連載は続く~ SF 掌編『経済話はもう少し先で』編


 人によってはその歴史性から逃れた地点で実践できると思い込みたいかもしれないけれど、なぜかヒトの営みは歴史性とごいっしょだ。
 歴史性は個々性の要素も含みつつ、時代的、相互的で関係性の濃密な絡まりから出来上がり続けている。
 啓蒙が含ませた"良き思惑"も、いざ実際的な場に晒されれば、たとえばマスメディア状況がそうであるように(思惑の通り扱えるわけではないということから)"中立的"であればその意味合いゆえ困らせもするし、歴史性のたまたまの属性から恣意的な方向性をもらせられると思い込めた作為を注がれ、近現代化する方が余程窮屈で、昔が懐かしがられるようなことにもさせかねなかったりする。或いは、昔も今も、形が違うだけで、どうにも生活しずらいままだな、とがっがりさせかねない。

 核兵器は全く使えない兵器にも関わらず均衡を保つ歴史性ゆえの暫定的兵器の一種だ。
 だから核兵器を持った時点で危険視されて標的になっている(はずだ)。
 ということで素人でもシンプルにイメージを提供できる。
 小さい土地の国々での核兵器を準備することは、ただ標的化することに通じる。その不自由さ(をどこまでリアルに感受・感知できてという問題も引きずりつつ)といかに付き合っていけるのか、お気軽な事態でないことはうすうすでもだれもが気づけそうだ。
 既存の広さと維持していく費用負担力いうことから想像できることは相当シンプルに描けそうで、米露中くらいしか出てこない。しかも進行形としては相当厳密な管理下におかれていることになる。大変な費用負担だ。
 * それゆえ政治的なイメージとしては核不拡散のために"持たない"ほかの理念を共有しあった諸国が既存の大国の平和的均衡を応援することはできそうだ(諸大国はその責任の重さに耐えてもらうしかない。だから通常兵器乱用にもつながらない軍縮が可能になるよりリアルな論を試行錯誤できることは貴重だ。昔の民族学・人類学フィルムでは象徴的(集団の営みとしての)儀礼(生身が傷つくこともありうる相当危険な事象だ)が、争いの戦闘化を避ける道具として機能させている土地柄を記録して見せてくれた。近現代の目からはもう少し改良が要るとも受け取れる内容だった)。
 その他の準備済みの諸国は、ある種の均衡演出のために"許されている"格好と見なしうる。ある種暗黙のかなり厳しい管理に晒される立場と見なせそうだ。そういう政治力学の下で国際関係を保つ位置を選ぶか、核不拡散(の考えを踏まえること)による広大な土地持ちの大国群への応援団の位置で踏ん張るか、それともといった辺りくらいは想像がつく。
 核開発が平和利用の方に傾けさせうるにも関わらず、潜在的に兵器との共用になってしまうのは文春新書(古川和男著)でお馴染みの通り、原材料を兵器用に極端に偏らせているからだ。別のを開発する経験を重ねるよりウラン(・プルトニウム)系のを強いて選んで核利用し続けてきた為だ。
 氷期への道筋が見えてきた今日この頃という条件を持ち出しうるとすれば、エネルギー浪費とならないで衣食住を支えるエネルギー回路を簡単に準備できるのかできないのかという課題は深刻に違いないと思える。もし近い将来であってもできそうにない、のであれば、今日における現生人類大移動を、相対的に富めていると思い込めている諸地域(経験知から特に北よりの欧州域と北よりの北米域の人々は避難せざるを得なくする。なにしろ南極並みに数千メートル以上の積雪堆積→氷河化)から、より赤道近くの方向へ為すことは避けられそうにない。
 大量のエネルギー浪費が氷河生活を可能にするならば、費用負担は大変そうだけど、人々の生活実験開始ということもありうる。
 その際、パイプライン維持に浪費することは無駄に近いはずだから、別のエネルギー源を現状の延長で模索されるとすればの話はSFよりもリアルな感じになりそうだ。
 降り積もり続ける雪の量は半端ではない。それとどう付き合いながら、生活活動域を確保してそこに住み続けられるか。(映画の一シーンのようなパニック的極端に短期の出来事であるよりは長年月かけて海岸線が大幅に変化していくように、辺りが積雪の不自由さを経験し続けていつのまにか氷の覆われてしまう感じ。だから年々の営為としてのイメージは踏み固めて新居構築、また来年も積雪量次第では踏み固めて新居構築と言う感じか。ならばと超高層建物を予め建てて、百年に一度、超高層を積み重ねていくという手もありうる。最終氷期の時点の観測が可能ならば次の間氷期の急転に対応できそうだ。2、3千メートル厚くらいの氷河が融けてしまう(大洪水にも対処が要る、超高層は極細で高すぎるのだから日常の流通網からは外れているし、建物の堅牢さの確かさも多分、無理だ。超高いから仮に水量に持ちこたえたとしても高いだけでは役に立たない)。日々くらいのペースで下の階へ生活の場を移し続ける。衣食住に関わる補給のテクノロジーがその超高層建築と巨大水量河川環境に対応できているかどうか試される。素人想像からすれば、氷が溶け出す前に移住できることがより適切と見る。億単位の人々が、一年とかの短期に移動できる必要が出てくる(猶予は観測の精度次第の可能性))。
 ごく一面の推測からしてエネルギー問題は大問題になりそうな気配だ。
 しかも現富める境遇の成立要件は様々な職種をグローバルに厳密にこまごまと担い合えていることの結果なのだから、人口規模の持続もリアルには必須要件の一つと想像できる。
 ただその人口規模が実は今日的情報流通条件下でより濃密に関連付けられての成果の面を持つということじゃないか、と老人年齢からは憶測したい。
 それゆえに格差問題も含ませ大変な境遇にさらされやすい土地柄の諸氏も大勢いらっしゃる。
 一方で、そこらを改善もやり方次第ではできるかもと思わせるのが今日のグローバル環境だったりもする

