連載は続く~SF掌編『六国史とウイルスの噺』編


180年間という年月を持ち出してみたい。
言ってみれば720年頃から901年頃迄の年月。
ないし、昨晩が最終回だったBSNHKが放送していたドラマ『小吉の女房2』の頃から昨今迄の年月もかなり近い。
後者は幕末も幕末に近い時期だから一方で話題の渋沢氏ともごく近い時期で、そうなるともう万博への参加話とか、それなりに心身の方に近い時期から今日へと想像を働かせることができる。
そしてぐっと遡(さかのぼ)って前者の頃、六国史の期間がやはり180年間だった。
六国史として国史を編纂したのは、驚くなかれ180年間のことだった。
史料として貴重だし頼りに出来る中国の歴史書前漢の時期だけでも200年間くらいだ。
短そうな隋の時期が30年間でも史書の中身は”帝国”の関心から豊富だ。

列島の場合、各地の各経脈においてその脈々を(集団の営みにおいて)記憶してきている。
だから個人の記憶違いとかをかなり修正出来て、記憶として伝え合えて来ている。
ここらはついこの間まで列島の各地でありえてきたことだ。
ただし、文字以前の現象としての要素をかなり含ませていた。
そこへ文字、文書による継承資料の採用のような画期も挟むようになって、それを採用しなければ正規ではない、とかのニュアンスが介在するようになると、土地土地の伝承脈の修正回路が多少軋(きし)み出す。
文書でこそより正確、となりがちにする。
そういうことのごく初期を史実として持ち出せる列島の歴史だから、その偶然の時期において、土地土地の経脈のその更に遡ってみたらいつのまにか権力作用の中枢を成していたと伝え聞く経脈となんらか繋がってたんだとなるような伝承も編集に持ち込まれてしまう。
それも含めた土地土地の口承伝承の伝え合いとして、今日のちょっと前辺りまでありえてきた。
だから恐らく列島においては口承のはずの集団での継承噺においても、ある偶然を挟んで以後の付加とかを選り分け選り分けすることなしには、ある程度の土地土地が伝承出来てきたかなり精度の高い伝承の内容を知ることはできにくそうだ。
そうは言っても、ネタ元は文書として出されているので、そこを省けばいいという便法も充分に使いこなすことができそうだ。
土地土地での集団の営みでの自ずと進む検証的要素を、伝えての少数化から無理にしてきた経緯を列島では戦後として持っている。もう一つ、祭りでの伝播のように、戦国江戸期の集団の移動の中での植え込みとかもかなり作用しているから、そこらも選り分けが要る。
野菜の伝播とか、ヒントにできる知見も今では相当に散らばっている。
近現代流の歴史書のまとめ方が、素人が先日気付いたことを指摘出来たくらい、未だ途上だ。
ある種辿りうる原典で使用されたことばなり文字なのか、研究者の集団の営みの中で合意して使うことにした学術用語なのか、遡及する上での利便からは相当に面倒な用語の使われ方がまかり通っているようだ。しかも、学問は、過去の蓄積に乗れることでより多くへと近づいて、より多くの材料に基づいた検証を経た成果を生めたりする。
そういう意味合いからも用語の落ちつかせ方は重要だ。ヒトは語呂からも相当な発見を成してきた。だから語呂すらが、厳密に使い分けられていないと、落ちつかせ作業にはつかえないことにもなってしまう。
各地の例えば大宰府近辺とか筑紫をとりまくかなりの範囲(吉野ヶ里の方も含め)年代測定の精度を上げて、ある程度の決定打が各所に打たれていないと、どうにもならない。難波津もそうで、博多周辺も発掘と年代測定が不可欠だ。
でないと近畿域の中央集権事業の画期以後との対比を、専門家すらが持ち出しにくいままにしてしまう。
素人観測からは現状前期難波宮とされている遺跡の年代測定によってひょっとしたら勘違い説が出てきてもおかしくないと見ている。
むしろ蘇我氏域についても、土地土地の伝承に基づいて、日本書紀に惑わされない精度を持つ必要を指摘できる。中央集権事業以前の列島史も相当に賑やかで、ここらはエジプトのピラミッド知見の一つをヒントに昔の食わせる責を担った指導層は無謀な連中よりはしっかりした連中が余程多かった説に組したい方から、蘇我氏もそれなりの立派な地方のまとめ役をこなし、九州の名君に勝るとも劣らないたいした集団の営みの事例を成していたことを是非、発掘と年代測定によって証明してもらいたいものだ。
藤原宮の明確に中央集権化事業開始の時期以後はまったく異なってくる。
だからできれば広い幅の古代ハイウエイの時期、遺跡の年代測定の精度を上げて、それをわかるようにできれば、そこからかなりのことへと知見の再編集も可能になるのでは、と素人は持ち出して見たくなる。
それでもたった180年間が耐用年数だったのかも、など素人からは感じられてしまう。
だとしても、文字に親しむ中央集権事業の方は確実に、今日に至る文字の使い手を列島中に広めてしまった。ただし、国家公務員でさえ、近現代の一方を担う欧米系タイプの証拠としての文書、記録の類への切実度は、列島に限っては未だ、”いい加減”を通しているようだ。


