連載は続く~ SF 掌編『相当に老いたやつが列島古代のどこかを空想してみた』編


 ヒトの性(さが)を見逃したまま、形だけの民主主義というのか、自立の向くままに任せたりすれば、各地に力自慢の大将を生じさせて、膨大な各勢力間に争いごとを日々繰り返させることだろうな・・・と素人老人的には想像させる。
 列島的には、ある時期の脚本家とか小説家諸氏が(近現代に映すように仕向けて)空想して見せた江戸期の乱暴者たちが世の中を困らせがちにした様を事例に持ち出せそうだ。
 USでも、現大都市でのギャングたちの勢力争いのものすごさとして紹介されるけれど、そんな状態と例示できそうだ。
 だから、といつもの素人流に端折って、ある種のまとまり感を持たせる大局への関与ということ、たとえば列島での古代以来の中央集権"化"への試行錯誤はそれなりに、大事だったのでは?と今時の若者諸氏にも投げかけておきたい。
 列島の歴史は、主だった担い手諸氏、勢力が隠れたがる。自慢史にしないタイプ諸氏だと察する。そのため、列島の歴史を振り返るのには大変な読みが要りそうに思えている。
 しかも、歴史の出来事の連鎖は、列島圏と勝手に区切って成り立つものではありえそうにない。
 様々な元気ものたち、活発な連中が錯綜して関わって、思わぬ出来事を連鎖させ続ける。
 中には、自分たちこそと思い上がっていることにすら気づけずに、先手先手で出来事を起こす勢力も関わり、それがまた錯綜も生じさせ、で、整然とある構想に向けて、ヒトの生業(なりわい)がなんらか円満に遂行され続ける状態を図る、という程度のことすらがなかなか難しい(むつかしい)。
 今時は・・察するに、当面の勝者に、向かう先を任せる、という暗黙で動かしてみっか(三日間のことではなく。三日任せて危ないと思ったら、もう止めにしようとしていたら、こうはなってないだろうな、と素人的には想像している)、と、たえず勝者が現れて、そいつがすぐ次のステージを任せれて失敗しがち、ということの繰り返しのような気がする。
 理念は多分、そう心配しないで済む、万人に向けた、居心地の良い、だけど怠惰も困るからな・・と言う世の中が営まれるタイプの発想が底を貫いてそうだ。
 ところが、百獣の王系の動物たちを見ての通り、力任せの勝者は、生き物の世界においては、決して勝者であったことはない。そうありえない。動物たちが一番、痛烈にしているはずだけどそれを伝え続けるための世代の長さがごく短い。像とかはヒトに近いから、かなりを伝え合えていてもおかしくない。
 大抵は、青年期終盤くらいの年限(20-長くて30年程度)で世代交代が繰り返される。
 戦国の主だった人々であっても、家族すべてが短命ではなかったのだから(中には、そういう境遇もありえたろうけれど)、継承すべきことの手順については担い手を欠くことは無かった。
 力任せの勝ち組に任せるとそういうことが起こってしまう。
 代々の家業が・・・とかその手の試行錯誤から学んでの要素も無視できないかもしれないので、オルタナティヴという方で、発想変え、代案が必要だろうけれど、生活持続の内実が、ヒトの生き物性における、ヒトならではの制約と関わらせて、押さえておければ、次々と新商品に人々を誘い込むという形もその一つする今のノリの問題点くらいは、多くが理解し易くなりそうだ。
 老いとか、認知症のある側面とも関わるはずだけど、ヒトは、熟成しつづける。思考と身体操作力とが相まって、育ち続けるけれど、肉体的対応能が、各人のそれまでとの関わりも作用して、衰え始めてしまう。
 その過程でも脳は働き続けて、ヒトは、それまで直感という時間節約能の凄い技に思考をさしはさむ事すら、直感的にやってしまうことが介在し始める。
 若い時分なら、まず起こりえず、自らの能力が高いとか思えていた動作、考えと動作の俊敏な対応能力が、ひとによってそれぞれだろうが、ある年代になると、他人からは躓き(つまづき)のように受け取られる姿として、直感的動作でいいところを、ふとこれでよかったっけ・・・とか、考えが余計なお世話をしだすのだ。
 中には、自分は置いたのだから大事にしろとばかりに、そこらを演技として老いぶることを繰り返して、身近な他人たちが、親切心から”ぼけ”扱いし出して、通常の会話が、肝心の老いた側からできにくくしてしまうという、墓穴堀をやってしまうご老人諸氏もかなりおられるはずだ。ここらはぼけっぽく振舞うことの油断には要注意としておきたい。