 で、思想と言うべきか、目指す内容とそれを具体化する技能の群れの継続性を確保できやすい立場の人脈が歴史性とともにリアルに息づいていると仮定できるならば、それらの群れにはより優先して富が継続的に流れ、集まり易く、それゆれに将来像がその群れに委ねられる、が、オルタナティヴな発想がより将来像として相応しい選択肢を持ち出せると実際に具体的に本流との比較で持ち出されるようなことになれば、それはそれとして貴重な事態と素人的には思えるが、現実的に地表面上の活動として採用するにはちょっとぉ・・という内実として判断される提案だらけのうちは、本流に関わる選択がより適切ということも見通せる。ただし、本流自体に戸惑いが生じていて、しかも、オルタナティヴの方に強がり要素はあっても内実が伴わない、と言う場合の対処には相当に工夫が要ることになりそうだな、とUSやUKのリアルっぽい捜査ものドラマを時たま繰り返して見たりするノリからは、そのドラマノリから、演出のカメラ・編集操作の忙しさとは対比的にじっくり考えたくさせる。
 思いつき程度でグローバルなヒトの現状に手をつけようと図ることは無謀に近い。
 でも金融系はそこらに踏み込んでしまっている。
 しかし、金融系の育ち具合ゆえに、富の確保も可能になっている。
 そこらは多分、理念的に相当研鑽している諸氏にとってもジレンマになりうるとドラマ的には想像させる。ドラマ的には面白い展開として描きたくさせそうだ。劇作に関心を寄せる諸氏よこの老人素人に是非作品化して見せてもらいたい。
 隙(すき)をついて、一儲けしてどこかに隠れてしまえばという粗(あら)っぽい類もそれなり居続ける世の中なのだから、理念研鑽系は多分だけど相対的には貴重なはずだし、広瀬本の中で躍動し続ける"ロスチャ脈"は粗っぽい要素も含みつつの理念研鑽系に近い。
 アヘン戦争タイプの策謀を持ち込まれた側のことは忘れないようにしたい。実に迷惑だ。
 なんらか社会の営みを矯正してやるというタイプの発想を控えさせていそうで、危ない。
 グローバル環境では戦争的解決は万が一でも大抵は避けて別の手法がとられるという経験を数限りなく積み重ねられれば、女性の"弱い境遇性質"を補完する目的が女性をかえって"縛る"ことになるような考えの中の分岐可能性について気づかせるようにして、自らの力において各土地柄の事情に応じた男女のあり方が、より均されること自体は生理的にも無理ない方なので、(無理強いすれば可能な)堰止めの方が溶けやすい。列島では男も産休を取れとする発想で、人材難でギリギリの現場環境での産休女性負荷問題を均そうと試行中だ。男も、女も同じように産休で負荷となりうる、そういう条件付けの巧みを試しているところだ。だから、人事部門での工夫が要る。性別に関係なく、仕事の質確保と人数割り当ての問題を工夫する時期到来というわけだ(そこには社会的に負担となる生活習慣病大量生産とことばは悪いが、リアルにそういうことになってきた仕事と生活のあり方問題も控えさせている。そこにも改良発想が列島では少しずつだけど持ち込もうとしているようだ)。