デジタルのことばで大小の端末を繋いで情報をやり取りする仕組みの代用にしているようだ。
電気の性質を使ってそのいくつかの微細な量を使い分けることで違いを生じさせる一面を持つのでことばの含み通りのデジタル/アナログの使い分けは難しい。
ヒトの発想からはかけ離れた(性質上限られた仕事の)膨大量をこなすプログラムを、ヒトが作っている。ほんのわずかの時間を要するだけの厖大な作業をそこに詰め込める発想の切り替えが要る。とてつもない分量ができるので、それを遠慮しないでつぎ込める発想が要る。
通常、他人に対して持つことの出来ない発想だ。
さてその分野の発想からするウイルスはとてもヤバイ系だ。ヒトを困らせる方に特化しているともとれる。
ところが実際のウイルスはそうではない。
生き物を宿主にしているので、相性がありそうだけど、ヒトと馴染んだウイルスは、長年月ヒトと付き合う方での結果の形だ。
喜田氏の知見は、個々の細胞における個々のウイルス遺伝子の変異を生じやすいとして、そこでの進化論のからくりが、そのまま病原性へ表現されるのではなくて、既存の変異した上に、何代も代を重ねてきた変異済みで棲み分けしてきた変異種類間での、生身のヒトの体内での進化論的振り分けが条件に応じて生じる、という捉え方を可能にしてくれる。
前者の方は前者の方で、その時々の条件に応じた残り方、増え方をしてしまう。
ウイルス事情は、ヒトの中で沢山増やしておく方向性だから、やたら増えるのを病原性と見なす場合、当然、ヒト体内での病原性をより高めてしまう傾向を持つ。
しかも不思議なことに、結果的でしかないけれど、絶やさない真綿作戦のようなことをウイルスの方は駆使するように見える結果的な性質を表現することになる。
発熱させて免疫系を活発にするように異物としてヒト体内ではびこるけれど、免疫系がヒト体内を破壊してしまうほどの状態にまではびこる仕方を採らないタイプたちがはびこる。
ヒトに親しむウイルスならば、他でよりはヒトに居ることが居心地良いので、そういうことになる。ヒト体内無しで変な言い方になるけれどそのウイルスは生き残れない(生物ではないウイルス説を採ればそういう言い方になる)。デジタル世界のウイルスは破壊しつくしてそれでかまわないやつらだ(自爆攻撃系だ。潜伏して情報漏洩に使うにしても性質は似ている)。
相性の良い別の生き物に居たウイルスが他のにたまたま移れてそこで増やすことに成功した場合、お互いの相性を探り合うような表現をとれる過程が介在することになりそうだ。そうなると時には悲惨な症状を呈することも宿主には生じてしまう。そうでない、まったく何事も起こらないようなこともありうる。免疫系にとっての起動因になるかどうか次第。
だから免疫系発動の様々観察を経た病気分類がよりこれからの医療には相応しくなるかも、など素人観測は余計なことを言ってしまいたくなる。
安保氏の知見は生き物のヒトが反応することを信じてよしという姿勢を強調する。
間違わない。大抵なら免疫系がなんとかしてくれる。荒れることもあるけれど、既知の期間、一週間とかを経れば風邪などの場合、落ちついてくる。
無理をしていると、無理をさせていると、過剰な反応を生じさせてヒトの心身の耐性を超えてしまうようなことも起こる。
脳梗塞とかリウマチとか糖尿病とか高血圧とか色々有名どころが目白押しなのが今時だ。
ヒトは日々の活動を支える心身としてしっかり機能を保持させようとし続けている。
細胞分裂は組織によって特徴を持つ。そこら以外にもかなりの観察知見を持てているのが今日この頃サイエンスだ。
緊急時のことでも今時のテレビドラマですら、すわ血液はとかで反応できる話題にしている。
本当にごく限られた要素がその短時間でのヒトの生命持続を左右する。その一つである血流の勢いや量の確保は重要なわけだ。
止血しろ!は血流量を保たせるための指令だ。
血圧が下がってもそれが不可逆死の過程の指標となるくらい、重要な要素で、そのための薬物投与の緊急指令が出る。
気管確保もしばしば出てくるシーンだ。
血圧は必用だから高血圧に傾くなら、ヒトの心身はそれを求めていると見るべきことを安保氏知見は指摘する。
それが困る事態であるならば求めてくる要因をこそ改良すべきと、見なす。
過去の蓄積の場合が多いからそれに成功するためには逆行の長期間を要してヒトの耐性、我慢強さとか飽きないこととかとの相談としがち。それでもリラックス作戦と抱き合わせにして成功させてしまう豪傑が沢山現れるくらいに知見が普及しているのが昨今の事情のようだ。
ヒトとの付き合いの長いウイルスも当然(結果的外見上)無理はしないはずだ。