連載は続く~SF掌編『ヒトは生き物の中で懲りない面々系かも・・・な・・』編


面従腹背対応がベースの列島気質環境においては、騒動の上下動にも関わらず大ごとを回避しながら、嵐の過ぎ去るのを待つ感じですが、そういう流れでも井原西鶴(才覚?)氏を生んだ土地柄、多少でも素人考えの一つ二つくらいは持ち出せる。
まず公務員病問題。近現代志向まっしぐらだとつい法制化して縛りをかけて、公務員系発想からの秩序を保ちたくさせる。ここらは病性向と隣り合わせ、と列島育ち気質、感覚からは指摘できるので、今回の騒動だと、やたらとパスポートで制御できると思い込めてしまう偏った観念系に素人考えを一つ指摘しておけそうだ。
緊急も緊急で、厖大な一般も事情に通じた諸氏においてもあたふたしてしまうような状態、ある時期においてなら、コロナ感染して回復済=免疫獲得者のお墨付きを得たような状態だからその表明は、行動力の目安にできる。これは説得力を持つと素人も見る。でも、策を試行錯誤している状態で、切羽詰まった状態とは言えない時期に、十把一絡げにパスボート作戦に出ることは病気の状態だ。
むしろ、策を模索し試行錯誤する公的部門こそがその思考の力を検証する必要を指摘できる。
なぜ免疫獲得者を一気に増やせる病性質にも関わらずそれを怠りむしろ恐怖を撒き散らす方を放置してしまったのか、とか。不必要な恐怖を抑制できていれば、堂々と免疫獲得作戦に自発的に出ることができる。そして、集団の営みとしてのコントロースさえローカルに可能になる。それくらい列島堅気諸氏は生活力の”地力”を個々にお持ちだ。
風邪タイプの場合(変異が活発ということが原因で)ワクチンがそもそものところで当てにはできない。素人にすら分かり切った経験からくる知見だ。
ここらはワクチン接種を進めても、強制はしない知見が機能はしているようだけど、マスメディア(部分に様々な意見発信を含むことは指摘できる)は色々利害があるようで、そうはなりにくそうだ。
ウイルスとかの性質によってワクチンに期待できる色合いは異なってしまう。
そこを一律にワクチン信仰のように発信しないごとがこれも今回得られた知見の一つと素人は見る。
人材確保して即、実戦向けに人を出していかなければいけない緊急対応の部門(医療とか流通とか食生産・販売とか、”生命線”部門とか)の諸氏へは、ワクチンではない、とにかく免疫を頼れる場合なら、その為のサイエンス知見と実際の手法を、いつでも用意しておける開拓部門が、集団の営みには必須だ。これも、今回の騒動から素人にはヒシヒシと伝わってきている気がしている。
民間の自発性はとんでもない状態を招くかもしれない事態で相当に役立ってくれる。試行錯誤状態では失敗と成功の事例が濃淡混ぜてまじりあってしまう。そこで判断するだれかにとっては戸惑い材料としてしまいかねない。そこは確かに生じやすそうだ。でも、日頃から、そこら位までは想定しておいて、どう判断したらいいだろう個々人版を準備はしておけそうだ。集団の営みを仕切る役の諸氏はそこらへ、どういう制御と自由度を保たせられるか、手腕を問われるしその先が掛かってきてしまう。

さて、風くらい・・なのだけど、年寄り諸氏にとっては他人事では済ませられない。
多少、ヤバイかも、の方で受け取らざるを得なくしてしまう。
だけどそういう、今回の騒動に限らず、平穏に不死まま行けたらなぁ・・などと思い込めているご老人諸氏はほとんどいない。
ある程度元気にだけど老いていくと、長生きもなぁ・・・と片方で嫌でも感じ続けるような心身の状態をかこつようになる。
その他者からすれば聞きたくもない愚痴の類を、聞いてもらいながら、悠々自適に暮らせるお年寄り諸氏においてはきっと天寿をまっとうするような人生が待っていてくれそうだ。
でも、そこらくらいの指摘ではそうはなりにくい辺りへ素人流を発揮しておきたい。
お一人様で超を三つくらい付けられるほど有名な上野氏(素人的には介護保険の設計がそもそも低賃金で成り立つように始めてしまったその間違いを指摘したいけれど)がラジオで語っていて、施設介護を見限ったように受け取れる言葉を持たれているようだ。
その上で介護保険の可能性に言及されている。
で素人流には、ひとり性についてもう少し別の線を指摘してみたい。
