連載は続く~ SF 掌編『ヒトの営みグローバル下の「列島」版』編

 

ステーキ調理がひときわ上手な二人のシェフが、各地に(ステーキの)名物料理を食べ歩き、スタジオにて自分流に再現調理して競うような番組をたまたまテレビで見ていた。で、昨今の世の中のことを想起しつつ、空想していた。
この番組に寄せてなら、NHK スタッフが各地で取材しつつ人脈を作って、その縁を使ってだれかとだれかとの出会いを媒介している。
そういうことを、たまたま毎日曜つい見てしまう日テレにて昼やっている『地方記者・立花陽介』でのエピソード構成でも本社から派遣されて各地で取材しながら地元と昔流に言うなら"赤っ恥"をかきながらひたすら近づいて仲良しになって人の縁を作って、必要に応じてそれを使わせてもらうタイプの生き様など参考にできたりしていて、その手のヒトならではの密であると同時に仕事上の距離感も伴わせつつそれと感じさせない巧みを日々積み重ねて、実に入り組んだ、ヒトがこんがらかって繋がる、独特なネットワークが生きている状態ということまで想像させた。
そうグローバルなところまで、ここではマスメディア業界が介してのような印象を撒いてしまったけれど、それ以外の膨大なねばっこいヒトの絡まり合いをこの世の中に見ようと思えばできる。
ただグローバルに政治的な駆け引きをかなりの中央集権を達成した組織体が仕切る住み分け要素を持ち込むこともできるので、その場合、それら巷の込み入った結びつきが活性しているのにもかかわらずの危うさも充分に想定可能だ。
一気に事態を動かせる。
とは言え・・のところにも今の情報網のオープンな様、状態が、一般に別のリアルを見せ付けるようにもなっている。
グローバルをなんとか仕切ろうとする勢力の下、諜報の網が暗躍して事を起こしたとして、露骨にワルを働けば、グローバルに評判は一気に下がり切る。二度と勢力としての信用を取り戻せないくらい情報が巷にまで伝わってしまう。
そういう偶然を一応、人々は生きている。
更に、中央集権で秩序だっている営みがどれほど難しい事態か、ということも知れ渡った。
そうしたい思惑で組織的強弱の試行錯誤が繰り返される。でも人々は闊歩してやまない。
そのエネルギーのまとめ方をヒトの集団の営みとして長年月各地で試行錯誤されてきている。
大学的な専門分野の分け方である程度エネルギーを注ぐ向きを制御できたとして、それなりに各自、各地で、産業のなんらかとして形にして持続の形も得ている。
ある時から大量生産の理想を実現できたかのように思えて、それに邁進して、でも理想の内実とは相反する事態をも並行させていることに気づけて、今時だと"地球温暖化"ということにして、問題に対処しつつ別の方向性を模索している按配だ。
話は戻るけれど、人々は乱雑にもするけれど、日々活発に動き回る。ヒト間のつながり形成も惜しみなく試行錯誤し続ける。その元気度に応じて、短期には優劣すら見せてしまう。
中央集権に夢を託す各勢力はそのそれぞれの思惑に応じた形を採用しつつ、まとめたがるのは仕方が無い。
ここらを引き受けて、寄り道すると、イデオロギーと関わることばの粉飾で人々は、若者たちは特に勘違いの方へ誘われ勝ちと想像するけれど、実際には組織だって試行錯誤する世界各地での営みが仮にイデオロギーことばで自分たちの抱負を語るとしても、実際のところ、どういう集団の営みを欲していて、実際に何かを成し易いとしたらどういった集団の営みになっていて欲しいかのあたりが肝になっている。
その為に実際になってみるとそこらが押し出してきて、つい無理強いのようなことをその思惑に応じて成しがちにする。
目標の為だ、今は我慢しろ、めいた常套句が飛び出しがちだし、それが目安にもなる。多分、どうにか自分たちの考えを上手くこなせるような集団の営みの良好な形を成したいと思い続けている。そしてヒトのランダムな動きに大抵の場合、辟易(へきえき)させられて、もう我慢ならん、でつい強圧にでたがる。その際、その組織状態の内実に応じて、巷の蒙る八つ当たり現象が様々に生じ易い。
個人の自由をより強く保とうとしてくれるのは通常(昔流に言うなら)左翼思想だと素人は指摘できる。個々についての尊厳は実に侵害されやすい。そこを掬い取ってくれるのが弱者をも同じように対しようとする左発想だ・・のはずだ。
個人の自由は脆しと同時にお互い様であることを忘れた瞬間にだれかの自由を侵害して得たほかのだれかの自由になりかねないしろものだ。
そのためのルール・法治が要る考え方だ。
しかも個人の自由に寄せた法治であることをたとえば公務系がうっかり忘れたりすると、そのうっかりの時に限っては、個人の自由がどこかへ忘れ去られてしまいかねない。相当に危ない状況を生む。
