連載は続く~SF掌編『なんらかの制約を克服できたとして、その先・・』編


人の付き合い方自体は、時代相ということで、時期時期に様々が生じやすい。
そこにどういった動態の作用が働いているかなど観察する学問もそれなりの時期相について、後日的なヒントを提供したりできる。
人付き合いの隠された差別性をできるだけ少なくして可能にする志向の理念型として公務系にゆだねる方式を想起可能だ。
そこには任せきること由来の弊害への考慮が促(うなが)され続ける。
一方で、付き合い上の小さな政治の力関係、思惑などを持ち込まないで済ませる、ひょっとしたら上手くいくかもしれない理念的思惑を漂わせることも可能にする。
野放しにした人付き合いのありさまは構成メンバー次第のところもあるけれど、確実さを巡っての考察のための時間的余裕をお互いがどう持つ気になっているかとかが関わって、権威系の集団化を採ってしまったり、近いうち分解するような独立心の横溢する集団化を図ってしまっていたり、自発性を支える個々の内実を測り損ねる度合に応じた集団化運営の円滑さの違いとして現れたりの集団化実験をみられたりなど、色々が生じやすい。
そんな、試行錯誤に伴う面倒を忘れないようにしつつも、現進行形の一面について、たとえば、地域に足場を置いて日々を過ごす仕事生活の形が職業によっては多数を得ている状況のその先をつい展望させたくする。
日中の遠望、緻密へ視野を届けやすい時間帯には仕事で生活の場から離れている膨大な諸氏に実質的地域の営みを任せられるだろうか。下から厖大で精度の良い情報を汲み上げることが可能な官僚組織による設計が世の中をある程度動かしてしまう要素を無視できないけれど、大抵は隔靴掻痒系のプランが時代相を形成させやすい。
住む人々が申し合わせることなくだけど環境が求めるなんらかに素直に応じるとそれなりの、”その時期由来のテクノロジー制約”ならではのある形観をていする、地域性などが発揮されたりする。
そこへ行くと、ある時期のその場所性を感じ取ることすらできてしまう。
しかも快適さへの漸近線が張られている”群れ”だ。
けれども、先日引用した丸山氏らのヒントから、そのためのプロパガンダに使われる材料があくまでもプロパガンダゆえに、科学の手続きとかにこだわらない類であるために、議論はしずらいことになっている。ただ話題作りにはうってつけだから、啓蒙メディアの弱点でもあるのだけど、つい話題として使って一時を風靡(ふうび)させやすい。
丸山氏らはごく真面目に、サイエンスの土俵を用意してそこで議論しようじゃないかと誘っているけれど、相手は、初めからある目論みに向けてのプロパガンダを選択しているので、まったく乗ってこないというか、乗る必要を感じていない可能性を素人は感じる。
初めから意図的に議論にはしたくないわけだ。

畠山氏の森が育てる沿岸域の生態のサイエンス知見は今では周知になっていて話題にし易い。
サンゴ礁の海域はその線から、貧の栄養状態なので澄(す)んでいる。
けれど注意したいのは、その海域は生物相が豊かだ。なぜならサンゴ礁がその為の”ごはん”を提供しているから。
貧なんだけど、豊にもなっている。先日引用した鈴木氏のpdfファイル一ページの内容には、どの数値ゆえに貧か、豊かか、など記述されていない危うさを伴わせていたのだけど、そこを置いて、栄養分を提供して魚ほかの生き物が豊かな状態を形成していることから、単調に貧とは言えない、ということで理解可能になる。
サンゴ礁が貧ゆえに育つきっかけを提供するけれど、サンゴ礁が形成されるとそこは魚たちの極楽(食や身を守るとかで)にもなりうる。
サンゴ虫自体は宝石サンゴ知見からして、褐虫藻なしでも生き続けることは判明している。
けれども、多くの栄養分を褐虫藻にゆだねた状態のサンゴ虫にとっては、共生が不可欠なことにも気付ける。
サンゴ礁を作るサンゴは驚くほどの速さでそれを造形し続ける。
宝石サンゴとの差をネットで確かめてもらいたい。

たまたまNHKラジオ深夜便にて、沖永良部島で実験生活されている氏の話しを聞けた。
その昔、沖永良部島の海岸では海藻がたくさんあってリーフに出るのも大変だったそうだ。
サザエもたっぷり採れたそうだ。
そこらの栄養循環網を小さな歴史探索してみることも、何か役立ちそうだ。
沖永良部島住民諸氏からのネット発信を待ちたい。

