連載は続く~ SF 掌編『めぐりめぐっての一事例噺』編


 列島での購買力増強策に関する政治経済小史は、ある世代までがしっかり経験して今も年齢的には健在な方々が膨大におられる。
 その走りの時期から関わった専門家筋の諸氏も含めて(これらの方々は相当にご高齢だ)どういう推移をたどったかを経験の場に応じてことばにしてくれる諸氏のことだ。
 一通りを素人的にまとめるとしても長ったらしい文章になってしまうので、そこは避けたい。
 だから端折りに端折ったことにはなるのだけど、そこらもふれつつで昨今の辺りまで今回はふれてみたい。

 端折りに端折った話の結果、こんなことを指摘しておけそう、ということを先にふれてしまう。

 たとえば介護業のこと。これまでもその中でお金が動いてくれるようになれば・・・の話は何度かしてきたけれど、もう少し経営っぽく。
 資金を得られるか、経営したいだれかに提案するかして介護施設を営むという場合。
 どういうタイプの介護施設にするか(この辺りの内容分類は施設介護での分類などネットからも簡単に探れるので検索してください)を決めてから、建物を必ず経営するだれかが設計に濃く関わることが大事だ。用意する物品についても細部にわたってなにを買ってどこにどう配置してメンテナンスするのかなど想定しておく(だから使い勝手ほかについてイメージできるように実際の現場を熟知しておくことが大前提になる)。
 介護では色々な記録が必須になる。ネット端末を使うか紙を使うかなどの今時ならではの選択も必要だ。それら日々成され、記録として保持され、だけど紙くずとかデータのごみために溜まるだけ、ということは無いので、どう保存され、いつ廃棄して手元から離すかなど、先と同様、細かく使い勝手として周知徹底化も怠ることなく、事前の決め事を明確にしておくことも大事になる。これでも大雑把過ぎるけれど、人の方へ移る。
 介護ほかの業務を担う人を雇う。
 本題は介護部門だ。衣食住の内、食は他に専門職を雇う施設のタイプが多いとは思うけれど、一緒に食事を作ってという運営の仕方を採っているところも普通だ。
 介護技能についても何度かふれているけれど、とにかく生々しく大変な状況が目の前に現れやすい。生々しいというのは、ライブというか、お一人お一人の事業が作り出す生々しい状況ということで、一回性の性質を伴いやすい。ということで、いくら経験を積んでいてもさてどう対処する?と一瞬であっても思案する場面に出くわし易い。
 複数の人々が関われば即利害のぶつかり合い調整の困難と直面する。ここを力技で、ごり押しでこれた時代は多分終わっている。ただこの話題も端折る。
 介護技能を充分に身につけただれかも、そうでないだれかも含めて、目指す介護施設運営に向けて、自力でどこまでやってくれるか一通り見せてもらって、現状を経営者として知っておくことも大事だ。しかも並行して、短期間で自力で目指すサービスの必要なところを(練習とかを繰り返して学ぶことで)身につけてもらって、サービスの質のその施設水準を保てるようにする(ここらを省(はぶ)くと下手な技能に合わせるような暴挙が現場のリーダー層も含めて知らず知らずはびこるようになってしまうのが実情のはず)。
 技能を要求するというより、身につけてもらうことの過程に経営層や現場リーダー層が習熟していることが経営を立ち上げるに当たっての大前提の一つになる。
 介護施設の業務は家庭訪問タイプほど制約を厳密に意識しないで仕事に向かえる。
 またサービスが抱える問題については、ちょっと先で改善のヒントを提案できる。
 一通りの技量水準を身につけてもらって、時間的には多少きつい現状の介護現場を営む。
 けれどもこのままだと介護保険資金の中で話となって、介護保険料云々次第とかそれを上げないととか大変な話になりかねない。
 多くのお年寄りが現役年代ころから、無茶しないで済む法治の列島を経験し続けられれば、しかも自前の努力とかから免疫系をそれなりの温存できた心身(ということでただゆったりできているだけの話では終わらず多少の(良いストレス負荷を経験できるような)刺激的な人生も自ら工夫しておくことが求められる)を持って老年期を迎えられるようになることで全老年期人口のできれば9割以上が、這(は)ってでもたとえば一人暮らしでも自活し続けるとかの意欲と心身能力を失うことなく居られるようならば、介護施設経営にも工夫の余地は広がる。
 素人発想からは介護業系のサービスを売るようにすることだ。
 老年期になって使い切るには困るくらい沢山貯えた人々がいつでもある割合は生じる。その年取った人々に、外出付き添うなどが典型だが、サービスをたっぷり使ってもらう。
技能に熟達した一人がつくのだからそれなりの費用が要るサービスだ。
 でもそれを売ることで惰性できた施設介護経営の(薬品ほか)小物収入の介護理念と相容れない性質面を回避する動機くらいにはなりうる。
 とにかく経営層がアイデア噴出させて介護ならではのサービスをたっぷり売り込むようにして流行って、盛って、それなりの利益構造が育つようになると、その副産物として、発想上、内側の改善へと行くはずなのだ。
 世の中は不公平かもしれないが、老後とは言え、たくわえに余裕の無い諸氏も大勢いらっしゃる。
 その諸氏にとっても外出くらいしたいのに費用がかかるということでできないのは、サービス提供の担い手として忸怩(じくじ)たる思いくらいは生じるのが介護に関心を持って経営を担い始めた諸氏の気質(かたぎ)というもの(恐らくそういう諸氏の方が大勢いらっしゃるはずだ)。
 で、そうだ!と膝(ひざ)を打つ。これだけ売れるサービスだから、日常の業務の中でできるタイプのサービスを作れないだろうか?と。
 (介護保険収入以外で)儲かるようになっているから、持ち出しということではなく、介護担当の人数増も目論める。その日常業務で可能なちょっとしたサービスの有無が、必須にちかい内容のはずなので、施設を選ぶ基準にもなって、中期的には、そのサービスを利用できるかどうかでの淘汰(とうた)が生じて、いつの間にかそうでない施設は無くなってしまう。
 有料の応用可能な外出サービスはゆとりのある年寄り層が財布のひもをゆるめっぱなしくらいつかいまくる。施設はそれでほくほくになる。自分勝手な外出タイプのサービスは利用できないけれど、パッケージ化された外出メニューを日常業務のサービスとして使えるので、かつてのストレスたまりまくりタイプの擬似認知症症状とはオサラバの施設介護環境では、かつてとは打って変わった、円満な老年生活とごくたまにの古代史をめぐる激論でストレスたまりまくりを演じる執着系のご老人方が、やたらと長生きして元気という姿が想像しやすい。


