連載は続く~SF掌編『中央集権化事業における啓蒙仮説』編


民主化の含みに平等を据えてみてもその実際の困難はシンプルに響き渡る。
実際にヒトの生き物のリアルとして絶えず生成しまくる心身の育ちとしての個別具体性と向き合うほかはない。それが集団の営みのリアルとしてまず前提としてそれぞれの人生は組み込まれている。(縦軸、横軸に沿ってそれぞれに個々の状況に応じることが平等の要で、同じ対応策を予め作っておいてそれを適時適応しているタイプとはトコトン異なる他ない)
そこを理屈の方に合わせてなど勘違いすると、その時々の思惑に応じたなんらかの形へと強引にとかやんわりにとかして”合わせなさい!!!”とかとなってしまう。
そうなると民主化とかなんとかは既に雲散霧消状態だ。
そういう難しさを指摘できる。
そこを避ける意味合いからも啓蒙の試行錯誤は中央集権の形を取りつつ一人前を育てる集団の営みの基礎中の基礎となる向きをめぐって、啓蒙ということばの示唆する辺りをはずさないことについてはいつであっても採用されることになる。
それにはわかったつもりについなりがちな集団の営み圧を必ず避け得る装置性を組み込みながら、ことば共有のある臨界を目指し続けることになる。
だから米田良三氏の文章になにかしらそれって突飛と思わせる部分こそ逆に啓蒙の観点を持っているならば注目させれる、と指摘できる。
ことばを共有する。子供のころから当たり前として心身化できれば、それはあるあいまいさゆえに共有感を持ちあえるようにする。
その際、仕組みを作る側は、その適切な素材まで手が回らない。練り込まれた技を、既に他の方にエネルギーを傾けてきていて、手が回らない。そういうわけだから、既存のそれなりに”優れた”作品を探して採用する。
そこらを米田氏は紹介して源氏物語万葉集について指摘されていた、そう受け止めることができる。
権力闘争系のありがちなエピソードについては昔から諜報脈が(静かにも激しくも)扇動するために用いてきた常套手段だから、未だに若者ほど、左中右を問わず、方向は色々にしろ過激か穏健か中庸かを問わず、ついついその話題に”熱く”成れてしまう。
だからそちらへと誘われる話題はひとまず置いておいても、既存作品の援用エピソードは充分に参考にできるものだ、と素人は見ている。
しかも、専門家たちも触れないのでなく、触れる方で応じるようになっている似た地名。元の地名を移動先でも割り当てて使うという習慣思考、(とりあえず列島育ちたちの)ヒトのくせにも素直に応じた学術観察をしてくれるようになっている(先日ふれた放送大学特別講義の件)。

生な形で芸術の試行錯誤の場にチャレンジしている諸氏においては猶更事例となると思うけれど、(前後関係の中に置く)その一音、その一言を舞台で持ち出すことが、躊躇されるような場の力を意識できる時があるものだ。
それくらい、作品が成り立つことは奇跡に近い。
そういう作品のある形式が通り相場となれば、その線で多作は可能になる。
だから突然の整然とした作品群が短期間に出てくることはありえず、準備の、試行錯誤の長期間が前期に必ず踏まえている。
そういう芸術・芸能の出現の困難と通りの良さのヒトにおけるくせの辺りも参考にできる。

天皇???っていったい何だい?そういう7世紀、8世紀を持つ。
摂政って?
藤原氏って?
時にたとえば物語がそれを解決してしまう。
権威にひれ伏す習慣を心身かした諸氏においては、なんらか権威の筋が要る。
そして時がいつのまにか解決してくれている。
蘇我氏って変な名のやつが多いんだな。で今時なら流されがちかもしれない。
しかも言葉使いにおいて、なんと素人はつい最近気付けたのだけど、藤原宮までなら古代に記録されていたらしいのに、藤原京の語は、現代の学者氏による造語とのことだ。
その造語が教科書知識に使えると思い込める凄さを、素人は特殊に”感動”している。

中央集権化事業試行錯誤とことば啓蒙分野の課題は、絶えることがなさそうな気配だ。