連載は続く~SF掌編『古代列島周辺でもありがちな世代間ギャップ』編


 今30歳台の諸氏なら、仮に10歳の1945年から20年過ぎた1965年に30歳を迎えている。
 ちょっと振返って、10歳の頃を思い浮かべたらいい。かすかであっても、おぼろげであったとしても、わずかの年月"感"を振返れそうだ。
 同じ30歳でも、心身に刻まれた"記憶"に相当な違いを生じさせうる。
 特異かもしれない時代相を持ち出すまでもなく、この数十年間に限っても、何度か別の脈絡で引用させてもらっているように、生活の様、だから生活実感をかなり異にする世代層を持ち出せる。
 携帯よりは公衆電話という世代が沢山未だおられる。携帯以外想像しずらい世代も過半を構成してそうだ。
 仮に、住みづらくなった居住地から遠地へと、世代を超えて移住する趨勢が生じていたとする。
 たまたま前記のような条件が各世代に生じていたとして、到着後での世代間交流には相当な先入観をめぐるソリの合いにくさを生じさせると想像できそうだ。
 同様のことを数百年間にわたって生じさせたのが列島古代の期間だった、と想起することも無理は少ないと想像するのが素人老人だ。
 巨大規模での中央集権圧を意識しない土地柄意識の濃いままで人生を送れたかもしれない時期の人々が、それぞれの具体的環境での育ちをしっかり心身化していて、でも、ある土地から別の土地へ移る。しかも個々の身勝手な動きというよりは、ある程度の集団的意図の下で。
 そうなると集団の営み上のその時期、その土地ゆえに身に着けたはずの諸々を引きづってのことと見なせる。
 しかも同じ土地から既に移動して集団の営みを持続している人々が、目指す土地に大勢住んでいる。
 そういったことの数百年間分の世代的層がある土地で蓄積的に集まってしまう。
 土地の神とか氏神とかその手の発想よりは、仏の方での儀礼に馴染んだ人々が育ってくる。
 土地柄や起点やが異なるから、同じ土地の出身といっても、文化的な営みでは異なるお国柄?と思わせるようなことになってしまう。
 だから、先住の人々から、後からやってきた同じ土地柄由来であっても、異国の人々、のように見なされる意識の悪戯も生じさせたりが起こる。
 ヒトの移動の歴史や、根付くのに必要な年月を考えるなら、千年、二千年では少ない方だ。
 土地柄のくせに熟知する世代間継承が根付くには、一万年間くらいの経験が要る。
 その時に、どの土地がどう自然の長期趨勢においても、どう危ないか安全かなどを考えた"立地"が可能になる。
 それが伝承不足のうちは、被害に合うごとに集団的な費用負担を引き受けて、なんとか対処することになる。その質量がバカにならない規模だとしても、それ以外集団の構成員へ答えることはできそうにない。
 安易な宅地開発をことば上の人気のない方へと圧が加わりやすい"規制"で応じて、しかも職住近接を図ることは至難に誘いそうだけど、そこを両立することで生活の安定へ導きやすくする。
 でも数十年とか数百年とか程度の世代超えの居住からは、ある土地柄の自然現象の趨勢は極端に部分的に止(とど)まってしまう。
 列島の古代では、ずっとその条件を満たしうるほどのごく少数の先住系もいたはずだけど、穀物生産・集住系の人々が集団移住を何度も繰り返す中で、人口圧の趨勢に呑み込まれて、血として紛れ込む形で目立った特徴は消し去ってしまった(と素人老人は諸知見をまとめたくしている)。
 それゆえの碁盤の目タイプの道ではない等高線と親密な田舎の道風を沢山残してきた。
 ちょっとの増水へは安心して歩ける標高を維持している。
 貝塚地の標高を参考にしていたかもしれないなどつい余計な想像もしてしまう。
 そういう積年の世代へ別の思い込みで頭が一杯の世代が、移住してくる。時期が変われば、また違った先入観をためこんでやってくる。それが数百年間は派手目に続いた。
 だからなんだよ、ではないことは、この今を振返ってみれば、若者諸氏ほど気づきやすいかも、など老人からは推察したくさせる。
 マスメディア経由での想念形成などない土地柄経由意識が育ちやすかったはずの大陸・半島・列島の古代の時期、中央集権を持ち出すことの一方の易しさ、と大体においての困難についても(今時の諸氏においては)きっと想像しやいと察する。
 だから特定の伝達のために用いた発音のことばや文字ことば系ということから易しい方の局面として生真面目にまとめる作為を含ませた作り話の数々を即席でこしらえたろうし、難しい要素へ働き掛けうる工夫の数々をほどこしたはずのことを、今日の事情通、専門家諸氏が見極めて、その面白さをネットの時代ならではの方法で一般にも伝えてもらいたいものだ。