連載は続く~SF掌編『若い世代たちがどんどん年老いていくけど、先も相当に長いぞ』編


怒りが相手に伝わるような表現型となるためにはそれなりの条件が要る、ということを故安保氏は言及された。
その為には血圧の上昇が要る、ということだった。
およそ200は超えないと、迫力が出てこないのだそうだ。
だから一面、怒る本人にとっても相当に危険な行いであることに気付かされる。
流行りを介して生き様のなんらかを決定しがちな生活を営む多くのタイプ諸氏においては、マスメディア経由の内実がなんらか生活の多くを彩(いろど)りがちにしてしまう。
そうではないタイプ諸氏もそれなりに同時代にはおられることを一応押さえておける。
テレビのドラマにて原作横山秀夫の2作を比較するように見ることができている。
『沈黙のアリバイ』と『モノクロームの反転』。
それを段田安則伊武雅刀石橋凌/渡辺謙世代が演じたTBSもの(2005年作)と2021年作のテレ東もの(岸谷五朗/仲村トオル世代が演じた)で見た。
ちょっとした指標を示すなら1964(昭和39)年東京オリンピックを境にして、それ以前にある程度心身世界を育んでいた世代と、それ以後にそうできた世代と見なせそうだ。
そしてどう違うかというと、一種執念めいた沈潜させた心身の勢いをエネルギーとかバネにできてしまう、ないし栄養にできてしまう世代と、それを困ったストレスにしてしまう世代というように指摘してみたい。
一見執念深さとか、陰湿さとか、しつこさとか、暴虐性とかを後の若い世代たちが示せるとしても、異性間の交わりのあり方、お茶する場を含むあり方、食事の内容を含むあり方などがしっかり心身に食い込んでの表向きの表現型であるということになる。そこには先に指摘したマスメディア浸透が相当に絡んでいると見ている。
しかも、その個性たちが”選択的”関係用に携帯ツールを駆使しているというのが昨今だそうだ(テレビ番組で知った)。
番組を見て、その役作りを比較してもらえれば恐らく素人指摘だとしてもそれなりにうなづいていただけそうに思う。
そして素人は更に思うわけだ。
既にそういう時代なのだ、ということ。
その気になれば世代を継ぐ必須の生き物ゆえのヒトの行為の群れとして、交際はなんともごく気軽に、酔いの勢いで数を重ねることがしやすくなって何十年間もたっている。
ちょっとお菓子付きでお茶するくらいなら街場ではだれもが簡単にそれなりのデザインされた場でできてしまう。食事も豊富な場が用意されている。それが心身に響き浸透し、その背景をマスメディアが支える構造だ。
世論工作もそれなりに人の配置は緻密そうだ。過程の繕いも充分に試験されている。
しかも、"不易"な何かに気付ける程度にもよるけれど、その圧は必ず日々、時々刻々として自らになんらか意識される。
ここで無意識とかなんとか安直なかつて概念とされていたような用語を使うのは避けたい。
素人観測的には、型知見がその反証となりうると見る。
意識していても身に着けた、心身化を一応なした状態の心身はその通りに反応してくれる。けれども、ふっと意識が抜けたような状態にできた時ほどの自動化を呼び込みずらい。
でもこういうのを多用されてきた無意識が発するなんらかとは言いづらそうだ。
でもそれこそ意識することを離れて無意識下での心身状態の動作と見なせる。
が無意識という言い方では模糊模糊だ。
よりサイエンス知見としては、虫とか微細な生体内生き物たちが、なんらかの経脈を取って宿主の行動を左右してしまうという、一見恐ろしい指摘だ。
無意識概念として束ねてしまうと実際のあり様を限りなく不鮮明にさせかねない。
だから昨今なら、その"無意識"という言葉で実際には何を指摘しようとしているの?と質問しておいた方が無難だ。
若い世代たちも、かつての世代のようにドラマの中で演じ分ける。
その際、役作りの世代に応じた作法に自信を持って、活用してもらいたい。そうすれば、一見相当に違った作風で、一種の軽さが際立ってしまうかもしれないけれど、ヒトのあり様が相当に違ってしまっているのだから、その違っている心身たちがどう世の中を動かしているのかということを旧世代は学べるし、若い世代諸氏においては入り口として違和感なく入れるし、しかも、様々な効果を逆にその素材を前提に持ち込める。
すると舞台設定に無理か無理じゃないかを検証させやすくして、同じ原作に新たな光が射すかも、ということも考えられる。
更に敷衍するなら、本当に警察とか、正義をどこかしらに控えさせたような圧が工作する現場で若い世代がどうしてもそこを担うことになるのだから、表現型に流されがちな若い世代の制約に振り回されず、かといって、心身化した身の軽さはいかんともしがたいはずだから、そこらを世代間調整しながら、職場の本格的な活性に活かせる方策のなんらかヒントにもできそうに思える。


