連載は続く~ SF 掌編『前半、氷の話つづき。中後半は年寄りの余談、興味おありなら』編


 春だよぉ~~
 出てきたのは魚たち
 街の中流れる川を泳ぐのはやせヒラヒラ
 郊外の流れには丸々としたのが
 関連づけすぎて整理しちゃいけない、たまたまだ
 それにしても、魚たちは老後の心配はいらなそう
 ヒトは余程でない限り、メタボは避けられればさけるべし・・だ
 なぜって当人にとっても介護するだれか(たち)にとっても今時の条件からして辛いことになりそうだから
 田舎のちょろちょろ流れにも、去年孵(かえ)った小さいのが丸々と活発そうだ

 と出足から長川柳。

 前回を引き継いで、大氷河塊が崩れてきてそれがきっかけのくり返し仮説を敷衍できる場合、温暖化こそが氷期突入のきっかけと見做せる。
 温暖化を避ける営みは、氷期突入をやんわり遠ざけ続ける営みに相当する。
 言い換えるなら、氷期突入の起点となる巨大氷河崩壊をもたらす温暖化に至るのが終着点の温暖化を避ける(奇妙な)営みが可能となる。
 その帰結は、氷期突入予測への過程を僅かの変化にしてタイミングを掴み損ねるように誘うかもの可能性に傾くか、突然過ぎてにせずに、徐々の変化対応を可能にするのか辺りに分けられそうに素人からは思えてしまう。
 氷河期のパタンとして通常進行する温暖化が氷を融かす。そのことで周期が回っている。
 だから温暖化しない限り氷河期の周期が回らないし、温暖化の帰結が巨大量氷塊の崩落で一気に趨勢に変化が訪れるのだから、温暖化へのヒトの思考が配慮できそうな範囲は限定的だ。温暖化は正常に氷を砕けさせて周期を回す方に働く。
 それを人為によって抑制できるかもしれないし、そろそろ氷期のサイクルにはいってもおかしくないのが遅れている(だから温暖化ストップ=脱炭素の騒ぎになっている)、としたら、温暖化を心配するよりは、温暖化不足を心配する方が相応しい、ということになる。

