連載は続く~ SF 掌編『簡潔に整理(できたかどうか・・・)』編


 元素がそもそも同位体のように変化に富む。
 細胞くらいの構成ともなるとそれ自体が変異の素だ。
 そうはいっても、先日テレビで紹介してくれた変種メダカたちのように、色は様々に生まれてくるけれど、どれもメダカっぽく見える、そういった変種の出方だ。
 だからって・・それは僅か数十年間程度での変異の度合いとも言えそうだ。
 数千年、数万年程度の期間でもそれなりに変種が出てきそうにも思える。
 複数の素を既に持っている辺りは勝手に想像できる。


 介護施設建築への最低限条件の提示も重要だ。
 人条件としては、日々くらいに入居者構成を把握してどういった災害にはどういった避難の仕方が適切か、どこで災害の起点が生じていて、どういう避難ルートが選べるかなどなど心身化できていればいるほど、万が一の際、苦労せずに済む。
 そうできていたとして、それに答えてくれる建物設計になっているかどうかが、とても大事だ。
 避難して、更にそれが可能とした更なる避難の時間を利用できれば、様々に体調次第から他人の助力を必要とする老人身体をより安全で安心できる地点へ移動・確保できる。
 多くの施設は、安直に介護施設ならこんな感じでいいんじゃない設計にし勝ちと察する。
 特に夜間など極端に少ない介護担当が多くの要介護の老人諸氏を含む入居者諸氏を助けるために動き回る。その制約があってもどういう想定可能なケースにおいてもとりあえず第一次的避難が可能になって次のステップを踏める、と言う程度の設計が必須だ。
 そして建物設計に任せきりというのではなく、日々イメージトレーニング程度はこなす介護担当諸氏の地道なところにもかかってくる。


 平凡社東洋文庫版『東アジア民族史』や講談社学術文庫版『日本書紀』『続日本紀』など現代語訳された古代文献を今時は(列島古代史)素人老人でさえ簡単に利用できる。
 中村太一氏のネット上で読める説からは藤原宮を含む都(今日で言う藤原京)はダントツの規模だ。
 九州域は巨大噴火にさらされて先住系の人々の生活が壊滅したとされている。集団の営みとして持続できる残り方は難しかったのかもくらいの押さえ方はできそうだ。
 その後、列島各地に散らばって営みを持続する人々の後の世代として、渡来してきた人々が噴火恐怖の記憶を持たない有利さからと想像するけれど、渡来してきて住みつき、ないし列島各地へと移住もする。
 大陸・半島からの渡来系の入り口は九州域ばかりではないことが知られている。
 先に住みついた人々は、既に建築・文物の技芸を相当に育て上げていた中国からの影響を得て、渡来する人々を含む。その人々は交流の濃度次第だけど、その後は、列島環境のある種閉じたほうに近い情報刷新条件の中で、むしろ既存知見の熟成の方をたどりやすくする。
 だから次世代の集団の営みとして大陸・半島から渡来してくる人々の更に新知見も含む技芸の質に驚かされる。そんなこともできるのか!(感動+畏敬の念など)
 でもそれはまた次の世代では・・という重層性を帯びさせる。
 ただ帯方郡の出張所がある時期まで営まれていた九州域はそれなりの質を保てていた可能性も想像しやすい。
 交流して知見を得ることの大切さ意識も相当に育っていたと思える。
 九州域で集団を統率していたのは呪術系だ。自然災害を自らの責任のように認識する。
 やがて仏教が建築・文物の技芸とともに伝わる。宮を広大な建築物の中で営むタイプの都はない。
 入ってくるルートは主に九州からだ。
 ことばの通じ易い集団間はその通りに通じ合ってなんらか交易ほかを持続可能にした。
 ことばが通じにくい集団間はより自立性を発揮しあえる関係で各地に営まれうる。
 同じ制度ことばが列島各地に資料として出てきたとしても、そこらの条件を踏まえないと大いなる勘違いを生じさせないとも限らない。
 そして百済からみでの大事件が生じる。660年に、命がけで百済のリーダー層は時の中国の中枢に帰順するが、許されて、平和的解決を得てしまう。
 百済という名称の営みはそこで中断してしまうけれど、人々の営みは継続できた。
 易姓革命を忌避する発想で営みを志向するタイプだった九州域リーダー層か知恵袋層は、中国と付き合いつつ同系統の発想とは独立して付き合える方法をずっと模索し続けてきた。
 それでも中央集権的な営みのメリットには感づいていた。
 大事件を機に、中央集権化を図ることになった。ただし、既に列島各地に自律的な集団の営みがそれなりに育っている。そこへ、リーダーは自分たちでなんとか工夫するからごいっしょにね、と言っても簡単に合意できるとは思えない。それぞれ性が濃い時期と観察できた条件をフルに活用するには、考え方のくせを応用して、先祖に同じ根を持つタイプの話を文字証拠として残して、三代目くらいになればその考えでまとめることができはずだと、早速事業に出る。
 中国や大陸各地の知見・文物はびっくりするくらいすばらしいものに満ちている。
 でも易姓革命は嫌だ。付き合い方にはかなり工夫が要りそうだ。
 当時の列島での知識層はよくて山上憶良氏くらいの文芸力だった。
 とにかく真似て学べだった。職掌ということで、文字資料に近いところで仕事できる人々は限られてもいた。
 しかし、文字遊びに長けた人々は、だれかを楽しませる文章遊びにも相当に入れ込んだ。
 中国からは下ネタ込みの文芸も届いて、文字に達者な人々を大いに楽しませていた。
 列島でも700年代から800年代、900年代と文字使いがかなり育ってきて、より広く文字を使う動機付けを試みるような文字使いの工夫も盛んになされるようになってしまう。
 九州域も含めて借り物で飾るしかなかった時期からいよいよ自前の技芸によって建築・文芸の諸活動をこなすような時期を迎える。
 こじんまりした巻本として一応残された万葉集だったけれど、その時点から百年程度で放置されたままだったのを菅原道真氏が編集しなおして今読めているような形にまとめる第一歩を成した(山口博氏の説を参照)。
 (出自を隠してでも実務部門他を固めていたはずの)九州勢を含め、文献とかに関してはその程度の近づき方が当時の列島の質だったのだ。


