庚辰,蘇定方等討平百濟, 面縛其王扶餘義慈。國分為五部,郡三十七,城二百,戶七十六萬,以其地分置熊津等五都督府。曲赦神丘、昆夷道總管已下,賜天下大酺三日。九月戊午,賜英國 公勣墓塋一所。
冬十月丙子,代國夫人楊氏改榮國夫人,品第一,位在王公母妻之上。十一月戊戌朔,邢國公蘇定方獻百濟王扶餘義慈、太子隆等五十八人俘於則天門,責而宥之。乙卯,狩于許、鄭之郊。十二月己卯,至自許州。
引用ここまで   (URL:https://zh.wikisource.org/wiki/舊唐書)
* 8月と11月の記事に注目

③683年には高宗が没し、皇后により諡号天皇大聖大弘孝皇帝とした。
 既存の権威筋からの支持の少ない皇后だったからか、既存の権威筋の外側から人材登用を図っていて、結果的にはかなりの人材養成に成功している。
 並行して身内を重用したり、密告政治を使うなど不安定要因も濃厚に持ち込んでいた。
④宮城に周代で使われていたとされる明堂を建造させた。
⑤690年武后(=武照)は帝位についた。国号は周とした。自らを聖神皇帝と称した。改元して天授とした。
 皇帝を継いでいた睿宗を皇太子に格下げ、李姓に代え武姓を与えた。
⑥仏教を重んじ、席順を仏先に変えた。
 寺院作り、寄進を盛んにした。自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称した。
⑦705年武則天は則天大聖皇帝という尊称を得て退位した。
 この過程で激しいタイプの粛清劇は起こらず、また埋葬の帝陵の盗掘をまぬかれたとされている(ウィキペディア)。


一種激しいし、一方で佛に篤い。人材登用が上手だったりもする。
そういう特異な武照という人物が一つ。
で”武”であり”照”だ。
ここでは(今回は)、この仮説だって、時代的条件次第ではありうる、というタイプを持ち出したい。出来すぎだし、工作、造作の類が多を占めるような作為を持ち込むことになる。
ひょっとしたら『日本書紀』の話を作るに当たって、『古事記』のような各地の史料を下敷きに、嘘とばれない、だけど、文字使い慣れした勢力が、文字使いなれしてこなかった勢力へ少々時間をかけて、ある種の神話を注ぎ込んでしまう仕掛けを多量に持ち込む工作が働いていてもおかしくはなかったし、その為の正格漢文の使い手諸氏のノリをとにかく持続させる物語として、直近の中国での出来事ははまりにはまる内容だった、と見る見方。

高宗の諡号に使われた”天皇”文字。
武照自体が持つ”照”字の使いかって。
”天”の字もまた目立つ使い方がされがちだ。
”武”も目立つ。
改元しての”天授”。これも読みがテンジュなら、テンジに近いとつい憶測を促される。
元々九州王朝系の名を持っていたはずの天智なり中大兄に、天皇を特定文字化していないし、天皇文字で権威を持たせる以前の段階、中央集権事業の端緒の時期に、どんな名を中央集権事業の都合からつけるかは、それなりに工夫が要ったと素人からは想像する。

県主、国造に関わる歴史記からして、各地を本格的に中央集権に置く権威付けには、張ったりも要ったとは思うけれど、平和共存の要諦こそが長期持続に不可欠なことはその昔から自明のはずで、”力”もあればそれなりのゆとり対応(ある種の寛容発揮)の裏づけともなる。

それぞれに土地柄に応じた権威筋のことの方が想起されやすい跋扈状態の列島が想像できるなら、人材登用の巧みを発揮していた一面を持つ武照政治のイメージを使わない手はない、という、思惑(中央集権事業のために導入するしかない権威筋ということでは恣意的とならざるを得ないのだ)が働く。

制度上の摂政・関白の重みはそれを用意した連中には熟知されても、そうでない多の流れには通じにくい。けれども物語が聖徳太子を通して、その一端について説得力を発揮するようになれば、後は、そのポジションを得る派手な出来事を何度か繰り返せば、世の中に浸透しやすい。話題になって、そういうことか、と世の心身に響くことが欠かせない。

さて、明堂。
南に蘇我氏の拠点が散らばり、京の中ほどに宮が位置するタイプの藤原京設計は、”周”文字とも馴染み深い。
そして位置関係からして、仰ぎ見るのは蘇我氏勢。
宮域に明堂跡が見つかるようなら、藤原京の頃(680年代から690年代から700年代ごく初期)→

*URL:http://www9.plala.or.jp/kinomuku/index.html の「藤原京・藤原宮跡」によれば
”新城、新益京、藤原宮”は古い記載あり、でも”藤原京”文字は喜田貞吉氏由来とのこと。

→「中国」と「日本」とを又にかけたような知的交流が頻繁だった可能性を探れる。
 それを可能にした人物たちを特定できる。

**不勉強な当方ゆえかなり強引に空想しているけれど、天智とか天武とかの文字を、日本書紀ができる前のこの時期に木簡とか紙史料とかで見つかっているなら、この辺りの仮説は、引き算が必要。

”聖”と”仏教”と『大雲経』を納める「大雲経寺」を全国各州につくらせたとかの話から、これもテレビとかの連想ゲームのりな話(連想できる範囲で何でもあり話)で恐縮だけど、つい東大寺とか国分寺とかの話と中心人物に結び付けたくなってしまう。