 自給自足条件下での仕事の張り合い感と雇われ仕事での仕事から得られ易い張り合いとは相当に異なる。後者は構想の基本のところまで自らというよりはチームワークの中でという性質を避けえない。前者でも今日的条件下では、大局の制度的制約が基礎のところに条件付けしてきそうだから、そう変わらないのかもしれない、と老人年齢には想起させる。
 とはいえ、制約条件を踏まえつつ、仕事で試せる機会を得られることはそれなりに人生の張り合いとすることの自分次第要素を含ませる。そこらの性別に関わらず性と、生活習慣病に誘い込むような仕事圧ではない営みへの試行錯誤。そこらは恐らくグローバルに各土地柄でもお互いの知恵として貴重にし合えそうだ。
 糖尿病傾向、脳梗塞傾向は、老年人生にはとてつもなく負荷となってしまう。
 ここらもグローバルにお互い参照しあえる経験知となりそうだ。
 糖尿病系の人々は心身的にぼろぼろになりがちだ。だから本人はそこらを踏まえてなんとかこらえてギリギリの心身状態でいらっしゃる。しかし他人の自分流はとかく我が侭(わがまま)と映ってしまいがちだ。だからギリギリにしたこれまでも現状も熟知している本人が短い行く末観から自分流を通したい気持ちと他人の振る舞いに制御を与えたいだれかたちの気持ちがぶつかり易くして、虐待という表現は使われないけれど、実質、そのタイプの自分流は認めない"厚い"介護がまかり通りがちにする。リアルには老人だれもが自らの生活の流儀を既に育てていて、それを普段の通りに通す生活を当たり前と思えているところへ、介護のお世話圧が加わって、ことばでは表現されないけれど、余計なお世話がまかり通って個人の尊厳など拭けば飛ぶような実態がついつい醸成されやすい現場としがちだ。ひどいときにはその原因を見ないで、対症的に薬剤投与の継続によって結果的に廃人にしてしまうことだって起こりうる。
 脳梗塞後の身体はリハビリ知見を持つ医療と関係できた諸氏は幸いの経過も可能性として持たせられるけれど、良くて片側マヒとか老人年齢にとってはとてつもない負担となる境遇に陥る。
 だから介護、なのだろうが、ペーパーテストの内容次第では重要のはずだけど、技能系もそれ以上に重要な分野なことはハッキリしているにも関わらず、工夫の試行錯誤以前というのが大方の現状のような介護環境の下、脳梗塞後の老人諸氏においては、大変な生活が続くことになる。
 感覚的に半身化しているので、体調次第ではすっとたっぷり(凄く大きいバナナ大。小さいなら多分寝不足がたたっている)出るものが出にくく、そういう時に元気な諸氏においてはちょっとだけ息張ったりすれば解決したようなことすらができにくくなってしまうのだ。半分感覚が届かないことの深刻度なども今時ならばグローバルに共有しあえる工夫のための問題群といえそうだ。

 経済の話の導入にしたかったのだけど、わき道にそれにそれまくっている。ここらで今回はおしまいとしたい。

 ここでおまけの駄(じゃれ)川柳。

  謎解きは (道を)問いて解いて 湧き道