 スヴェンスマルク氏が紹介したメカニズムが機能すると全休凍結も難しくない辺りは、丸山氏が簡単に計算して指摘してくれている(放送大の講義・NHKのラジオ番組)。
 雲量が1%増えたとき気温がどのように変化するかとかの計算可能な押さえ方。
 だから氷河期は幸いな事に、スヴェンスマルク氏指摘の諸要素がすべて最大限まで働くような条件とはならずに済んでいるとも言えそうだ。
 ちょっと作用し合うだけでかなりの気温要素に変化を生じさせる。
 (巨大氷河崩壊のようなきっかけを得た)初期のきっかけ以後の氷期突入とその深化循環が続く過程で、雲量作用での気温低下も加われば氷期の趨勢には好影響となる。
 ここで大事な事は、観点として、ついなのだけど、将来氷期が訪れるとなると、少しずつか急激にかで寒くなるはずだと思い込んでしまう。将来温暖化するということばを先に想起すると、徐々にか、急激にか温暖な状態がより深みにはまるように推移すると思い込んでしまう。
 ところが地層や氷の層やの研究から実際に起きてきたこととしてよりそういうことだったに近い像は、寒くなるのに、きっかけはむしろ温暖化することだったのだ。
 温暖化がそのまま突っ走るようなことはなくて、温暖化が引き起こす大規模な現象が寒冷化のスイッチとなっている。氷河期というのはそういうことの範囲性をヒトに告げてくれる感じだ。氷河期に抑えこむ寒さエネルギーがどこかしらに貯えられている。
 今は温暖化しているのか、寒冷化に向かっているのか、という論議のこだわり方に問題があったと今なら指摘できそうだけど、思い込みはヒトを重症化させてしまうという反省をもたらしてくれた。
 弁証法役割分担発想もそうで、ヒトをむきにさせて(芸能やスポーツが典型になる)ファン意識の醸成次第とかも関わって、敵味方、仲間と仲間外しの発想を心身のところで燃え易くさせる。直(す)ぐにでも冷静になって後悔する類だけど、やってしまえば、それは結果を生じさせるのだから始末に悪い。

 経済の営み話では、現自分たちこそこの世の中をリードする考え方を研鑽済みだ、と別にうぬぼれているわけではないけれど、過信の要素も否めない人脈がまずは経済運営の主要を占める果敢さを発揮して後ろ盾となる支払い手段の占有確保を一応経て、その先での試行錯誤面がより多くの人々にとっての自由領域であり集団の支え合う場面とも言えそうで、それはいつの時代でもそれなりに作用してきたことと思えるけれど、一応、現数十億人がなんらかといってもかなり濃い目につながりあって経済が成り立つようになっているので、それなりのネットワークや人材育成や施設作り、維持管理などの基本条件と実際の営みと関わる知見や社交性やの数々の条件を育て合えている度合いも、自律性と関わってきそうだ。

 自転車をこいでいると、ギラギラと照る太陽光線はけっこう暑く感じる。
 そこで、スカッと(老人本人は目指しているつもりで)川柳
 桜の花が散り 木々の葉が 一斉に吹き出すように緑を放ち始めた