連載は続く~ SF 掌編『専門系情報発信が盛んな幸運の時期、素人流発揮』編


 馴染み難いそれなりの時を経た資料を読解していくには専門家の助力が欠かせそうに無い。
 書物にふれる多くの諸氏においても、なんらか気づける。
 でも専門家諸氏においては気づきとその先が素人からは求められるように想起できる。
 専門家諸氏ならではの、読みこむ道具立てが可能だ。
 その道具立てが一般も応用できるように準備できれば、そしてそれを気前良く公開してくれる機運が渦巻いている時期的偶然を得ていれば、多くが読み込んで刺激の種を提供しあえる。

 登場人物の長すぎる名前を覚えてやっと筋を追えるタイプの小説の類は読者を難渋させがちだ。
 追々読者層は好みに応じて絞り込まれる趨勢を生み易い。
 ただし、名前には独特のルールが生じやすくて、他は無視して、覚える要所を母語的仕組みに置いて感受できるようなタイプでは、そういうことばの経済が働いて、簡単に覚えて、登場人物たちの振る舞いを追い続けられるようにする。
 そうではない多くの場合、覚えることになんらか動機が働くタイプたちと同好の士タイプたちが熱心な読者層を形成する。

 というわけで、長くて覚えにくい名前がわんさか出てくるような読み物を、話し言葉として再演できるようなことを他人に向けて表現できることはそれなりに、性格の向きに応じてくすぐり要素を発揮し易い。
 つい中味の吟味を厳密にすること以上に、筋をつけてわかったと自覚できた内容を開陳したくさせる。

 文字資料が誘う。文字を使い慣れていなくて、記憶操作には今の人々以上に長けていたはずの時期のしかも資料読みも得意とした人々は、放っておいても、筋を作ってくれたはずで、各地にその筋を元にした資料までできあがってしまったと素人なので想像したくなる。

 素人からの期待としては、各種の古代以来の資料について、中味・内容(意味系)からの年代特定以上に、モノの経年変化とか、時代によって異なるかもしれないモノ・素材としての性質から時代を特定できて、それが更に検証の過程を経て、今の段階では、どういう手続きに置いて厳格に検証・特定されている、という内容込みでの資料公開だ。
 考古資料についても、たとえば先日NHKにて放送された飛鳥の苑池遺跡については、堀田時間軸がずれていても画像合成で全体図くらいは提供できると思うが、それが見てわかる程度の画質・大きさでどうやら公開すらされていないようなことをネット検索から気づけたりしている。
 利害が錯綜し易い現代だから、公開すること自体に問題をはらませやすいとかの諸事情がありそうだけど、でも公開の仕方に工夫はないのだろうか?と思える。
 それと意外だったのだけど、考古の専門家が人の営みにおける水絡みの施設を発掘するに当たって、予備知識としての推理技術(質についても考究できる程度の学識)の歴史的変遷を持たずに、改めてその筋の専門家に検証してもらうようなことを作業中にこなしていた。
 今時のメジャーなメディア業の諸氏のまとめ方に依存すると、それなりのまとめしか期待できない、なんらか制約がありそうな辺りは素人だって気づけているので、学問系の率直さへの期待ほどのことを期待はなかなかできないものだ。
 番組ではその制約があったとしても知っていれば紹介していたと思える水理とか造園に関する少なくとも東アジア圏での歴史・関係などをそこにふれていてもらえれば、古代列島のその時期の関係性も、発掘の成果以上により具体的に浮かび上がらせることができたのでは、とも思えた。
 中国からダイレクトに(水理知見・植物知見・薬草知見ほか)造園のノウハウが伝わったのか、その造園を注文した人脈とそれを引き受けた人脈において、中国→半島でのできごとだったのか。それとも、中国系の人々が飛鳥の地に拠点を持ったのか。中国系知見を習得した半島のだれかたちが飛鳥の地に移り住んだのか。造園のそういった総合性を発揮した奈良盆地や列島各地での同時期の考古知見はどういうことになっているのかなど、それ次第では、相当な同時期知見を整理可能とも素人なので安易かもしれないが、できそうに思えた。
 今で言う藤原京がごく近いところでのできごとだけに、そこにどういった人々がつどうことになったのか、の辺りは大いに関心を誘う。
 記紀中のか細いリアルを手繰り寄せる手立てともできそうだ。

