連載は続く~SF掌編『餅米薯无』編


 そのプロジェクトはとりあえず中央集権と今日見做(みな)したくさせる集団の営みの様を得ようとし始めた。大国をかなたに意識出来てしかもその営みの様のある面はイメージ可能な時代だ。
 どのような手順なりが要るかについても、それなりの整理を得ている。
 そこへ向けて(どのくらい時間を要するか、それは短いかもと思えていた一方で、どれほどの(自律的各集団とそれらを構成する人相手のことなのだから)難事業かとも察しがついていたとも想像できる)事業推進の時期、だったならば、既存の分権的あり方で十分ではないか、の思惑をなんとかする方に力を注ぐことは、革命とか大事を想像する諸氏においては、思想のどこらにいるかにかかわらず当たり前のこととして受け止められると推察する。
 なんらか仕切る必要は出てしまう。
 しかしその中央集権化の事業は、大変な過程を経て、今日においては、それなりの政府を営めている。ここらは西欧発想知見の導入も役立たせていると素人は想像する。
 しかも列島の人々は中枢も端々で活躍する人々も、その西欧発想の或る時期版からすると野蛮とか遅れているとか、稚拙のようにとらえられがちなアニミズムのことばでくくられるタイプの万物の営みとヒトの営みが融合して大切しあうというような発想タイプを後生大事にしてきている。
 政治的な事象を含め西欧発想での世の中運営は平穏を目指してるんだろうかと疑わせるくらい荒波に満ちている。それへも大変な紆余曲折を経ながらも、なんとか付いて行って、それなりに独自性の芽は摘まないようにしていると素人老人からは伺える。
 それでもテーブル上で行うゲームの達人たちが仕掛けてくる諸々と向き合わされて、短気を起こしかねないのではという場面もちらほら、それでも、多くの諸国がそうであるように、そこを上手く付き合って、本筋は中枢も、端々も忘れないようにしている。
 そして、中央集権だけでは、その圧をうまくかわせそうにないこともハッキリしている時期的偶然を得ている。
 今ならば、人々は中央集権のしくみゆえの支えあい面を意識しながら、個々の場で自律的な工夫の数々を試行錯誤できる自由度の必須を行動の具体性において意識できるようになっている。ただ、諜報の作為が密に張り巡らされやすい、欧米系発想の局地で、ヒトにとってはそれは辛すぎること、と判明しだした時期とも偶然遭遇できていて、偶発時による破綻を避けるうえでの密度の保持を欠かさずだけどそのためのこれまでの諜報作戦ではヒトの営みにただ負荷をもたらしやすいということで改良くらいは求められていることを映画とかでしか知りえない素人でも気付きやすくなっている。
 各地のそれなりに散らばって自律性を発揮し続けている集団の営みが今ならば国民国家としてまとまり、だけど、その利害が先行している限り、師範学校の仕切り役諸氏のように面倒見は実に良いのになぜか十把ひろからげに正しいことをしいたがるタイプが世の中の営みに口出ししやすいままにして、自由度ゆえに達成されやすい、個々の活発さとともにある平穏さ、が育ちにくいままになってしまう。
 ヒトのあり方を振り返れるならば、外敵になることもお互いが避けられるようにして、そうなれば外敵へ構える政府ということもそれほど要請されない。
 そこに油断というか、密度を落とさない工夫の刷新版が伴うようならば、実としての刺激的でもあり平穏でもあるいつもの営みがそこに蠢(うごめ)いてそうだ。
 列島も例外ではなさそうだ。
 中央集権ゆえの恩恵の面も意識しあえる。若者たちの中には、一面としての負担をめぐる齟齬を際立たせて中央集権ではなく、個々の責任で何とかした方が、の論に惑ってしまうタイプもいらっしゃるかもしれないけれど、長年月に人々の努力、そして時代を改革する人々は直ぐ次の時代ではとことん批判にさらされやすくしてきたことを思えば、今、変えろとか言っている人々も、もし担い手になってしまうなら、同じ過程をたどりたどりやすいのだと想像できれば、少しは、軸にしておくといいかもの辺りに思いが至りそうに思える。
 そして各地なり各自なりが、或る種の制約を受け入れつつも、自由度をお互いのものとして、試行錯誤くらいはできる世の中にしておくには、中間で仕切り託している諸氏が師範学校発想ではなく、介護が目指す個々の生活リズムにそった対他の関係性の持ち方で、ざっとならお互い様ということになる。(内心での譲り合いが実は政治作用での駆け引きを生じさせてしまう、ということから、若者年代へ向かう時期の年少の人々にとっては難しい局面も多々生じやすい)
 それでも、中央集権をなんとか保ちつつ、しくみの上では分権要素を取り込みその上手な使い方に慣れることが求められるし、その分権が小さな中央集権のしくみになって、個々の場の試行錯誤の自由度を下げすぎてしまうとしたら、それも勘違いの所為となる。
 主に藤原氏が仏教を軸に(心身作用系の工夫としての)まとめ役の中枢に働きかけて、仕組みとしての中央集権を構造として育てることにまい進してきた時期を経て、と今日をとらえたい素人からすると、今は、そこを踏まえて、記紀のプロジェクト動機誘因作用からも離れた読みをそろそろ可能にしておかないと、サイエンスの厳しい手続きからは取り残される面とともに、古代の人々の努力の様の方も物語に埋没させかねないのではと思えている今日この頃の素人なわけです。