 そういった後戻りの効かないもどきを演じてしまうワル知恵は、軽々しく使わないことだ。
 でも、動作の”躓き”は考えることの育ちゆえに、時々おこるようになり、しょっちゅうも起こるようになりそうだ。
 で、即、それを表現せず、貯めておけるなら、露見しないから、その場しのぎが可能になる。
 もどきだろうと、実際に困っていようと、ボケ対処とか下手に素人学習した諸氏が、老人めがけて、傾聴対応しだしたら、もう、相手のお年寄り諸氏にとっては、まともな会話ができない状態覚悟の事態に近い。あーらかわいそうに・・が底流を形成していて、いきなりいかったりすることはなくなったけれど、通常の喧嘩も生じかねないタイプの会話・対話の類からは遠ざかってしまい。そうなれば、洗脳操作と似て、老人諸氏は自ずから”狂って"くる。認知症へまっしぐらだ。通常の会話での意味作用外でのことばのやりとりとなっていることの帰結。
 けれども、ここらは啓蒙にも理解が行き届く近現代試行錯誤の後の世の中、だから、老人の年月を積み重ねると、思考すら、育ちすぎて、余計な経路まで背負い込みやすくするのだ、とお互い、各世代に通じる共通認識にできるようになれば、老いの動作の"躓き"へも、老人諸氏にとっての相手も、ちょっと一息で、即反応していきりたつようなことも別の脈絡で成り立つようにする。
 九九とか初等数学の関数展開の暗記とか、高等数学や物理の込み入った決まりについての暗記を直感的に使いこなして、余力を自在思考に使えることの魅力は、実は、直感的に使いこなせる暗記材料に拠っているとか、ヒトの思考余力の"馬鹿"さ加減を踏まえた知恵を先人諸氏は開拓してくれているわけだ。だから逆に、そこが制約となって、一世紀間に一度くらいしか大局を揺るがす大発見が出てこないとかの原因も想像できそうだ。
 一々について、ごく限られた原理を覚えて、そこらから必要な決まりごとをはじき出した上で、応用を始める、というようなことをしていたら、もう時間は足りな過ぎてしまう。
 勝敗で決着がつく競い合いを欠いても、やるやつらはやるで、結構な研究は各地点で膨大に繰り返されてしまう。ヒトはそういう面を持つ。でも、今、この世の中で、それが要るんだ、という何かしらの刺激を発見する動機に、競り合いの過程がなんらか役立ってきたと言い訳する諸氏がいるはずで、そこらは多分そうだ。しかし、先の通り、人々を、継承性よりは、繰り替えし換わる勝者に付き合わされるめまぐるしさに付き合わされる本末転倒状態に誘い易い。動物たちでも、力任せ系の男女役割分担の有様の単調さといったら、ヒトの芸術とかかわる決して飽きさせることのない継承と発見の発想育てとは対極的じゃなかろうか(ただし恐らく動物たちの方が効率的な生を為してそうだ。ヒトの思考ゆえの制約についてはなんどかふれてきた)。
 それまでの経験がある土地柄ではそうさせたのだろうけれど、弁証法発想は、いちいち敵をあぶりださせて、勝敗をつけさせて、勝った方に、次の展開を委ねようとさせてきた。そして・・ということをそろそろ振り返って、大幅に発想変えしてもいい頃だ。
 たとえば、列島は古代以来、生真面目に中国発想から委ねられた、中央集権化へ向けての試行錯誤を、表立った歴史記述では語られること少々だとしても、ずっと続けてきた。そして戦国末から江戸期にかけての紆余曲折も関わって、明治の勘違い後を試行錯誤してきたのだけど、本流は、素人老人観測からすると、忘却の彼方の初心、ということにはなっていない。巷の各地では、近現代が育てた諜報利害に基づく啓蒙発想の裏面での情報操作を列島各地にばらまかれて、歴史記述の先に指摘した特質が(オープンさをかなり欠く)、それを使いやすくもして、自分たちは元々の列島育ちで、渡来人はひどいことをしたとかの情報操作に簡単に乗せられたりする。なまじっか学習熱心でしかも考えることにも面倒くさがらない諸氏が多いから、考えて整理して、更に考えてのその先を用意できる材料不足は、自前の、偏見を生じさせやすくしてしまいがちだ。学習熱心諸氏は少数だから、余計に、悔しくもさせられやすい。悪循環とさせがちで、その先の学習材料の探索よりも、悪態をつくようなほうにエネルギーをつい注いでしまったりはないだろうか。実にもったいないことだ。
 列島の古代には、中央集権化以前を想定できる。
 すると、列島各地に、それぞれの(文字を使いこなす勢力はそれなりの、文字を使わない勢力もまた別の発想での)歴史を引きずった土地柄が集団の営みを育てていた。