マスメディア問題は古くて新しいままいつでも進行形のようだ。
コロナ騒動では、免疫についてわけのわからないまま基礎研究者でもない専門家諸氏にそのノリで質問して、わけのわからない免疫論議の場を盛り上げ続けている。
北里柴三郎氏の名が沢山出てくるようになった。
抗体とかワクチンとか感染とかもことばも氾濫している。
しかしバーネット氏の名は出てきていないようだ。
クローン選択説。そして利根川進氏の名も多分出てきていない。
インフルエンザ知見は人々において経験的に熟知されているし、関心のある諸氏においては免疫知見も絡めて習得されていることと察する。
感染3日目くらいから免疫系が反応しだして1週間から2週間くらいかけて回復させてしまう。そのことを熟知した上で、インフルエンザ流行の時期に備え続けてきた。
更に突っ込んで、距離を置いて、身を引いて、なぜ新種のインフルエンザにもそれほどの短期間に身体は対応できてしまえるのか?そう自問して謎を感染症刑事になって探求する。
すると岩波文庫の『近代医学の建設者』の著者メチニコフ氏や北里柴三郎氏、そしてF.M.バーネット氏と大雑把にたどれることを知る。
早さの仕掛けはそんなところか・・・と素人なりに納得してしまう。
が準備している、できていることのしくみは?となるとまたわかりにくい。
そこへなんと利根川進氏がノーベル賞!だ。免疫研究だ。
どの著作だったか記憶が不鮮明なのだけど、利根川氏によるしくみ発見のその先にクローン選択説が働いていて、完璧とはいかないけれど、相当の確度で対応可能にしているヒトの生き物たちの不思議を素人なりにわかった気にさせる。
もう少し細かく言うと、マクロファージとかも相当に活躍していて、果敢に鋳型提示の役をこなしている。
それぬきに物事は始まらない。
だからワクチンの効果が簡単に衰えるとかの指摘は、そのワクチン、鋳型として欠陥商品?と素直に質問できるマスメディアの"強靭な"スタッフを育ててもらえれば、など素人期待になる。
巷知見からすれば、ワクチン期待依存はインフルエンザに効果なし、が常識のはずだったので、今時のコロナ・ワクチン騒動もみょうちくりんなことに伺える。重症化を避けるはだれかにとっては真実でだれかにとっては嘘っぱち程度の風説の類だ。
北里知見も説得力を発揮しているだろうし、バーネット知見もそうだ。
利根川知見もそうだ。
だから欧米医学が得意とする対症療法が欠陥を引きずっているとしたら、その欠陥が顔を出しにくいステージを活用する応用力だろうと素人は見る。
継続使用を確実に避けることを前提に、症状緩和のお手軽薬を開拓しておく。
なんらかの強力そうな感染症には、そういう欧米医療研究系の関与は可能と察する。
でもしつこくなるけれど、継続使用を避けることがその先の危険回避につながる。
欧米系はそこらは弱点のようだ。
基礎研究についての集中を北里氏のように得意とするのが東アジア系と見なすことはできない。どこにでもきっと大勢いらっしゃると思える。
その成果が、緊急の重症系感染症の早速感染して事態に応じる実働部隊のための策を開拓使うる。ここらは奥義の類かもしれないが、多くの諸氏が共有しても良さそうだ。
コロナ騒動でもそうだけど、衣食住の背景をしっかり保持し続ける発想を欠いて、平気で日々の経済活動を封じるようなことを成す政治家を初めから選ぶようなことをしないで清むフィルターとして使える質問が要る。ヒトがある程度自在に活動できて、物の移動とか提供とかをオークション系発想ではなく、行き届かせる発想で成せるタイプたちが表立って発信しやすくする環境をいつでも用意できるようにすることも大事だ。
感染症のタイプ分け術もしっかり整理できることが要る。
すぐに重症化して死ぬタイプかそうでないか。
すぐに死ぬようなタイプの場合に限って、狭い範囲に隔離できるだけで相当な効力を発揮する。
数日潜伏してしまうタイプとして、それが簡単にだれに対しても死に至らしめるタイプかそうでないかで、分けることができる。
今回のコロナの全体像を症状変化として早期に整理できなかったから混乱の巷を提供してしまったと見ることもできそうだ。
罹って治るタイプならば、症状次第で、まず罹って免疫を付けて、現場の実働部隊を担うということを集団の営みとして実現しうる。ここらが歴史的免疫知見から推測できる。
からだの具合を親が心配するし、実際に日々微細な心身のくせについて我が子たちのデータを蓄積し続けている。そしてインフルエンザが流行ってるそうよ・・なんていう風評が流れ出すと、体調とかちらっと観察して、家の中にばかりいないで外であそんできなさい!とか言って、心身を鍛錬させる。でもちょっと心身が弱い感じになっていて、そこを強くなる方に誘うか、大事を取るか迷う場合、実際的には一か八か、日頃の親としての経験を自ら試さざるを得なくする。
でも経験を積んでいるからそこはヒト性を発揮して、より確実な選択が可能になったりする。
見誤って、風邪をもらってくる、ということも起こる。その時には熱でうんうん言う我が子に寄り添って、それが薬ともなって免疫系が活躍しまくって、子供たちは健やかに大人へと近づいていく。親の行いはちゃんと心身に記憶される。

以下のネット経由資料が免疫系の歴史的知見に近づきやすそうだ。
TERUMO
https://www.terumo.co.jp/challengers/challengers/19.html
国立科学博物館
https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/tour/nobel/tonegawa/p3.html
国立国会図書館(以下表示後、下段(▼全て表示)をクリックする)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000734143-00
免疫学100年史 - Juntendo Medical Journal で検索すると
28_545.pdf で読める。