連載は続く~SF掌編『王朝歌壇の研究の山口氏から刺激を得たいくつか』編


仮説の手前、多分・・の辺りで失礼ながら続きを。
この間も多少色々な本を読んでいて、素人なものでかなり刺激を得ている。ありがたい。
基本情報的な所では、出版というか文献事情辺りにもかなり色々を教えてもらっている。
巻子から冊子本への移ろい。
ここらについてはウィキペディアを手がかりにネット情報からも今ではかなりに近づける。
現出版物の方でも
山本信吉著『古典籍が語る―書物の文化史―』(’04 八木書店)
竹田悦堂著『書の和紙譜』(二冊セット本の上巻、’96 雄山閣出版)
など図書館とか利用すれば簡単に読めそうだ。
ウィキペディア巻物から(以下引用)
”日本でも飛鳥時代奈良時代の現存する典籍・記録・文書はすべて巻子装である。”
平安時代中期以降になると帖装・冊子装が一般に利用されるようになった。”
(ここまで引用)
活版での印刷方式ではなく写本がもっぱらだった時期という事情プラスだれもが図書館に行ってかなりの原書・原典の類に近づけたわけではない事情を想起してもらって、六国史万葉集がいかに読まれたか、写本とか手を加えるとかが成されたかなど想像できるようにする。
以上は既述今西祐一郎著『蜻蛉日記覚書』(岩波)での引用等からその著者本に当たって得たヒントから整理できた。
特に山口博氏の『万葉集形成の謎』('83 桜諷社)からは刺激を得ている最中。
山口氏は氏の専門知見を踏まえて、また、定説というよりは専門家間の検証作業抜きの思い込みも時には生じてしまうということを踏まえて、万葉集には草稿の類と”平安期”にそれを元にした勅撰のものと、私撰のものが成っていて、更に私撰で抄本も作られたと仮説として提示されている。
1980年代までの研究史が前提の記述を令和であり西暦2020年代に持ち出しているので、現状の万葉集研究史についての無知をさらけ出しているのようなものだけど、そこは素人仕方がない。
もう少し具体的にふれてしまうと、菅原道真氏がその立場上、万葉集の草稿や日本書紀の原典に直にふれうる位置にいたことなど、それなりに先のふれた事情・制約を考慮されている。
そんな山口氏のいくつかの指摘から素人流のいくつかも指摘しておきたい。
たとえば菅原道真氏ならば、大変な境遇となってしまったようだけど、良房氏や基経氏らと近く、子の時平氏との関係では粗悪になっている。
でも忠平氏が名誉回復とかかわっている。
万葉集には中央集権化との関りで、九州とか分権というか各地の独自性の過去を具体的に各地に感じさせてしまう、思い出させてしまうなにかしらが付きまとっていたのではと思わせる。それを整理して読める立場の人々ならばだれでもよめるように本にしてしまったことは、どうだったのだろうと、政治の方で原因が仕立てられているので、きっとそちらなのだろうけれど、意外な面もと想像してみた。
それから桓武天皇にとっての太祖、先祖の件。
それぞれが天智であり、光仁天皇だ。
かつて渡辺氏がその著作において中大兄の扱いについて疑問を紹介してくれていた。氏の著作からは今一ピンと来にくかったのだけど、山口氏の本から、やっとひょっとしてのピンが感じられた。どういうことかというと、残党の件だ。
残党のやらかすこととなると、ヒトの同情心とか忠義心とかに乗って、自分たちの欲の無理を多少なりとも時間かせぎして延長しようとして、余計な犠牲に巻き込んでしまいがちだ。だから内輪のだれかたちからは同情と誘うかもしれないが大局としては批判にさらされやすい。
でも国とかのまとまりで主導してきた人々間でのそのやりくりとなると、その同情の働き方もまた特殊となりうる。
だから当方は当初、藤原氏にとっての百済系とかと思って桓武の改革を受け止めてしまったけれど、残党脈の復権と見れば、後の失地回復へのときたまやってくる活動の史実に説明がつきそうに思えた。藤原主脈は失地回復にそれほどこだわっていない、と見る見方。