 そこらを各地が探れれば、世界史記述の再発見につながる地表面各土地柄における入り組んだヒトの係わり合いの紐解きを地道にこなして、ヒトの試行錯誤もそれなりに同情しながら、さらなる可能性に賭ける気にさせるとか、なんとか、これまでの出版物を図書館に資料として保存させ、新たな出版熱だって生じさせかねないわけだ。
 (もちろん、今日的には電子系もたっぷり出てきそうだけど、紙の工夫も大事だろうな、とは素人的には思える)
 素人はたとえばの事例を持ち出しておきたい。
 東山道武蔵路のことは超有名で、各地において(だじゃれではなく)地道に発掘が続いているらしい。
 ざっと桐生・太田・熊谷・東松山・所沢・国立・府中のラインに沿っている。
 東山道の前後は、上野国府・新田駅・(上記府中)・足利駅下野国府だ。
 できればカシミールを使って、国土地理院の新地図のレベル12に標高データ(地理院10m)を重ねて、凸凹4倍くらいにして、"スーパー地形+"の色彩表現を使って、描写させて関東圏を見てもらいたい。
 すると(以下素人老人の勝手な空想に付き合ってください)現前橋辺りを主拠点に、出先の現高崎と見て、利根川の流れ、荒川の流れを押さえながら、土地の広がり方に注目してもらいたい。
 高崎から視野を邪魔するものが少ない古代列島の関東の地形を見渡す様をまず想像する。
 利根川北岸域、荒川南岸域は、山地が迫る地形だ。
 だから農業に長けた何度も波状にやってきた渡来の人々が(先住民問題については、繰り返しになるけれど松本氏の『つくられたエミシ』('18 同成社刊)に是非目をとおしておいたもらいたい。考古知見からの古代検証)、開拓して住みついて類は友を呼ぶで集住して規模を膨らませて、それなりの勢力圏を形成するくらいは、充分に起こりうる。
 武蔵圏が知られている北限だと、ちょっとわかりにくくなるのだけど、素人の空想からは、現埼玉県の森林公園とかで有名な地形のところの北側から熊谷にかけての荒川の北岸域は、大きめなボールを転がすと勝手に転がっていきそうななだらかな傾斜地なのだから(現地形上は、用水路が何本も流れて横切る形になるから、転がり続けることは難しい)、熊谷~桶川辺りくらいまでなら、連続農作地として、不思議ではない。
 寄居から北の美里、児玉、藤岡の辺りも川沿いの凸凹ありだけど、なだらかな丘陵地帯の面も伺える。
 児玉から本庄、そして利根川を渡ることにはなるけれど、伊勢崎へは、その昔なら、相当に視野的に開けて、抜群のドライブコースとなっていたのではないか。ドライブというよりは、群馬域で育った馬に乗ってのツーリングか。この線でいうなら、東松山から山地を抜けて熊谷から太田への道も、利根川渡りが苦にならないなら、それなりに見晴らしのよいツアーを楽しめたはずだ。
 数十年前は、そこらにかかる新し目の利根川を渡るいくつかの橋は混んでおらず、ツーリングは楽しめたのではないか。今はわからないけれど。
 この空想は、相当な広い土地について一応小さな中央集権も下、各地での自律が集団を支え合っていたことになる。
 でも中央集権化の試行錯誤と、その副作用が、列島に大混乱をまぎれこませて、(ある時期に形成されたとうだけのことだけど)元のようにはさせてくれなかった。
 渡来の人々には、地表面規模でのヒトつながりを持つ諸氏もおられて、絹貿易だけではないけれど、時代に必要に応じてそれなりのネットワーク形成に一役買ってきた。
 それを貯金と見るならば、列島の秘密にさせがちな歴史記述が、それをだた使い尽くすようにしか使えてこなかった反省材料として、今日この頃において、振り返れないか、とも老人ゆえ、想起する。
 山口博氏は、とにかく聖武の頃の列島の主だった人々の世界認識の広がりを振り返らそうとされる。こんなにも当時の人々は世界との付き合いを考えていたのでは、と。
 そこらを無知といってしまうとかえって奢りともなりかねないので、素人の読書知見程度しかわかっていない老人年齢からして、といいなおした上で、今時の情報の使える能を獲得して、可能性に賭けることを忘れてやしないか、とか、我が身を振り返らず、若者諸氏に問いかけたくもなるのだけど、とにかく一方で当面の勝者に任せる式で近現代をこなしてきた力自慢勢力と上手に付き合いながら、でも持続性へ向けたオルタナティヴ発想ということで多少は同じ土俵での対話、会話も成り立ちそうだから、とっかかりをうまくこなして、より刺激的だけど平穏で人々が大いに往来し合える世の中にしていきたいものだ。