個々という要素と、当たり前のように雲散霧消させながらも集団の営みをも試行錯誤させてしまう巷の活性状態をただ放置させておくだけなら、人口動態ゆえの可能性をいたずらに無駄にしてしまうことも充分にありうるとヒトの営みは考えて、先のように例えば大学的な分野構成で技を分類して考えて、それぞれに育てて、混合も厭(いと)わずに、一応、今日の各地での達成を見せ付けている。
超高層建築はただ自慢話のタネでしかない可能性も残すけれど、ヒトの印象には働くから、それなりに別の働きをしているとも言える。一方的に無駄なことは多分ヒトはしてきていない。
だけど過剰には違いないし、ついそうしてしまう。仕方の無いことだし、人為だから、もし、他で使えるなら、という思考はいつも用意できていると、いつかは応用できそうだし、それだからといってやはり自慢話の種でしかなかも、のような事例に満ち勝ちになることもヒトの営みのクセだ。
荒っぽくではなく、なぜか、諜報脈が機能したのか、戦闘をかなりの程度抑止できて、一応政府を作るかというところまでは来た土地柄において、やはり、巷の自由度を気にしすぎて、自分たちに思い通りにしたくする、イデオロギーことばでまとめようとする勢力にありがちな挙にできすぎるの?そうでないの?と心配されている向きもなんとなくニュースからは感じられたりの事例が進行中で、中央集権の試みが千年以上続いてきた今時流行りのなんとか"遺産”のようなお国柄が列島での試行で、これには古代中国(の多様な人脈)の太っ腹が大いに関わっていそうだと素人は想像している。
列島の狭いところで易姓革命発想を実行していたらとっくにどこかの中央集権依存で秩序を保つようなことになっていたはずだし、中央集権を勘違いして王朝の仕切りを強引に営んでいれば、国として貧しいままになっていたはずだ。
優柔不断に外交をこなし、しかも優柔不断が発信し易い不信感をばら撒かない工夫もきっと緻密にこなして、列島在住の能力を各分野で応用できて、しかも貧しさのままにしておかない世界情勢判断も機能させてきた。そういう集団の営み面くらいは左、中、右の各イデオロギーで頭がいっぱいの各氏においても一応頭の片隅においておいて、役立つのではないか。

ここまでを前提、というわけではないけれど、家族の構成が巨大になるにつれて、養うことの困難は、恐らく、ちょっと考えるタイプ諸氏においてはとくに、簡単なことと察する。
ざっと眺めて構成員諸氏において自ら必要な仕事を"感じ取る"ということが規模次第で無理なことになってくる。自ずから、仕切り役が出てきて、差し配するようになる。どの仕事に人が足りないとかの類。
食わせることでも、食卓を囲むその規模が人のつながりと無関係な規模になってしまうところまで、抱え込むようなことはしない。家族的小集団の散らばりが自ずから生じる。
そして中には、近いゆえの比較意識の悪いのが生じて、なにかと諍(いさか)いになりやすくさせたり。
集団の長がなんらか口出しして簡単に済むことが届きにくくなれば、代役も登場で、公務系が相応しいという発想まではほんのちょっとだ。
理念的公務系はだれかれ差別無く対応することになっている。それは難しいよ、と通常考えられているけれど、一応、そういう理念でいこうと模索され続けているし、そういうタイプも昔から育つことは育っている。
おしなべて(そういう理念形に近いところで公務をこなすということ)が無理で、テレビドラマも作りやすい、といことになる。悪徳代官は裏の大スターなわけだ。
規模拡大していく中で、昔の温情の向きは忘れ去られていく。それも当然といえば当然かもしれない。だれかれと同じように心配してくれる可能性が失せる。
どうしたって気が利くやつとそうでないやつのバラバラに濃淡もそれぞれで、そういうお互いの遭遇の中で生活しているのだから、他人の芝生の話のような気持ちの問題がいつものことになる人々もちらほら混じるようにする。
個々の思惑はともかく、としておけるなら、とりあえず、個々の才能がそれなりに仕事に傾けられる状態が集団の営みとして機能している状態がより相応しい状態と見なせる。
そのためには・・ということで、ある時期から、稼げる仕事に就きたいはずだ動機を、採用するようにして集団の営みに使ってきた。
1960、70年代頃からそうだったみたいで、かの西岡常一氏がかかわった薬師寺金堂再建事業でも、かつての名人宮大工たちが三倍は稼げる都会のビル建設へと流れていって、人集めに苦労したそうだ。当の西岡氏は宮大工仕事以外は(仕事の性質が極端に違うため技術の保持に繋がらないといことから)請け負うことなく、貧しさを受け入れていたというから、大変な時代だったのだ。