でも中大兄とともに評判を落としてしまった残党脈にとっては、そのままとはならずに、同じように政治とも関われる条件を得ることに通じる。そうなればいつかは失地回復だ、という魂胆を時に出せたりするわけだ。
鉄材料をめぐる半島の頻繁な往来とか、とにかく失地回復とか侵出とか危ない動機が働く余地よりはヒトの積極的な活動の動機の方が勝っておかしくないけれど、そこを圧して、危ないのが史実としては過去に何度か起こっていた。
専門家諸氏において、その厖大な知見でさえも、意外な思い込みが邪魔して折角の整理を台無しにしかねない辺りを、こんな程度の仮説っぽい噺だけど、いくらか参考にしてもらえればありがたい。
中央集権について制度と関わる方向性を心身に共有できるようになれば、分権もより機能させやすくする。分権の各地においてだって小さな中央集権機能が働いていると察する。しかも、理念としての民主主義を実際的な意味合いから機能させることの工夫が不可欠で、理念倒れしかねない民主主義の脆さにも今はだれもが気づけている。
時間のかかるのが民主主義だ。でも救急車は大いに役に立つことがあるわけだ。
救急ヘリのたとえでもいい。
多数派が暴走することの危険と中長期にもたらす副作用についても、その両方に内実を持って批判可能な時代だ。
先のように思い込みを知見が成しやすい。
工学的か理論的にかで代案が息づいているにもかかわらず、多数決か人脈か金権かで押し切ってしまうことの人心を落ちつかなくさせることと適った策へと向かわせにくくする愚とを今簡単に指摘できる。
中央集権化の時期の暴走は仕方なかったと言い切ってしまうのも問題だけど、今はもうその時期ではない。だから貴重な様々のアイデアを、その事態に応じて時間をかけて検討し合えることはとてつもなく貴重だ。その貴重さを支え合える可能性を秘められるようになっているのが今時だ。
もう一つ、平氏の問題。
平氏の主脈は天皇を直に手元に置いて”没した”。
平氏の観念では天皇は新たに仮設された仕組みであることに無知だったと素人は捉(とら)える。
だから中央集権化の起ち上げ時期において、触れることのできない人質とはなりえなかった。簡単に(中央集権化事情の困難さを共有できていないとして)逆襲された。
桓武改革後の残党脈復権との関係で分岐脈(源平脈)を理解できるのかどうか。
文字を使っての営為として将門記は貴重とも思えるけれど、先行して、将門氏のエピソードは藤原氏によって使われていると仮定するのも素人流だったりする。
平氏は活発だし有能だから、(交易の船とかそれなりの質を確保できていたらの話だけど、諸外国の交易系並みに)貿易港としての霞が関域を拠点に巨大な資産を形成していたかもしれないし・・とか想像できないかどうか。でも平国香氏が関わる事件が起きたり、清盛氏の脈でのことがあったりで、影の実力者のようなその後に連なっていく(中央集権化事業の奥義の埒外にあった可能性と鎌倉期の北條脈などそうではないかもの可能性など)。
ついでに、足利学校のこと。
旧文献と言ってしまうけれど、今では手に入りにくくなっている。古本でも高価。
それら旧文献に目を通して、検討され、現足利学校知見として提供されていることをNHKラジオの「私の日本語辞典」の予告で知った。
新藤透著『戦国の図書館』('20 東京堂出版)など読める。
上記山口氏の本の中で、平安期に所蔵の文献が湿気にやられてだめになったのと上手く保存できていたのとがあったことなどふれている文章を引用されていた。
とにかく、その手のことに熟練して確かに保存するだれかたちもいれば、そうできないいつもの生活を送るだれかたちも大勢いたのが列島で、ほとんどその昔のオリジナルは残っていないようだ。
紙が湿気に弱いくらいわかりそうなものだ、と思いたいが、そこらを軽くつい見てしまうのが大方だったようだ。
人口圧が様相を激変させた。土地を耕すタイプの営農がそれと密接だった。と仮定できる場合のこれからの人口圧の問題を激変しつつあるグローバルな今日に持ち出せそうにも思う。