連載は続く~ SF 掌編『変異種』編


 その昔ボクシングのフライ級チャンピオン海老原選手が自らのパンチ力ゆえに自らの手の甲だったか指だったかの骨を折ってしまうという話を聞いたことがある。
 栄養摂取の話にすることも可能かもしれないけれど、当方はヒトの変異種に関わる話に振り向けたくなる。
 多分、ほぼ例外なく変異種だれもが変異種で、だれもがボクシングと同じ事を繰り返す生活をしていたなら、間違いなく海老原選手のその脆さは生きていくうえで相当な負荷となったと思える。ある意味不可逆的にパンチを出せない状態に陥ってしまうのだ。
 そうであっても、そのような特殊とも思える仮想の世界でも、ヒトの場合、助力のなんらかが発揮されて、海老原選手は天寿をまっとうできる可能性を持つ。後は、本人の心がけ次第っぽく。
 表に見えにくい内臓の組織のつくりの様々として恐らくヒトの世界では変異種として生まれてきてしまう。
 ちょっと運動が苦手とか、色々なある方向性にとっては不都合な状態をその程度だけとっても多様に生まれてくる。育ちながらその変異の在り様が更に様々に育つ。大人年代を通過しながらより個別的変異性を育んで、変異種のより細やかに違ってしまう辺りを表現している。
 変異種がたまたま生きるうえで有利に働くような場合も簡単に想像できる。
 今時はスポーツショーの世界がそれなりに稼ぎの場を構成しえている。だから具体的なスポーツ種目を選んでそれに習熟することは求められるけれど、それに適う身体能力を発揮できるやつは、それなりの人生を歩めたりする。でも変異種の一種だろうと思う。
 進化という精度を欠くことばを慣用にできている昨今なので、使ってしまうけれど、進化のあり方は、あるたまたまの環境なりへの結果的適応が残ることを可能にしたという現象面を指摘できるので、果たしてその適応性がどこまで環境変化への汎用性要素を持っているのかどうかはわかったものではない、と言えそうだ。
 それでもリアルにそういうことの膨大な積み重ねの途中結果を今、お互いに見渡せているわけだ。
 ヒトの場合、たとえ親が未熟さをさらけ出すタイプだったとしても、周囲に幼子の面倒を見る向きが働いて支えてしまうということが起こり易い。
 そこらからして、天然自然に子育てのきめ細かさが身についてしまうということはありえそうになくて、なんらかいたわりの様を見てその要所をかぎ分けることもできて、そうすることに向かわせる総体を、伝え合うことを選択できて、濃淡は生じてしまうのだけど、更に観察したり、できなかったりも含めて対象である幼子たちを育て合い、一人前にして、やっと放り出すようなことを継承することの中に置いている生き物だ。
 ある育ちの方向性を想起できたとき、その初発の状態と熟し始めた頃の状態とを比較できて、その足りなさ加減を慣れていくこと、熟していくことの目標めいた作用として使いこなしてしまう。
 小集団でのやりくりも結構だけれど、より大集団化して、いわゆる保険的な工夫で、より助力を要するだれかに、自らへの戻りの少なさとかを、無理やり話題にしてこだわらせれば一時迷うかもしれないけれど、通常として不公平感を生じさせること無く、偏った助力発揮のための強力なツールとして大規模集団ゆえに機能させうる。
 ところが、話はそう簡単なことでおさまらない。
 大規模集団が保険的工夫をしてそれが受け入れられるとは限らない。でも受け入れさえすれば、それなりに工夫も可能とするならば、大集団がそういうことに適するような状態でいつでも集めて置けるかどうかは問題が発生し易いけれど何とかして持続させるとか、問題すらなんとか事前に抑えて、なんとかまとまりを保てているとか、いずれにしてもそのための工夫が伴う。
 大集団のあり方を工夫できる。
 その発想の先にグローバルをまとめる司令塔が浮かんでくるというような一つのアイデアしかありえないはずはない。
 変異種だらけで、しかも得手不得手が性質様々に入り組んで世代を構成しているヒトの集団の営みがたまたま今時では支払い手段を集めて可能にするなにかをめぐってシステム作りを可能にした。病原となるウイルスのある特定のやつに充分耐えてしまう変異種もヒトの中に生じる。
 ヒト集団の良い所は、だからって、その品種を選択的に世代継承できるような間引き策とかで応じたりしないあたりだ。雑多性を好む。好まない変異種という言い方は性質を見ていない勝手なことばの用い方だ。より経験とかが物を言うタイプの誘導因を思い浮かべられる。
 ここらのリアルも、頼道した今回の話の後、前回に続けての話でふれることももう一つのリアルに当たる。だれもが変異種だし、条件次第では生存可能性に響くことも、他者の助力なしではとういことも起こりうることをピン、と来るか来ないか、そういった感受と関わる時代とか世代の移ろいも持ち出せそうだ。