稼げると思って給料指標に応じた就職活動をして集団の営みとしての結果は、共同生活上、ちぐはぐを生じさせて、できることなら住み分けたい、と内心思いたくなるような極端な格差を生じさせた。ほとんどが、大した金持ちじゃなく、ごく少数が極端な金持ちになってしまった。金持ちというと昔発想では頼りにできるだれか、という偶像に見なされ易いのだけど、今時の知見からすれば、無駄に莫大な支払い手段を溜め込んでいる困った連中に過ぎないと見なされる。ついでに、持ちすぎているのに、それがどんどん増殖しやすいしくみになっているから、更に困ったことになっている。
一方で、集団の営みの中央集権中枢では全体のために奉仕する必要上、独り立ちしすぎて、納税だけはしっかり監視するけれど、他は放っておいてかまわないごくごく少数以外の巷のそれでもちまちま次元で格差が生じていて、少ない方は生活にも困る危ない層も無視できない規模になっていて、それゆえに経済を回すための出費で悲鳴状態を囲ってしまう。ここらは近現代の経済の営みに仕組み上からグローバルに各地で生じさせ易い。
だからってごくごく少数の稼ぎを一斉に引き上げれば済むグローバル規模でもない。
そういうからくりに安住できると勘違いしているごくごく少数もいらっしゃるかもしれないけれど、恐らく多くのごくごく少数の支払い手段膨大量保有層はリアルなことに気づかれているはずだ。
膨大な格差を込みの困難な状況を助けられもしないし、贅沢三昧は一生続けることができるし、住み分けないと心配でグローバルに安楽な生活の場を得られそうにもないごくごく小数が、それでもヒトゆえに個人的思惑で出費の試行錯誤は楽しんでいる。
でもグローバルに展開中の集団の営みにとっての困難を解決するほうへと支払い手段をめぐらす知恵に欠けたままだ。
かつては、収入を均(なら)すニュアンス、発想から工夫をこらした累進課税の手法だったので、働く意欲問題、新規事業応用可能性問題などある程度想像し易い課題を踏まえて、避けられるようになってしまった。また税収の観点からも間接税に傾ける発想が並行した。
ここらはヨーロッパ方式の間接税タイプと列島タイプの間接税タイプの質的違いとして一時話題は提供されたけれど、根本的には検討されないまま税率論議で明け暮れている。
素人発想から、累進課税発想を復活させてみたい。
その場合、発想の根拠は儲け過ぎ抑止だ。
一応それでも問題をはらんでいて、だけどそこを先にこだわりはじめると話がちらかるので、まずは、累進課税を向けすぎ抑止のため、ということで話を進める。
たまたま歓迎される商品を開発できて、大いに売れまくったとする。
非常に儲かっている。それを累進課税の工夫によって、途中で頓挫(とんざ)させていいのか?!という話にふれる。
地下資源でも石油の場合、限られてそうにないことがわかり始めた頃に、脱炭素の流行が始まっている。
かなり長年月利用できそうな石油に一応気づけている、ということで押さえておける。
石炭は(可能性ということでは)更に・・・。
資源は限られている。ヒトと関わる場合。
儲けを膨大に得ているという状態は、支払い手段の占有量ということから、資源確保可能性がその分確保できていると見なせる。
実際に行使し始めているという場合も巷を見ればきっと探し出せる。
個人にも相当量支払われている。何かを買うにしても、より多くの仕事に満遍なく支払われるタイプをたかが個人の消費からは想像しづらい。
たとえば、自動車が一億台分、年々消費されているのと、大金持ちが高級車を1000台買ってばら撒くとかしても桁違いの効果の違いを即見ることができる。
仕事の波及性がまったく桁違いだ。
個々の巷の給料生活者が更に支払い手段を使ってくれる。そこまでくらいは想像しやすい。巡りめぐっている。
儲けること、その動機を邪魔せず、だけど、規模を策定して、それ以上の儲けは経済の営みをかえって妨害する可能性大ということで制御する発想だ。
儲かるからと同じ、似た、商品をずっと作り続けるために、多少心理的誘引トリックを使ってしまうということが続く、無駄過ぎについて、想像してもらいたい。
めぐり圏が狭められていることにも気づきたい。
雇用に関する波の短期版激しさみたいなのをある程度やんわり変化に誘うことも可能性として指摘できそうだ。
発想の違いを踏まえて、話が面倒になりそうな実は・・の発生してくる問題群に関心を持って、実際にできそうな累進課税のやり方は、と考えてもらえる事情通史はいらっしゃらないものか。
素人はこの程度しか指摘できない。しょうがない。