連載は続く~SF掌編『コロナ騒動の最中、お年寄り諸氏は発信できているだろうか』編


今の長雨が季節の移ろいの印というには時期がずれ過ぎている、という辺りを、ネット発信される物知りな諸氏から知ることができた。
たとえば、これで季節変化へと動くなら、それはそれで一種"異常"と見なせるわけだ。そこらの指標を得たことになる。

藤原宮の画期性は、それ以後の中央集権化への特化とも見なせるような力の注ぎ方と密接なこと。
"化"へと誘えて、中央集権システムのなんらかを何年もかけて試せる慣れが生じれば、それはそれとして、列島の試行錯誤の一つの形・モデル提供となる。
そういう画期性、性質のところを見誤ると、(すでに列島域規模で中央集権化していた諸勢力間での支配をめぐる)覇権争いめいた話しでまとめようとしたくさせる間違いに誘われてしまう。
むしろ一種バラバラ性を濃くしていた列島にある圧しがあって、九州の小さな政治勢力に試行錯誤を任せられたという見方に沿うように試論しないと、そうなってしまう。プロの仕事ないしノウハウがこの場合、中央集権、やってみない?!で(列島規模において)始まったのだ。
それと、明治以後の欧米発想系で育てられる官僚層の要素を抜いた、理念的過ぎるのかもしれないけれど、平穏・平和希求の列島支配勢力の思惑の偶然性を頭の片隅に置かないと、欧米発想での右・中・左の弁証法役割分担話に誘い込まれてしまって、わかることもわからなくさせてしまう。
一人前に育てて、一人だしさせることも含ませる育て発想は、たとえばの話し、民主主義の基礎ではないだろうか。でも前者は、原始的・伝統社会系ほど立派に機能させてきたのではないか。
列島では、神道という教義伝承システム以前の、神々についての伝承系が各地に育っていたりで、それが発想に無理なく入って、仏教の教義伝承システムを導入しているいきさつを書記などから知ることができる。意識的なことばではすでに仏教教義が触発してくる平和へいざなう集団の営みを希求している。万葉の柿本人麻呂氏のような神の使い方ではない、神がちらちらと発想には含まれる。
ここらは考古遺跡知見からエミシって?それらとの争いって?と(先入観への)検証の必用を発信されるようになっている昨今を踏まえられれば、偶然と素人が指摘してみたことのいくらかを汲み取ってもらえそうに思える。
宗教集団間のむちゃくちゃな争いごとに終始してきた欧米系の底の問題を今だから、しっかり踏まえて落ちついてヒトの営みの将来をことばにできるようにする必用を素人は指摘してみたい。

そこで映画『ニノチカ』を参考に、西欧の貴族発想にも・・の辺りを可能性の方から、指摘してみたい。
そこらは、だれもが一辺老人介護施設で少なくとも数か月働いてみて、自らの素の姿を知ることを試せることと、同じように働く誰かたちをリアルに観察できることから、今の人々の構成のリアルも知れて、ことばが優しく包んでしまって知りえない、ヒトの営みの試行錯誤の論にも一定の参考にできることにも誘うだろうし、実際にそういった人々によって面倒を見られる側のお年寄り諸氏のリアルとも付き合う関係で知り合える。ここは知り合える関係というのが大事になる。こちらのこともあちらにしっかり認識される。逃れられない。
ただ、施設介護では、それが5分の関係になりそうにない問題を底流させている。
お年寄りやその家族からはそのリアルを語る言葉をなかなか紡ぎだしにくくなってしまうわけだ。
で、ここではそのことではなくて、お年寄りが長生きするのだし、不死の病系であっても新陳代謝の活発さと関わるタイプの場合、お年寄りにとっては幸か不幸か(ここらは働くと直ぐに聞かされるのでわかるのだけど、長生きしたくないねぇ・・など冗談8割くらいの感じでしばしば話しかけられる)じんわり弱っていくのかもしれないけれど、他でのケアが関係性として円滑である場合、長生きの勢いのままが継続しやすい。不思議そうでそうだ。ちょっと若ぶったというか活発なタイプは、病を得ている場合、急変しやすい。
糖尿系(高血圧とか、症状わんさかな諸氏)の人々や脳梗塞後でじわじわ日々のペースで認知機能にも影響するようなその後の症状進行のある諸氏はどこに住んで居ようと大変な晩年となってしまうのだけど、そうでない諸氏は長生きする。
だけど大抵、周辺の身近な同年代がだれかれと亡くなっていく。夫婦ものの場合、かなりの年寄り夫婦になる以前に片方が亡くなる場合と相当な老年カップルの時期になって片方が亡くなる場合とではここでのこだわりにおいては、質的な違いを生じさせる、と指摘できる。
老人の性の話題については時々マスメディアのなんらかが持ち出したりする。
年を取っているから妊娠とかと関わる心配は要らない。偶然もありうるけれど、通常心配要らない。
けれども年を取っていてもヒトのことだから、こんなことするんじゃなかった・・と後悔する機会は若者たちの体験同様、ずっとありうる。ここらは老人だからって避けられない。
ヒトの関係性は、付き合いつつ、いつのまにか相手のことを相互性において、色々探っていて、分かり合えているものだ。その知り方も含めて、付き合いの質を構成してしまう。
だから長年付き合ったり、遠い知り合いとして、知り合っている関係性を保持していただれかたちが、少しずつ毎年減っていく、というのは実質的な"寂しさ"とつながる。
寂しさとか情緒っぽいことばにしてしまったけれど、素性のところに、いちいち心配がいらない関係と言い換えられる。
もちろん、世の中の詐欺っぽい事例で、知り合いのつもりが・・のような話しも一応念頭に置いておきたい。
とにかく、老人たちは知り合いは既知の仲間が少なくなる一方でいいのか、ということへ、介護施設で仕事できるなら、シンプルに回答を得られる、と指摘しておきたい。
そしてエルンスト・ルビッチ監督の『ニノチカ』だ。・・・(*)
ここから、どうなにを語れて、どういった一応の結論に導けるかという話しになる。
だけど、それは次回か、そのうちに。



アメリカの映画を作った諸外国からやってきた脚本家・監督そのほかの職柄の人々ということが、改めて面白いことだ、と思えた。
諸外国のその諸外国で作られた映画がその諸外国っぽさを発揮してしまうとしても、それは映画の"せい"ではない。アメリカの映画の作り方にもし長所を見ている膨大な諸氏がおられるなら、そこには諸外国からやってきた人々が関わっており、なのに諸外国っぽくない、ということにこそ気づけておかしくない。