 産業技術で経済を回して、ある種の豊かさをもたらしていそうだとしても、マスメディアが実のところカナダの研究者がかつて強調して紹介していてくれたように雑然と様々な意味合いの事々を時間列では順序化は避けられないにしろ、総じてみれば一面にそれぞれが散らかっているような表現媒体ゆえ、探そうと努力さえすれば、どこかしらにオルタナティヴの宝物がそれなりに置かれているもので、それを探せるという具合。
 ドキュメンタリー番組だったと思うけれど、遅れて産業化し始めた諸国では、なぜか同じ失敗をくり返しがちのようで、汚染の問題を各国で抱(かか)えているみたいだ。
 廃棄物・排出物のなんらかがそれまで清流として重宝していた流れに流れ込んでとんだことになってしまう。
 豊かな財力の限られた諸国ではその支払い力を用いて予定通りに処理施設で対応できるところを、やっと産業技術系で出発し始めた諸国では、しばらくは汚染に悩まされ続ける。
 知見の啓蒙系もそれほど機能していない感じだった。だから汚染がどう影響してしまうのかの具体像はわかっていることの場合が多いのだけど、その諸国では応用技を即効かせることができるかどうか心配になる。
 電気・ガス・上下水道完備は列島でも土地柄によっては部分的に不要で済ませるほど自然に恵まれたところもあるにしろ、大雑把に列島各地でそれをなんとか利用できるくらいにはなってそうだ。それらは災害時に、回復までの期間くらが予測できるくらいの精度で運営されてもいる。
 それでも、と年寄りなので余計なことを言ってしまうのだけど、たとえば水流の汚染は家庭排水が元の所も多い。産業系の廃水が影響してそうなところもかなりある。
 そこらはただ水棲生物が住みにくくなるから可哀そうとい類で心配してもいいけれど、それだけでは収まらない問題がどうも控えてそうに思える。
 ある種の錯覚から税収がわんさかで支出もたっぷりで、ということで施設をこしらえてたまたまその時期は汚染を避け得たとしても、これから汚染の中小河川をヒトの遊び場にできる(この副産物は危険だから近づくなで柵を張り巡らす必用を実用的な規模にできるくらい自然との生での付き合い方を子供のころから身に着けうる機会が持てること、それらが大人になって(幼少の子供たちが自然のどの状態にどう危険に晒されやすいか状況として感知できる能力)危険感知予知力がかなり身に着けうること、大人は大人で(水と土と空と)自然の広大さに身を委ねられることの恩恵は計り知れない)くらい支払いを惜しまずに済ませられるだろうか。恐らく時間を費やして地域社会での知恵の伝承が積み重なって、再び地域の力によって労力は提供し合うことで、地域の事業としてなんらか汚染を避ける作業が可能になるのでは、と想像してしまう。それくらい、公的事業を待っていては、汚染がかえって進んでしまいそうな気配だ。ただ自治体の努力次第では、年々少しずつ改良している風景も見ることができていて、いつ完成するのかはわからないけれど、旧河川や既存の川筋を利用した人々が楽しめる自然利用した場の準備もそれなりに進行はさせているようだ。
 産業技術の進行とともに土地に長いこと住み続けてお互いが土地のことをそれぞれとして眺めて知見を蓄積して個々の観点を持って提案もできるようなコミュニティが生息していたような時期とは違って、働きに出て、日中の活動期に限って大人たちはごく限られた人々しかいないようなことにしがちにする(意見もだから自ずから偏った知見でまとまりがちにするし、沢山の手で成せることが簡単にできにくくなってもいる)。恐らく諸国もそういう事情を予想出来て、その過渡期は相当に列島経験と似て地域は荒れがちにしかねないのではとも思える。
 その後も、資金不足で、となれば、汚染と回復が並行しないままにもなってしまう。
 ということで、負担が負担としてそのままのこりかねない産業技術試行錯誤の一面を指摘できる。
 だからって上手に扱って、氷期に備えることも必須だ。
 世界各地の雑多な格差について、産業技術の負の面を率直に整理して、おしなべてで改良が可能なのか、どこかがいつでもババを引くタイプの錯覚を用いた手法なのかも、解明が要るのでは。
 ヒトが大勢いてくれてこそ成ることの恩恵を今あじわえているというリアルをとりあえず抑えておきたい。
 これから数十年後以降、世界の人口は減る。相当に減る。増えれば増えたで結構大変そうだな、と経験してきた現地表面の人々だとしても、また仕事の振り分けは各地任せがベターで、それにしても、上手くは回せない。それくらい難しい。でも、ごく小さなモデルケースでなら自発性がうまく機能してくれ出すととてつもなく場も楽しくなるし、作業密度も濃く正確にはかどらせたりする不思議を、思い起こしてもらいたくなる。多分、今時の諸氏においても、そういったちょっとした体験位なら一度か二度くらいはできてそうだ。
 それが規模大となると、なにをやったらいいのかそもそものところで迷う人々も生じさせたりで混乱も要素に持ち込みやすくなる。
 統制的計画性はたとえば不足の経済系を生じやすくするという知見も得ている。
 疑似市場的価格操作での計画程度では、その代替にはなってくれない知見も紹介されている。
 世の中、食っていく工夫に挑むことに長けた人々が役割発見意欲とともにかそれなりに何時の時代でも湧き出てくる。それこそ一定の制御視線は欠かせないけれど、普通できないその意欲的挑戦の芽を摘むこともないわけだ。
 そういうことの集合現象として、たとえば産業技術+商業の今時の姿を見ることもできる。
 そこに歴史性を加味すると、ただ自発的だけど外し過ぎたり暴走しないで済ませそうな制御込みでの挑みの集合とは異なったしがらみ織り合わせめいたのがどうしても浮き出てくる。
 歴史だからそれなりのフィルターを経てはいるのだけど、入れ替えも相当あるだろうしで、とんでもなくわかりにくく格差問題をひきずるような事態も生む。
 そこに悪乗りして、弁証法役割分担洗脳で、(なにかしら発見があればそれに対してとなるタイプの)二軸の対立をそこかしこに見えるように仕向けて、争わせるから、いつでも一方だけ正義、正しい、という具合の営みに仕向けがちにする。しかも、一方は正しくないのだ。そして勝ち負けだから負けた方が正しくない。二軸が争って、勝者が二軸の総合を試みてより相応しい新たな解を見出すというような面倒なことはしない。予め、これぞ、自分たちの考えこそ正しいで出るのだから、それを部分的にも修正することは建前上正しくないと認めるようなことになる仕組みが内臓されている。困ったものだ。そうやってずっと百年近くやってきているのではないか。表向きだけど。