 高度成長の過程が列島在住の人々の購買力を高めて、姿としては豊かな衣食住の形をもたらせた、ように描かれる。
 でも、素人施設介護像で説明してみたけれど、支払い手段のめぐりめぐりがもたらす豊かさ像とはかなり違う。
 ある年代層に豊かさを提供した手法がいざ出来上がった構造物の耐用年数を経て、新たに作らないと・・という時に、先細りの趨勢のリアルをだれもが知ることになる。
 たとえば先達の保険金が頼りになって家を建て替えられたとしても、その後のわずか数世代の間に、その可能性の実質がぐっと低下してしまいかねないのが実勢だ。
 支払い手段が、消費の膨大なちらばりと、それを支える生産と流通のかなりの量のちらばりとをめぐりめぐっての循環として保てていないと、物価とかで生活の質へとじわじわ影響してしまう。
 一時の流行とかで購入するタイプにはかなりの額がでたりするけれど、流行り廃(すた)り系商品は、そのものずばりで使い勝手の持続性も流行り廃りとしてゴミ化させやすい。なんらか買い替えとか、別の新式の何かを流行り廃り動機から購入するかどうかという流れにしがちにする。
 生活の質を無視するならそれで額は動くという現象を持続させていることになるけれど、とにかくそれだけの話と冷静に押さえておける。
 高度成長の巷版はそれに相当近いところで力技で作られていたと素人老人はその昔から理解しがちにしてきたので、今各種製品を持てて利用できていることの恩恵まで否定しないけれど、後代にとっての否定的要素の前倒し現象の一つと見なせる経済現象研究家、専門家、事情通諸氏こそが生活の質を踏まえた政治経済学の要点を今からこれからに合わせて整理しなおしてくれるのではと期待する。
 当面の暫定的対処も不可欠な事をわからない年寄りではないつもりだけど、中長期に影響することの一手ともなりかねない何がしを成してしまうことには慎重な検証を逐次早く考え抜かれる政治経済学っぽい思考法が必要だ。
 経済指標については今時は色々工夫して、いたずらにアルファベットの略字を多用しているわけではない辺りは、素人ながらなんとなくわかったつもりだけど、それでもの辺りは老人なので、かくかくしかじかということで別の提案ということで持ち出しておきたい気がする。

* 購買力増強の惰性は様々の印象的ニュースにもなったけれど、その無理をいつ解消するのかと思っていた素人には、意外にもバブル崩壊的事件によって、その趨勢に終止符を打って解決の手段としたように印象付けられた。
  その事件に批判的な考えの諸氏において、正直な経済事情通氏はバブルが起こったらそれはつぶすことができないとことばにされていたのも印象的だった。
  バブルも解消すべし。だけど豊かさの惰性は続けるべしの考えの方々は、どうすべきだったか、そこらをめぐっていただけても、また別の政治経済学っぽい話が聞けそうだ。
  素人老人は発明発見、或いは天体や地球史的事象への観測のための支出も重要だと考える一方で巷の生活の質をグローバル(展開での人々において)に保てるような支出も重要と考えている次第。
  生活の質論議もきちっと説明を要するはずなのに、端折ってしまう。スマホ系必携の時代に・・とか、鉄道網が良好で全国を暇な時に旅しまくれる土地柄だったら・・とかいう話もだから可能になる。