より人為の方に話しを移すと、満遍なくとか先日ふれたのだけど、買ってとか手に入れて食べたり、裁縫したり、工作したりして生活し続ける実質の所(他人の仕事を利用するにしろしないにしろということ)を踏まえられれば、需給の調整をどうゆだねておけるのか、という関りを想起し忘れてはダメなわけで、満遍なくを思い付きで力づくで成したところで、その後が保証されるわけではないことには相当な注意が要るのだし、経済系の方での多分常識の一つだ。
前提にはヒトが水分を適切に摂取できる時間間隔制約や、食物摂取の内容とその時間間隔の制約や、集団生活上の清潔確保などを、市場に任せておけばそのうち需給は調整されるのさ・・・と言ってのける世間知らず諸氏に、ちょこっと”お忘れなく”と指摘する必要もあったりする。
そういった制約を織り込んで、しかも景気循環の落とし穴については相当昔に一応克服した経済系の試行錯誤でも、未だに、単に不満を貯めさせやすい(ここらは時代の移ろいで驚くほどの構成の変化を生じさせやすいし、一定の巨富が公的認証のもとに温存されることもある)とかの意味合いからの格差問題にしない、経済の営みにとって返って負担を膨らませてしまうのだから、その時、その時に改善することが欠かせないとかの観点で、指摘できることも大事だ。より普遍的に地表面でのヒトの活動がより円滑に持続的でいられる試行錯誤の中身を問えること。
たとえば、落ちつかない(学問概念上の)西アジア域もついこの間まではイスラムの下、通行が可能にするヒトの様々な営みを広く可能にすることに成功していた。
そこに、性別による不自由差など持ち込まないようにできれば、更に試行錯誤からの新たなヒトの可能性も試せるようにするし切磋琢磨の結果採用されて新たなヒトの習慣を用意できようにしうる。
だからどういうイデオロギーを持とうとも、できるだけ中央集権の狭域(きょういき)での閉じ込めが障害とならないようなおおらかな安全地帯を保証できる各地の集団の営みこそが成功した営み・イデオロギーと理念的には指摘可能だ。
人々はつい営業活動してしまう。商売をしてなんらか需給と深く関わってしまう。そういう元気な連中が必ず各地に”生息(せいそく)”している。それらが安心を得られたり、安全でないために安全を自ら確保しようと危ない方に出てしまったり、そういう不可抗力を生じさせにくくする安全地帯を継続的にしうる集団の営み・イデオロギーが大事だ。
取引の不正への様々な手法からの是正も必須だ。通行する人々への危害への対抗措置と同時に、危害動機を減じて置ける対処速度の気付かせ発信も大事だ。そうやって性別とか弱者・強者をとわずだれもが自由に往来出来て、商売出来て、出来れば各地中央集権運営費用用に(格差状態前提に生活苦を生じにくいしくみにして)納税もしやすくしておくことも、忘れたくない。
そうは言っても今時は大規模なやりとりが必ず並行する。
なんらかのパイプラインも欠かせない装置だ。
膨大量の輸送も車・船・航空機が担(にな)う。
見えにくいけれど、海底ケーブルの類も今や不可欠の装置だ。
もっと見えにくいかもしれない無線系の網の目も活動している。
それらが、人間工学的パスカルの原理応用の下で、つまり怪しい鳴動(めいどう)についての探り合いは必要悪として、どうしてもそこに介在してしまうあたりは、昨今の、政治情勢からも知れ渡っている。
その装置はある程度日頃から通じ合って合意し合って、適時、指令が飛び交って、危険域に行かないようやるときにはやるのメッセージ系ではなくて、知らないうちに密かに行使される類のところで、発揮される。そこを暗黒にしない工夫と、マスメディア部門のジャーナリズム系が、奥義を知らないままでいかに接近に工夫できるかなどが問われてくる。
知らされないままも危険だけど、何かを知らないまま、局所の真実を公にすることのバランスの悪過ぎに気づけないことも力不足の一つくらいには指摘できる時代になっている。
後進国とか色々言われる集団の営み状態の地域については、一般が暴力で委縮し過ぎている程度でその集団の営みの力量を探れそうだ。(暴力の使いては色々だ)
三権の装置を用意して、議論に使える時間が限られている実際的な観点も取り込んで、なんとか暴力には委縮しない巷が用意できたとしても、煩型がいつのまにか覇権を握り勝ちとなるような弊害も、なんとかバランスさせておけそうだ。世間の常態を各地がどう営めているか、その辺りが、試されてしまう。