連載は続く~ SF 掌編『断続的な話』編


 ファンタジーという単語を用いた時になんらか偏見の類をお持ちならば必ずそちらに引っ張られた感じで受け取られるようなことを頭のところで指摘してみたい。
 とかくヒトはファンタジーに思考とか頭と使うように働かせてしまう。
 物語的な形を用いて説を整理するタイプの営みでは猶更だ(という位ヒトの営み全般が誘われがちと見る)。
 しかし、ヒトは生き物だし、工夫して生活を営んでもきた。延々と。
 だから一方で確かさを希求してやまなかったし、これからもきっとそうだ。
 近現代のある特殊性なのか、宗教の営みはいつのまにか見る側も担う側も確かさよりは別の方で押さえがちにしている。その勘違いのまま過去の事績を振返りたくもしてしまって歴史記述に富んだ物語を"捏造(創造としてもいいけれどニュアンスは同じ)"しがちにする。
 だからヒトは立派に工学的思考、試行錯誤を育て続けている。
 再現性の確保のために数学を目いっぱい身に着けようともし、改良に改良を重ねてきた。
 あてどなく思考に誘われて不安になるよりはファンタジーの話が膨らんでいく方がヒトにとっては優しかったり刺激的だ。

 以前パーティー発想に馴染んだ集団の営み系の話をしてみた。
 そのタイプの諸氏へは集団の営みを円滑にする深謀遠慮としての馴れ合いを避ける巧みの試行においてすらパーティ―に呼ばれるとか呼ばれないとかする実質的緊張が真底では機能しているから、仲間たちと相手方という緊張関係以前にその内輪形成の場自体の緊張関係こそが本番のように振舞ってしまいがちと想像している。
 列島育ちなら未だ通じると思うけれど、仲間内は仲間内でそれなりに気心もしれた関係性を育ててしまう。乱暴狼藉を躊躇させるに充分な仲間性をこっそり意識し合える。
 ただ、それが表に目立つと、集団の営みとしては実に不都合に働くので、依怙贔屓間を目立って発散するようなことのないように、慣れ合う関係性よりは表向きであっても緊張感を保とうとする。
 実際には、ある面で気を使い合い、でも、だからって第三者が一方的に不利になって可哀そうなことにならない配慮も働かせ合うことが、仲間的な紐帯の要素にもなるようにしてきたはずだ。ドラマ的には仲間構成員個々を伺った時の生き様たちといったところ。
 でもパーティーに呼ばれるか呼ばれないかの機会すらが実は緊張に満ちた、駆け引きのような関係性で成り立っているようだと、そういう発想を発揮しずらいかもと、想像に想像が重なってしまうけれど、そうとらえたくさせる。

 だから、今時の国際情勢上のよりこみいった仕掛けについて素人が想像を更にたくましくすることもないと思うので、表沙汰から推察するにで、話にするなら、仲間に呼ばれるか否か、で仲間内と相手方に分かれるような事態をとりあえず、招きやすいんじゃないの?そういうやり方は、試行錯誤の手法としてはどうも・・・と素人だけど年寄りなので、指摘したくなる。

 テレビ情報ばかりで顰蹙ものの可能性なきにしもあらずですが、観測・観察が各研究者の現場で厖大に地道に成され続けているようだ。
 これは基本の一つをしっかりこなしてくれていることと見なせるので、それが腐る前の時間的に有意な間により多くの知見フィルターに晒されて、検証を経て、また同時に整理の試行も経て、暫定的なまとめなりが一般にも届くように公開されつつ、ネットの時代、一般もその素材にふれて試行錯誤できて整理できて・・のようなことも成り立っていてくれるとより刺激的だ。

 毎週とか毎日情報というのは貴重なのだけど危険とも隣り合わせだ。
 二、三日、一、二週間も過ぎた頃、その膨大量にうんざりするか、整理しきれないと判断して、忘れて覚える、というような馴れを発揮しだす。
 事細かに客観的に記憶庫に納めておくようなことはしてなくて、軽重なりの計量をした思い出しやすい順のような事柄倉庫が出来上がりがちにしてしまう。
 そして翌日、翌週には新たなことに興味が湧いて・・・のくり返しにしがちにする。
 昔ならば75日間くらいは詳細に数々の他人毎を覚えていたらしいが、今時はまったく異なった記憶の世界が交流し合っていそうだ。

