連載は続く~SF掌編『時は天平へと』編


 その時を同時期として体験できた主だった人脈上の人々は、一方で同情したかもしれないし、困ったことだと内心穏やかでなかったかもしれないし。
 でもとにかく情勢上は、大局は決していた。ここをまず外さないでおきたい。
 大局の都合からすれば、残務処理のような事態に、なんとこれまで信頼を置いていて半島・列島域になんらかお目付け役を提供してその担い手の中枢が、どういうわけだか残党らと同調して反旗を翻(ひるがえ)した。
 残務処理だったから粛々と事は済まされ、これまでの権威的な保持を失ったのが倭国だった。
 歴代、ずっとそこらを意識出来て、現代人の中には、唐の中枢へ訪れる様々な土地柄の代表たちも混じった絢爛豪華な様を列島のその縮小版(半島の三国が訪問してきたり)にも見ていたりする。倭国は凄かったに違いない・・・と。
 ここらへの客観的な応じ方は、散々引用させてもらっている山口博氏の指摘からヒントを得られそうに素人からは思える。
 遣唐使ということで出向いた人々がその凄さに驚くほどの、倭国でのあり方だったはずだ、と。
 しかも文字使い、ということの制約も持ち出せる。
 中国由来の下ネタ含み本が珍重されたくらい、ということもヒントにできる。
 列島では文字のすさびはそれほど盛んではなかった。
 貫之氏の創作の辺りも素人からすると参考にできそうに思える。
 ついお国自慢したくなる事情通・専門家諸氏が目立つ数いらっしゃりそうだけど、そこは、少しだけ冷静になってもらいたい気がする。
 大局からは残務処理に近い事態に戦争っぽいことを仕掛けた主役の片方が倭国の主流だった、という事実を同時期の人々はどう対処しえたか。そして後の、文字資料として残す立場の人々がその記憶生々しい、或る程度長期間と関わった中枢の人々がその時期時期にどう対処する気になれたか。そこらの証拠資料としての記紀ということを指摘することは、素人のかいかぶりになってしまうのかそうでもなさそうなのか。
 今どきの読書家諸氏は、光仁桓武復権努力の結果を見ているだけだ。という仮説を素人も採用してみたい。
 とんでもをやっちまった中大兄をどう扱えたのか。同時期の人々の苦渋を素人老人ゆえ想像したくなる。
 多分、一度は除外してしまった。その痕跡が別人の死を描く、壬申の乱ではなかろうか。
 そうやって、同時期の或る程度記憶を持つ人々と記述資料として接する大国関係人脈を納得か、やり過ごせるエピソードとして受け入れさせることを目論んだ。
 やがて文字資料の潜在力が機能しだして、あたかも同じ過去を共有しているかのような話を各土地柄が引用できる便利さゆえ、多用もしてしまう。
 リアルに古代を探るなら、考古研究がもっとオープンに早く濃密な仕事をこなせないと。
 文献・現資料から入って、現物と突き合わせる諸氏においてなら、状況証拠を積み重ねるタイプではもう欧米が鍛えてきて、自慢はしないけれど、陰でこっそり厳密に検証しまくるサイエンスの手法の前で、もてあそばれてしまう。
 だから特定化の度合を厳密にオープンにできる研究が要る。
 これだから特定して間違いない、という確度を表にできることが要る。
 さもないと不毛な九州外しだけが独り歩きしかねない。
 邪馬台国以来、倭国は九州が主だった拠点だった。
 そしてずっと倭国であることを、その意味などこだわらずに用いる必要を感じる人々だった。
 その人脈に乗る、伝承を意識できる人々にとって、それで済むなら、ずっとそうして半島系三国の人脈とも往来し続けたかったと素人老人は想像する。
 それを台無しにしたのが・・・だったのだ。
 その一方で、(素人観測からは当時の大国中国(唐<高宗と影の実力者武則天の時期>)を含め)大変な助力を得て、中央集権化の事業は日々着実に進められることも並行できている(後の復権劇を思えば、残党を含む百済系の一般の兵たちが大土木工事を短期間でこなす実力を発揮したことを想像したくさせる。工事指揮に当たった百済人脈の実力も想像しやすい)。ここも忘れたくない。中大兄をどう扱うかと心労に疲弊する一方で、希望の事業が列島の人々の仏教的な平和をめがけて(唐の都での当時におけるグローバルな往来の絢爛豪華も意識しながら)築かれつつあった。"ナラ"域のどこかで試行錯誤されはじめていた。希望がなければ、列島各地の自律的集団たちがついていくのにも限りがあったろうとこれも想像しやすい。

 現代の首相が一億人規模を相手に、個々の事情に応じて時代の試行錯誤が生む歪のなんらかへ対処可能か、といえば、そりゃ無理でしょう、と簡単に答えられる。
 地方自治でも、市町村くらいの規模に降りてこないと、個々の顔、生活の様は浮かびにくい。
 そういうタッグはいかなる発想を持つ活発な人々であっても同様に生じる事情にも混乱させられることなく、事態への対処の具体性を生む。
 民主主義とかの標語にうっかり流されることなく、個々の基本を、かつての昔の面倒見のよいリーダーたちがどうして尊敬されえたのかを想像しながら大規模人口の組織運営の工夫として、押さえつつの世の中の営み実践へと向かいたいものだ。
 中央でないと持てあます、ということがないような仕事をめぐる交流の密度が中央と地方の各所にありえるようならば、中央にだけ選りすぐりが集まる試験や待遇の仕組みにも工夫がいるようになる。
 素人老人発想からは、介護施設の現場担当!にもそういった連中がこぞって入り込んでもらいたい気がする。現場に精通して、現場の中には外れた方で適応して熟練した口車達者などなたかたちに、無駄な、恥を欠かせないで、改善の方へ誘える達人たちも膨大に必要だ。