 歴史性、ということでちらっと列島事情もふれてしまう。
 列島の日本国としての出発は公地公民発想だった。
 そしてそれは実情から、出発間もなく修正を余儀なくされる。
 つまり、理念上、公地公民的試行錯誤は目指されていた。しかも具体的に策を成した。
 その具体性において実情には耐えなかったことを自ら経験済のお国柄と押さえておける。
 自発的元気もの活躍は言いつけられるのを待つ仕事ぶりでは超一流のタイプとは違うし、いつでもかなりの規模で散らばっている。それが実は、堅実にやり遂げる仕事人たち同様に同時に要る人々であることに、確かに列島の中枢を担った人々は感づいている。
 ただし、日本書紀の造作によって即席に一体感を用意したのだから、公地公民のまとめを外せば途端に各地の元気ものが活発化する。そこを今の官僚の担い手諸氏のように地元を離れたさすらいの一時定住者としての転勤族か、京に住みながら指揮命令系統を使いこなして地方役人に実務をとらせるようなことをして、統御も試みた。
 でもちょっと距離を取って、列島は一応住みやすい方では、と老人的には思える。
 列島は、ある程度の中央集権発想で統御していこうという試行の面を担う人脈が全国を覇した。制覇と言うと誤解を生みそうだ。それに、日本書紀以前の自律的渡来人集団の各地版の記憶は極端に薄れてしまっていると想像する。
 たとえば諏訪の大木とか出雲の超高層社殿だかは大き目の古墳の造作=一種のはったり効果に似ている。神系は特に、個々に馴染みの呼び方をしてたのではなかろうか(ごく素人の想像なので説とかの引用ではありません。地方の元呪術系の統率的位置を熟練した人々を新規天皇に担いだし、王族ではないのかもしれないが百済系主脈と見られる藤原氏という素人仮説も込み)。それを古事記(が当時の書物として普及して読まれたかどうかは別にして)や日本書紀の話として名づけの根本的錯覚手法を用いてまとめて系統付けしようと中央集権の試みゆえ成されたのだから(揚げ足の論ではなく中央集権化の試行錯誤の熱意ゆえの辺り~古今の仮名序での意気込みニュアンス参照、対して萬葉集1-53内での柿本氏は一人(大袈裟な劇作家的に)浮いていると素人は見る)、時間がたてば追々、仕組み上での制御内で、各地が活発化する根はひろがりこそすれ、絶えるようなことはありえそうにない。
 列島はこうだからといっても、ここには儒教系のぶち壊し=市井の一時を巻き込んで悲惨なことも生じさせかねないことを容認してしまう考え方を抑えた知恵ものが列島には介在していることを忘れたくない。明治前後に一時的に世の中の動きに入り込んだようだけど。
 ずっと長年月集団の営みを成してきたのに、ぶち壊し系はいつでも若人(わこうど)ということだってないわけではない。
 歴史的年月上、実際に若者か中年に差し掛かったタイプの土地柄だっておありだ。
 小さな諸国や国にすらなっていない土地柄にこそ知恵の研鑽を経たなにがしを改良しつつ伝承できているところが多いのではないか。
 そうはいっても、民主制だ。そこには乱暴で近寄りたくないタイプたちが犇めき、果敢に近現代の民主化の条件付けには関わってきたことは広瀬本から読み取れる。
 条件付けだけで、担う気次第と放たれる。(時には身体を張って)意欲的に関わらなければ(19・20世紀ならば資源)利権だけ持って行かれる。
 でもグローバルのリアルは例外なしに、構成員すべてに関係性をつなぐ。
 だから乱暴狼藉手法は滅多に使われなくなってきた。
 若者たちに意欲があるならば、広瀬本系の知見もしっかり身に着けて、(合理的な最終解を求めるやり方よりもその時々の要請に沿った解のための打ち方・指し方とかに導くので読むことの使い方すら工夫が要ると想像できる)囲碁、将棋のプレーヤー外のところにしか近づけないとしても考え方(世界を連係して秩序づける知恵など)の発明発見次第では相当に担い手になれるのではないか(老人ゆえ安直でもお節介している)。諸芸についての先見性が準備できれば、一応新たな別の盤を用いたプレーヤーの場を試行できるくらい認め合えるかもしれないし。ただしその場合、地表面総人口のなんらかに目が届くような発想が必須、と素人的にも想像はつく。