 連休前のポカポカ陽気頃から巷の小動物たち(ヒトよりぐっと小さい生き物たち)が盛んに動き始めていた。
 今週は予報だと雨が断続的に続きそうで、気温はどういった感じに推移するのか。
 再びヒトは観察をしっかりすることによって、持前の賢さを取り戻しつつあるかも、など年寄りは勝手に想像する。
 これもテレビ情報に過ぎないけれど、かつてのイエローストーン事例の紹介は貴重だった。狼と鹿だったと思うが、一方的に弱肉強食のイメージのはずが、そうではなかったことを"しっかり"紹介者もそこらを押さえて、紹介してくれていた。
 食物連鎖の実質は持ちつ持たれつの致命的なくらい濃密な関係性だった。
 進化の実質である(先読みして変化したから進化の結果としてはびこるということでは決してないこと)結果的進化の形、ということでは、食われる側が沢山はびこりやすいし、増えすぎないということがより可能性として大な生き物だったりもする。ヒトのように、代替を様々に有意な時間内に探して、得て、といことができにくい野生の場ではそういうことが結果的に繰り返されがちだ。

 今わかっていることは、温暖化と言われるタイプの短期間での気温上昇は、長期間に渡るエネルギーの蓄積による大氷塊の崩れをただ早めるのを遅らせていること、と氷河期の特徴として指摘可能な観測・観察を先日引用させてもらった。
 すでに海岸線はかつての進入域が相当に後退している。
 つまり氷河期のエネルギー状態はそのままと推測というか想像できる。
 でも蓄熱というか、徐々に巨大な氷塊が崩れるような局所的エネルギーの蓄積が、縄文海進までの極端さはないものの、ずっと続いていて、氷期への転換を地球は待っているというようなファンタジー表現も可能だ。
 天気予報士諸氏が近い将来の予報として重大事態として番組を構成できるくらいの急転直下的な変化をもたらす短期間の転換事態であることが要点と思える。

 そうなる前の、陽気をできるだけ心身に浴びさせておきたいな、というのが老人ゆえの、ささやかな"思い込み"だったりもする。

 だから介護施設で、個々性がどういう風に実現できるのか、そういった辺りを諸氏において体験してもらいたい。
 どうせ年寄りのわがままだしぃ・・で流されて、晩年はこんなものか、とあきらめるようなお年寄りになってもらっては困る。
 いつものお年寄り諸氏がそうしているそのこと自体が、なぜか施設の生活では邪魔がられる。
 ちょっとした個々の事情が通じにくくなってしまう。
 でもそのちょっとした個々の事情こそが自分と密接なわけで、そこを認められないとしたら、いったいヒトのそのだれかの人生ってどうなってしまうの?だ。
 あくまでも市民社会だ。
 だからお互い様の辺りは認め合わないといけない。
 けれども、棲み分けて巷が成り立っているのだから、その個々の事情の延長のはずの施設での晩年の生活が巷での個々性発揮とならないはずがないし、それが発揮されて文句を言われる筋合いもないわけだ、と思いたいが、生活の場の代替である介護の発想をいつのまにか忘れたかのようにして、他人の生活にいちいち口出しする介護施設の介護現場担当を育て続けるようになってしまった。
 人脈の問題が関わっているから、問題を問題として丁寧に整理することができたからといって、簡単に解消できる前に、(人脈が問題化しないように揚げ足取り話があふれだす)事態が込み入った感じに振舞い始めて、経営層にとっては、面倒は避けたい気にさせがちにすると察する。
 個々性に注目できる介護は、今でも、相当に深刻に、成り立ちにくそうだ。
 そうなると介護施設の存在意義と関わってくるから、それもまた別の意味で深刻な事態進行形となりうる。
 巷感から個々性を市民社会倫理の範囲で放置できて、巷的に付き合えて、しかも介護職の裏方的本領発揮も成されれば、仕事人生としては相当に充実ものなのだが、そちらへと試行錯誤を転換してしまうきっかけを(実年齢が年寄りだったり若かったり色々でも)新人諸氏は持ちにくいとしたら、それも可哀そうなことだ。
 経営内部からの刺激も必用だし、公的部門の潜入調査も充分に効果を発揮できそうな場だ。なにしろ列島の老人の晩年の生活質を左右する現場だ。

 テレビ番組では、生き物系微粒子がひょっとして雨粒の核の主要なもの?ということを研究されている人物が登場していた。
 ヒトはファンタジーに流されやすい思考を持ってしまっているけれど、地道に厖大な時間を使って観測・観察して好奇心をたっぷり満たすことも出来そうだ。
 そうなると、時間が足りないストレスに晒されかねないかな・・・などここらは年寄りの余計なお世話の一種だ。