連載は続く~SF掌編『補足のつもりがちょっと長めの眺め』編


 生き物・動物たちの寿命を、よく知られたペットとか家畜とか獣や虫の類から想像できれば自ずから気付けそうだ、ということの一つに、ヒトにとっての子供年代(一桁年代、せいぜい小六か中一くらいの年齢)を経て、生きていくうえで必要な多くを身に着けてしまうようなあり方。ヒトも多分、そこから大きくは外れていないはずだ。遅く育つ知見はヒトについて学問としても一般に流布されてきたとは思うけれど、ヒトの子も、状況に応じてたくましく育つし、それなりの育ち方に収れんしがちなあり方になる。
 だから長年月を工夫してきて、ヒト流を開拓できたことは、それなりに、これからもその線でと、思いたくもさせる。今はまだ、失敗も相当含ませるけれど、そのうちきっとなんとかなるさの観測を伴わせている。
 ということでは残余部分の方が余程長年月にしがちにするヒトの場合、亀とか像とか有名なののほかに、死なないタイプもいるらしいから、そこらは諸氏において追求されて知見を是非ネット発信していただければありがたいが、残余かもしれない長年月をヒトの感受性に無理を強いないように工夫して凄く位のことは必要のように想起できる。
 脳機能の開拓研究の一方で、集団が含ませる個々の各年代の同時期に居合わせた脳たちをいかに使いこなせるかという、集合の観点からの脳接近も可能かどうか。