 紀の方では、天智の8年頃と10年頃の重複記事と指摘される事項など、急いでいたのかなんなのか編集の粗さが露見してそうな箇所とも読める。
 中大兄の呼び捨てっぽい用いられ方については何度も引用させてもらっている山口博氏が、親しみをこめて身近に感じられるだれかが、そのまま記したように指摘してくれている。(異論を持つ諸氏の疑問にはかなり役立つヒントではないか、と素人的には観測する)
 中大兄は百済残党組みを組んでしまったために、恐らく、当時の生々しさの中では対外上の問題児になってしまったと察する。
 だからほとぼりの冷める何十年間かは主流からはずされたはずだ。
 でも、当時の世界の趨勢を知る情報力不足を当時の人々において想像できなら、中大兄の猪突猛進判断も仕方ないことで、近江に百済系を住まわせ、その後に(評判を気にせず)近江に宮を移したりして、百済の人々を大切に遇した貴重な人物なわけで、それならばと、後代の光仁桓武の頃に、鎌足氏と中大兄の懇ろエピソード挿入の巻とともに、短いけれども第27巻(α群)として用意された。
 この仮説だと、体裁上準備されて対外的に用いられた中に、中大兄はちょっとだけなんらか触れられる程度だったかも、ということと、時代の出発時の両勢力の出会いのような重大かもしれないエピソードが抜け落ちていたかもの話になって、それはちょっと無理じゃない、という意見もでてきそうに思えるが、恐らく、素人想像だけど、話の筋からすると、聖徳太子エピソードとか先行の話題性からして、バランス的には、その方が後の藤原氏の潜行した実力のあり方とうまくかみ合うのではと思えたわけだ。
 生き証人がそれなりに居てもおかしくない時期の巻物作り・完成。だから天武や持統などはより具体性を帯びて想起できる人々が多数いるし、中大兄なり天智なりを具体的に想像できる人々も居る中で、出発エピソードの主要人物ならば、もっと扱いは違うはずが、実際には重複記事すら指摘されるような巻を構成していて、むしろ後の天武に2巻を提供するような構成にしていることは、なんらか示唆を想像したくさせる。

 そして苑池問題。
 水理上、地下水の流れ調査くらいは簡単にやってのけている人材が担っている。
 造園の様はあくまでもCGを使ったかなり急いでの作業から描いた庭園のようだったので、配置とか、実際の考古資料としての苑池の実際から、(歴史的流れも踏まえた)庭園芸術を探れる諸氏において判断して公表してもらえるとありがたいといった素人観測になる。
 そこらを踏まえて、一体いつ、どういった人脈がそこに移り住んで、そういうことが為されたのかが、ある程度でもわかってくれば、その後の展開についての相当なヒントにできる。と素人は途中を端折って思えてしまうわけです。

 列島各地の考古資料の年代確定の洗い直しが必要なら早めに厳密にこなして、今の段階では、の辺りを公開してもらいたい。
 数十年間誤差では大きすぎるので、せめて数年程度のは要る。
 ただ時代区切り(百年間単位)くらいの大局を押さえるために必要な資料であるならば、数十年間誤差はある程度、許容範囲かもとも思える。
 文字資料については、先の通り、文字資料ゆえの読み手へのくすぐり動機を発揮して、伝承化したタイプが溢れかえっているはずで、そこらをどう原型にまでたどれるようにできるかは考古・歴史系の技術・技能開拓にもかかってそうだ。