育ちの過程では依存関係の強みとか頼れる感とかを育みつつの過程を不可欠と見る素人がある程度の年齢に達したら(その経験において依存関係の大事さを心身において自覚でき経験を持ったうえでという意味合いから)、逆に、依存関係を少しずつ必用な依存関係を排除しない工夫をしっかり使い分けながら、置いていくようなことが要る、と指摘してみたい。
相当に哲学できた夫婦関係においては、事態としては深刻だけど、他人にできるだけ迷惑の掛からない工夫をしてかどうか実質心中のような事件を時々起こしたりしているのが列島だ。
99.9999999・・%のごく普通の人のあり方では、必ず死の到来は個々それぞれの事情からばらばらに迎えることになる。
で、信頼できるだれかに見守られての経験をできるのはいつでも不都合なことに片方、ということになりがちだ。
残された方は、他人とうしとして肉体を熱くし合えた一時期を幻想できていたはず一方を既に失ってから、だけど育て方次第では多少とも家族的な温度を感じ取らせてくれる感じで自らの晩年と付き合ってくれる。
近現代の経験を積んで、それが積み重なってくると、長兄相続的な依存の力を実は口には出さないけれど、気づけて、一方で、その負担をとっくに経験されている核家族化趨勢以後の厖大な世代も既にいらっしゃるわけだ。
そういうものだ、と思い込めて負担を負担としつつも心の負担にまでしないでこれたある文化の相も、ちょっと条件が違えば心の負担を生じさせてローカルな悲惨な事件だって起こしかねなかった。そういうヒトの生涯が絡む集団の営みの難しさは、いつでもごいっしょだ。
何度かふれているけれど、認知症症状のきっかけが不思議なことにヒトのある関係性においては観察できるようなこととして生じる。
そこから考察できるのは一種の依存関係だ。
老いると、なんとなくつながっていたからこそ分散できていた、心身の支えとなっていた依存関係のネットワークの広がりは相当に狭まっている。いつの間にかのことだ。
下手すると夫婦間に閉じている濃さになってしまいかねない。
かといって老いるほどに、付き合う相手を選ばざるを得なくする。
気心が知れた関係を保てるタイプと遭遇してそれを育てられるという出会いこそ実際には難しい。依存関係の相互性のバランスが良好という場合を得ることの難しさを指摘できる。
たまに会って依存関係を楽しみ合える茶飲み友達、すら得にくいのがヒトのリアルだ。
気に入れば、つい長居したくさせる。でもそこにアンバランスを生じさせてしまう。
で、つい新規の付き合いすらなかなか生じさせにくくなっていく。
今時はネットを使えるから、上手に使えば、それなりの状態を保てそうだけど、ネット独特の病がいつでも控えているから、ここらは生な生活以上に注意が要る。
公的部門が、公務員病を抑制させつつ、らしく活躍してくれる世の中であれば、どういう人生を送ろうが、とりあえず老後の一部文をゆだねることは可能になる。
介護施設でもそういうことを可能にする従業員を雇うことができるようになれば、それなりの介護の実質を保つ営業が可能だ。
ここでは実質お一人感覚の線で老いを生き抜く知恵めいたのを指摘している。
ご夫婦の場合なら、とにかく早めに心の上で自立しておくことが肝心。
寂しいと勘違いさせかねないけれど、そういう志向をお互いが確かめ合えるようなことばの往来の機会をたまに持てていれば問題はかなり少なくできる。
片方が先に亡くなっても、心の依存関係での負担は少ない。それでいい、とする生き方。
でも観念系を育てておいて、先に都合よく逝ってしまっただれかへのなにかしらを大切にできている。残された自分の実質のひとり性をどうしてくれるんだ、というハタと気づけば相当やばい状況を予めの準備からかなり減じた状態で受け止められている。
お互いが生前の時なら、それぞれがそれぞれのお友達と付き合う段でもその依存関係のカラクリについて冷静に持ち込まれている。そういう依存関係を持ちあえるだれかたちのネットワークとして老いの人間関係が熟すように試行されている。、
依存関係の濃さは、その知らず知らずの広がりにおいてそれに気付かせない安心を育てているものだ。
でも少なくなって、しかも失う経験において、錯覚だけどある絶望めいた経験に導きがちだ。それもまた人生・・・かもしれないけれど、人生100年の時代をグローバルに迎えつつあるのだから、ヒトのあり方についての試行錯誤として、別もありかな、と思えてもおかしくない。