連載は続く~SF掌編『ことばはいつでも生々しく』編


 喜怒哀楽ということで分類できていることの恩恵を指摘できると思いこめるには、ストンとその四分類でヒトのそれぞれにおいて、似た落とし込みが可能になっていると安易に見做してしまえる辺りと関わってくる。
 だからそこをどうこうすることはここではまずは避ける。
 ただこの四分類にして見せただれかたちの連綿が、ヒトにおいては、この概念、ことばを用いることのできる人々にとってはとても役立った、程度の指摘は素人老人にも可能と察する。
 情動ということばは専門用語としてはもう少し厳密な説明にする必要があり、思うけれど、ざっと多くが定義めいたことばに依らずとも、なんとなくあるまとまりについて、そこらのヒトが体験する生理的応答とも絡む生起の辺りだと、受け止めてもらえそうだ。
 この反応なり生起は喜怒哀楽のどれに近い起こりだ、とかで一応自覚的に受け止めうるようにしてくれる。だから便利だし役に立つ。
 漠然と"情動"の生起に立ち会わされた時、たとえ自らに生じたことであっても、この起こりとどう付き合ったらいいのだ!????くらいの苦悶は生じさせうる。
 でも一応、概念、ことばの意味を想起させるようにして分類的に認知できるように仕向けてくれる。
 喜怒哀楽とかそれのもう少しかみ砕いたことばに変換するような用具建て以前であっても、日常使いのところで、それがどういう由来かを手繰れる指摘が親とか先行の世代たちの話し言葉として受け止めうるようにしてきたはずだ。
 相手とのやり取りでの情動の通用性において、それらがある枠とその交差との淡いなどを認識的に分類化させてしまう。
 しかも積年の過程が、様々な集団の営みと関わらせて、情動がある表現型に使われるようにもする。
 その中で、一方の頑固が通用しやすく、その他のだれか(たち)にとってはそれとの交流に苦心させるというような間柄が生じやすいあるシチュエーションが持続的な形をとっているような時、語り手において或る工夫が採用されることもありうる。
 喜怒哀楽の中から、相手がそこまで言うなら・・と受け止めやすい演出になりうる情動表現を選ばせるようにする。それが具体的個人対個人の関係性を超えて、応用的にある個人に対して通じさせやすいとか、一応聞いてもらえるとかの頼りの筋として真似られたりもして、更に、そうされる側が、更にそれを使うことでことばを聞き入れてもらえるかもと想起できるような別の相手へ向けても使うようになる。そういうことで、或る土地柄においては情動的抑揚濃厚なことば運用が独特に育つ。
 ここらを、少し空想的に、ある程度事務的なことばのやりとりでも手続きが円滑にこなせる人間関係が成り立っている集団の営みのことをイメージしてもらって、対比的にわかってもらえそうに思える。
 今時は、ある種のわからずやの錯綜した散らばり具合がまかり通り易かった旧時代から、法治の建前も一応作用して、ジャルゴンを弄んで、巷を煙に巻いて安全を保てることもより少なくなりつつあるかもしれない今日この頃の状況、のように見なせないこともない、と素人老人は見るわけだ。
 そうなってくると持って回ったというか、過剰というか余分というか、情動表現濃厚過ぎなことばとか身体表現とかを伴わせるタイプでの人付き合いは過去のものに成り果てる可能態の世相となって、見た目、軽さっぽく映るかもしれないし、物足りなくもあり、本気度を問いたくさせるかもしれず、だけど、そういうことで物事が流れていく景色が当たり前のように光陰矢の如しと化していくはずなのだ。
 だけど、喜怒哀楽で分類してみせたある土地柄の知恵が前提としていた情動の起こり、生起がヒトにおいて無くなるわけではない。情動の為にする交錯が多分、相当に無くなる。でも出来事とかと直面してのヒトに生じる情動は無くならない。そういうことだ。
