巷へ向けたニュース報道もそれなりに落ちつきをいくらかは取り戻してきたか。
当初、物価上昇でインフレか、程度のノリがまかり通り勝ちだったように年寄り視聴者からは伺えた。
でも、この2、3日の言葉使いでは、物価騒動は確かに、内実は複雑だとしても、需給の間になんらか齟齬が生じてその調整上の時期的表現としての物価高という押さえ方をふまえたことばの使い方に落ちつくようになっている。
それでも中央銀行の金利扱いの話がリンクしがちにしているから、そこらの整理は(頭脳明晰を期待されている分野で職としている諸氏においても混乱があるのかないのか)ちょっと・・といった感じなのか。
かつて金本位制の頃ならば、インフレーション概念は説明し易かった。
老人年代的には(インフレだったりデフレだったり)勢いを伴った現象のニュアンス込みで受けとめていたりする。
辞書的には今は管理通貨制度の応用編の何番目かと察する。
分かったつもりにはなるけれど、生々しさとごいっしょで、しかも人為の様々が介在するとくれば・・で刑事ドラマのような推理・推論も証拠を基調としながらも大事な作業だ。
ヒトが成している。
時期的な思惑も絡む概念の定義だから、たとえばクリーピングインフレはいくらか歓迎されるニュアンスで説明されていたこともあるようだ。
その成れの果てがバブル崩壊(方式以外でも、それなりに荒業が要るくらい(緩いインフレが)煮詰まってしまった状態への修復作業は利害の密度も含め面倒な事態を招きやすい)的解決を招いた。
ヒトにとっていつもの関心は、多少面倒でも手を付けざるを得ない保守点検分野だ。革新分野は、余程余裕次第めいた集中を自らがわかって、そのうち的に受けとめられがちにする。
つまり19、20世紀の"英知"系はことばの使い方においても、その弁証法役割分担的争いにおいて、工夫を持ち込んで、いつでも片方が有利に、そしてある事態が煮詰まりに煮詰まって、変化を面倒で面倒でどうにも取り掛かりたくないと内心では思っていても、仕方なく手をつけるかな・・となるごく稀な機会でしかヒトの現象としては用いられないタイプを表現することばをもう片方に与えてしまってきた。
だから弱者をより困らせる策へ別の論で打って出る場合、それは保守点検発想ことばで充分だ。内実に革新的な作業が含まれていたとしても、わざわざヒトのくせに働き掛けてより面倒を持ち込むことば使いは要らない。
つまり変化を持ち込む必要を感じているなら、面倒がるヒトにいきなり面倒を持ち込むようなことば使いではない、現保守・革新系それぞれに日本語言葉使い上の歴史的工夫が要ることに気付けることを素人老人年代からは、提案してみたい。
ただしそれ以上に専門用語が溢れやすい時代だったりするので、物価上昇(低下でもいいけれど)、原因は?程度の一呼吸が要る。
流通そのほかが影響して、需要に追いつかないので、ありがちな値上げになってる、とか現象を辿り検証する。ここらは巷こそが関心を持って具体的にできることだ。
すると中央銀行が発行するお金の量とはそう密接に関係してないことくらいは確かめられる。
かつては金利をたっぷり上げて経済を営もうとして、列島版に限らず"高度成長"を演出してみせた。そしてその無理がたたって、ということを老人年齢の諸氏は具体的に昔語りできるくらいの質で経験してきた。
その後を生きる多くの若者を含む世代たちには、一見チンプンカンプンになりかねないだろうけれど、経済の営みへの人為の工夫にも色々がありえて、その端緒への工夫次第でその後がかなり修正しずらい利害関係とかも持ち込んでしまうしで、重症化してどうにもならなくなって荒業を使ってなんとか・・ということも起こりうるわけだ。
試行錯誤が先端的にも可能にする中で、着実なより広大な分野での営みを可能にすることも大事と大雑把には押さえておける。