 法治と言ってみたけれど、とりあえずことばの応酬を一応楽しめるちょっとした余裕のある連中が大勢を占めるようになっていると見なせないこともない。
 だからって法治が理念的に想定する、啓蒙後の理解し合えるだれかたちが巷に溢れていると想定することは無理そうだ。
 そこは今時の専門家・事情通・"お偉いさん"・権威筋諸氏の"無知"と同様にだれもが、得手不得手を適当に抱え、均し、ごまかし、認め合いながら、円満に生き合っている、と見做しておきたい。
 だからドラマでの役者諸氏の表現型についても、(役柄上)わからずや相手の相手次第ではわからずやにもなるだれかが情動表現濃厚な言葉使いでセリフを"しゃべる"という演技術ではない演じ方の術がこれからはより開拓的に気づきとともに、観察されて熟練されていくものと期待したくさせる。
 ネットであれほど率直にことばを流通させられて、いざ面して、情動表現濃厚な忖度で応じ合う、なんてことの馬鹿げた加減に気付く濃度に応じて、各現場で、生の現場で巷でも役柄忖度の表現型は極端な変化を遂げてきているし、もっとだれもが気付けるくらいに変化してしまうはずだ。
 ここらは元々のヒトの生理と関わるからこその変化だ、と素人老人ゆえ指摘してみたい。
 妙に忖度を求められて、ことばをサラッと持ち出しにくくしてしまう歴史的重さを、それなりに、礼儀とかの作法をほとんど持ち込むことなく、お互い様で用い合えるはずだ、と生理は正直にいつでも個々に語り掛けていた。その語り掛けを引き受ける個々が、法治の理念の分野では、なんとかそうしようとして、だけど法治の論理の方でしか表現しきれず、独特の忖度を生じさせやすくしてしまうために広がりというよりは狭い専門分野化してしまいがちにしていたのを、世の中の人々のやり繰りの目指しが、なんとなくその方向を取らせ、ネット応用の携帯版が、多少濃く関わる形で、しかも過激に、多用な要望を穏やかに誘い込む機運が21世紀にかけてじんわり政治的にもなんとかしようとしてきたこともあってか、一方でその気運の危うさへの心配過剰への政治的反応も生じやすくさせつつ、しかし、着実に、かつてなら相当な地位と見なされる政治層においても日常性を失わない倫理観をしっかり育ててその姿をマスメディアに晒すようになってもいる。
 わからずやを演じて見せることがなんらか小さなまとまりの中での威勢表示になるとか旧世代から引き継いでしまった若者たちはごく少数としても可哀そうだけど、残りうる。でもそこらを広い"心"で受け止める旧タイプをも分かることができる異性たちがなんとかフォローしうるけれど、そこで旧世界同様の不幸な出来事が生じないようにする制度側のフォローが要る。巷は、その少数にかまってはいられない(奔(ほん)流のような)流れの中に居るはずだ。
 グローバルには、戦乱に巻き込まれやすい土地柄や、戦乱時モードを引きずるような歴史的にそういう荒いことをずっとやってきた土地柄では、権威筋辺りと巷のリーダー層とが連係して忖度の軽(かろ)みに気づき合えるような工作が要るかもしれないと素人ゆえ想像してしまう。豊かさとか音楽、芸能がその足しになるとかは、20世紀後半以来の経験からして、無理そうだ。忖度抜きでやり取りできてしまうネット媒体が一つのヒントになりうると素人老人は見ている。
 変化の結果をしっかり観察できて、それが芸術・芸能として再演され更に試行の辺りを提示して見せるくらいのことはそれらが得意とするところだ。
 芸術・芸能の内輪での制約についての、無理のないだけどそれが求められている例えば音を出してしまうとか、形として演じてしまうとか、しゃべってしまうとかは、その内輪でこそ成し遂げられる。
 ここらまでくれば、ある状況が惹き合う二人を演出しただけ・・・というシチュエーションを感動的につい描いてしまう、観客を誘う場と見なして演出家が凝(こ)る、ということの錯覚にも気づきやすくする。巷の生の場面でもそうで、そういう二人は不幸の起点に立っているとも見なしうる。すぐその先の状況変化でヒトは途端に心身ともに変化してしまう。別人にお互いが気付かざるを得なくする。
 ここらは列島の人々は昔から気づけている。若者たちすら気付いている。たとえば映画『卒業』。その後、きっと・・と心配されていた、という昔話は、以前ふれてみた気がする。
 苦しい状況を設定して、励まし合って・・・そういう状況での盛り上がりを、別の状況でも期待し合う忖度は相当に負荷となりうるわけで、そこらはヒトの生理に正直に付き合うなら、多分、先の事例とそっくりなところに納められると察する。
 だからこの手のシナリオも、無理に劇的に取り込むことなく、情動の生理はずっと持っているけれど、忖度系のからくりはがらっと変化した辺りを前提に紡ぎされるようになるんだろうな、と素人老人は期待し続けるわけだ。

 古代の列島を振返ってみた時にも、ここらの観察眼は応用できそうに思える。
 ことばの営みということでは、列島版での経験話は本当に面白い。
 各地のことばに翻訳が要るような時期の話を一般が知っているくらいに流布(るふ)している。
 古代に渡来系が沢山居たこと。各地にヒトが住んでいたこと。時代によっては偏りも顕著(けんちょ)だったこと。
 文字の使いこなしの度合も文字を流通させていた以前を想起できれば簡単なことだけど、とてつもなくバラバラに"使いこなしていた"と想像しやすい。
 通じるように使いこなしていた"人脈"と見なした方が、実際にありえた様に相応しいように察する。
 ことばはもちろん、既に熟練して使いこなしていた列島各地の各ことばの営みを持った人々だから、生に発音を概念として、固定して用いる意味での記号的な収まりを成したことばと、発音の類似からそれとして共用できていただけのことばとかを混ぜこぜにしながら、権威筋の下、ある整頓も成されて、各地版が応用されてしまうのが、生のことばの世界に近い。たまたまある発音が、土地柄ごとに異なって、整頓され、特定の意味を指すように使われてしまう、ということだってありうるし、特定の意味がそれぞれに散らばって、だけどたまたま同じ発音だったかごく似た発音だった、ということだって起こりうる。列島の昨今でさえ土地土地の方言として紹介される。
 ことばの壁や認証の壁をものともせずに、往来し合える関係を得られることが、忖度の問題も含めてそう簡単ではなかった状況も想像できそうだ。
 だからこそ・・・と"俄(にわ)か"(に)列島古代史を少し整理してみたくなっている素人老人は、より洗練されたアイデア込みの藤原京以後の特殊性を指摘してみたくなる。そういうことを想起して、それ以前の未熟な試行錯誤を見ることができたり、記紀の中の作りごと=本気で工夫していたはずのこと、を推理しやすく思想に思える。
 たとえば、空想話ということで素人流歴史整理であることを御許しいただきたいのだけど、本だったかネット発信だったかふと老人ゆえド忘れしてしまったが、公地公民的な中央集権の理想を発想的な次元で普及させるうえでのエピソード作りにおいても、古代ならではの工夫として、蘇我氏の強引さをたしなめる意味合いが強く伝わるような質にして具体的な噺仕立てしてそうに、素人老人発想からは思えたものだ。
 そういうことをすると懲らしめられるとか、きつくお達しがいくよとかの噺。
 同時期には既に文字ことばで遊べる人々も少数ながらまじっている。
 我流というかある土地柄では流通していることばで充分に遊べるだれかたちも沢山居る。
 ある程度、共通に理解し合えることばに熟達した多数も居る。
 発音の共通化も、ばらつきがともなっていたし、それが邪魔にならない、現USっぽさと似た状況もありえた。お隣中国こそが他民族系の中央集権試行錯誤中なのだから、そういった生な進行形の面白さを芸術・芸能発信にしてグローバル、できれば列島へも発信してもらえるかもなど想像する。(几帳面に共通語教育の成果のみを表現に載せるというやり方以外の模索の辺り)
 帝国的大国のでんと構えた(*)相手とよりグローバルな展開の仏教脈(含む交易の担い手要素)とかその派生を意識できた、漢文発信。またそう発想し易い境遇の列島在住少数たち。(* 660年の納め方は内輪での大量処分と対置できそうだ)
 魏志倭人伝で紹介された列島の部分の延々を想像してもらって、帯方郡の出先の存続とかを合わせて、その脈々のことと、仏教交流との独自な継承のこと、北九州域の呪術系のトップの独特さなども込みで、やがて中央集権の整然としたアイデアへと収れんされていくまでの過程、散らかった移住と、ある程度権威筋がまとまって移動した時期とか、考古の方からのヒント発信も重要だ、文献系の発信もより活発に(ここでは沢山居そうだからといことで(玄人筋には言うまでもないことなので))素人老人諸氏を新著購入に誘うくらいの勢いづけの要素も含めて、なってくれるといいな、とか期待してしまう。

 脳の話しをネットで読めたので、もう少々。
 ことばのこととも関わるけれど、頭に持って行かれ過ぎることへの注意発信くらいを学問系でもなんとか無理なくできるようになった今日この頃だ。
 腹というより腸だ。発生の学の方からだと三木成夫氏の論が有名だ。
 脳の力が発揮されるとき、頭だけじゃなさそうだ、という言い方を多少サイエンス寄りで素人もことばにし易い時期になってくれている。
 専門、巷での惰性で使われがちな無意識はあくまでも意識活動での未分類野の一部分を抜き出したような事態表現に当たる。
 意識は外した活動の辺りの発見は目白押しだし、むしろ一般が感受に素直になって振返るとその片鱗を、そのことがそうだったのかも、など想起しやすくする。
 想起できないヤバイ事態についても、知見は一般書になっていて読める。
 そして昨今では腸のことにやっと再び気付き始められて、サイエンスとして扱えるように"精錬"中か、とっくに分野ではかなりの整理ができつつあるのかもしれないが、そこらは不勉強なため紹介するようなことはできない。
 体内コミュニケーション知見は細密な方で語られるようになっている。ホメオスタシスも分野縦割りでどう語れるか、と素人はいぶかしがるけれど、新規イオウ呼吸の知見でもちらっとふれられていた。

 アルドリッチ氏の『ワイルド・アパッチ』を先日引用したけれど、ドラマついでに、そこでは馬のリアルがセリフになっていた。
 馬は疲れやすい。古代史の交通本に目を通すと、同じような知見を得られる。だから列島古代史マニア諸氏においてはアルドリッチ映画を見ていなくてもよくご存知と察する。
 USにおいて旧渡来系の人々は、馬に乗らせたら新渡来系の人々の技など目じゃないくらいの達人たちだったらしい。
 けれども、走る馬の姿になれた新渡来系の若者は急ごうと焦(あせ)る。
 そんなことしたら馬は疲れて、代えの馬を持っていない限り、旧渡来系の人々にコケにされてしまうぞ、と新渡来系の少し年取った人物は諭(さと)していた。
 そういう細かいことだけど、リアルな要素をドラマに持ち込んで競う間柄でのやりとりを観客として推理しながら筋を追えるということは、事件解決もののドラマでも質を左右させそうに素人からは思えている。
 そこらを欠くと、ギャグ要素としても機能しないし、ヒトをそこまで貶めてしまって、応用性ということの支えを失いかねないのでは?など余計なお世話を指摘したくなるのが素人老人ゆえのくせになってしまう。