 そういうお互い様の脳を持ち合っているヒトのごくごく一側面としてスケベ性は欠かせない。その順路を要してあることが成就するように生き物たち全般が出来ている。
 ということでは、介護とか医療の現場の無味乾燥さにうんざりしがちなたまたまそこに入居したり入院したりの女・男たちが、若い活発な連中についアンテナが向いてしまうのは、うるさいやつらの行いがちな一つ、と見れば、納得くらいはしやすい。
 それに、そういう事態なのだと受け止めることができるならば、スケベおやじとかみなさせれてひるむようでは、その先、ストレスで、目標のいくつかを犠牲にして、極端な短命をかこちやすい。
 その介護施設タイプでの事態ならば、しかもお年寄りが男で、介護担当が若い女、という場合、問題の在処(ありか)は、というと、時代劇、ドラマで印象深いかもしれないけれど、大いに稼いで賄賂もたっぷり使える豪商とか、たっぷり"カステイラ"の類が持ち込まれやすい大名とかその手の位にある諸氏が、お金とか権力にものを言わせて、嫌がるいいところの出の別嬪を口説くとか面倒なことをしないで"自由"にもてあそべる、というエピソード上の男たち、というイメージが一方に強く浮き出てきそうだ。でもそのもう一方には、少し前くらいまでのテレビドラマとかに登場してきそうな、人の好いお金持ちをたぶらかして、ヒモのだれかに貢ぐたいそうな若い女のイメージというのも、ふと置き忘れがちだけどシナリオライター諸氏は忘れずに、書き残してきた。
 つまり生々しくは、自由になるかものリアルな期待は持たないものの、うっすらと期待込みで若い介護担当氏と会話を楽しむ、偏屈で傲慢な老おやじと、その傲慢で偏屈な老人を自らの若さ(声の張りとか、肉体の新陳代謝の年齢的状態とか)の魅惑によって、かどわかすことが可能とリアルには思っていないけれど、少しくらいは、コントロール可能になるだろうと算段くらいはしている年若い介護担当が、今まさに、駆け引きを始めている。
 けれども、どちらにとっても、お互い様性の基本からして、相手の心身を流れ的であっても"合意"なしでその心身を自由にもてあそぶようなことにはならないし、若さの魅力が卓越しているからといって、その力量のみで老人のだれかを手玉にとれるとか思えるのは、逆に隠れた傲慢に近い。それぞれが思惑に納まっているだけなら、大した事にはならないけれど、なんらか琴線にふれて、どちらかともなく怒りを生じるような事態になれば、法治がものを言う場面も出てくる。それ以前、前提として、この時点での世の中にとっての法治の理念くらいは、下々の常識ではないとしても、ある場では、支えとなるようにして既存の条件だ。だから、他人の心身を自由にもてあそべるとか、年齢差の有利さを使って心身的詐欺の類をしちゃおうかな、なんていう程度かもしれないことでも、心のうちにおいて各人にとっては、それなりの倫理観が問われる事態と想起される。
 老人年代でも元気なうちは問題にならないことが、心身の不調を意識できるような状態のときには、それなりに響くようになる。目立つのは、誤嚥性肺炎や尿路感染の類で、ここらは介護施設でのビッグデータとして認識できる類だ。
 弱ってくると、下手な食事介助は致命的に危ない方に誘う。おむつも両性に悪影響し始める。だから元気なころに元気でなくなる時が何度も訪れる年代に無理なく心身動作の繰り返しが可能になるように習慣化しておくことは重要だ。
 豪勢な外食を習慣化して、食事形態が様々なためにパタン化した食事動作を身に着け損ねているといことが十分に起こりうる。
 シンプルな食事を日々繰り返して、動作に複雑な経路が不要で、見た目は器用、不器用が現れるような動作であっても、繰り返しの中で心身化できていれば、いつでも再現させやすい。ただ、年よりの癖から、あれ?どうやってたっけ?なんてことを考えてしまうと、動作の連鎖が中断されて、どの動作が出発点だったかなんたらかんたら・・ど、傍目からは、混乱して、なんとかしないとと心配させるような姿を呈させがちにする。
 尿路感染も同様に知らず知らず元気が衰えていくタイプで、発見は、慣れた諸氏が観察していれば心配のきっかけを見失ったりはしないけれど、そうでない場合、かなり症状として現れて回復にとって大変な状態のころに気付かれるようなことも起こる。おむつがというヒントをイメージしてもらって、勢いとか直線性とか辺りをイメージしてもらえれば、おむつは自分はしたくありませんとか本人の意思を明確にすることで、相当に危険回避はできる。親切心から色々面倒を見てくれるご近所さんがある施設の中に居た。昔の列島育ち諸氏は、付き合い方上手だ。だから表向き、失礼のないような様を採用する。で、認知症が進んで、持ち物を自室の中だけど探し回ったりして、乱雑にしてそうだ、となって、その親切な近所のご老人にちょっとした工夫を依頼して、物を移動する。すると認知症が進んでいると見做されているご本人は、親しくしてはいるけれど、色々構いすぎてうるさく感じる。それだけではなく、物をこっそり自分の部屋まで持って行ってしまっているみたいだ、と、リアルな観察をことばにする。そういうご本人の言葉抜きなら複雑化した事態と見做しかねないことも、思込み先行で介護スタッフが介在するとやってしまうことだって起こりうる。
 経験を積んで引き出したっぷりでしかも実際的時間内にそれらをてきぱきと出してくれる介護ベテラン諸氏にめぐまれれば、上記への心配の多くは回避される。
 どこまでならやってもらいたいが、それ以上のことは自分でこなしたい、というのが、自律的生活を営んできた老人諸氏の基本的な考え方だろうし、他人でも息の合っただれかとたまたま遭遇出来て、介護を任せることができたとしても、距離感は要る。
 未解決の老人をめぐる問題の要所の一つだ。
 ちょっとしたことで体調を崩しやすくなっても、回復しやすい習慣を身に着けているならば、即元気を取り戻して、いつもの生活を続けられる。
 個々の意思が通りやすい生活を続けている諸氏なら問題は少ないが、施設に入居となると、どこまで老人本人の生活習慣を踏まえた生活の延長策を採用してくれるか分かったものではないのが、痛いところだ。
 希望的には、介護保険法は、介護施設を収容施設にはしていない。だから、上記のようなことを素人が指摘できる。
 そこを可能性にして、これからの諸氏がことばにできるようにしておけば、相互作用で、改良しつつの中での施設運営が可能になる。

 下々にとっては、そういった事々になにかと時間を費やされる。
 でも大局を担う人々は、かつての唐の高宗(+武則天)氏のように、ある範囲に関してのまとめ役の重責は自分が担うということをいわずもがなの事柄にしておいて、各国が自らの継承性を将来に向けても育て続けられることが大事だと、百済の首脳を許すその許し方を参考にできる。
 帝国的大国は太っ腹だった。
 現USはどうか、一面、弱小の僻地の国々に民主主義経を(映画で紹介されていたような)かつてのイエズス会の修道士の熱心さそのままに、根付かせる試行錯誤を確かに繰り返している。
 支払い手段は大事な事象だ。決済とかの仕組みを長い年月育て、信頼の度合いを図ってきた。
 その土地柄の実力に応じて支払い手段を保有できていれば、めぐりめぐってのサイクルは円滑さを失うことなく、人々の諸活動を支えうる。
 たとえば生産能力分の支払い手段を持っているならば、それがその支払い手段のその土地柄に通用する通貨なりに物やサービスの往来に並行して動く。電子的データとしての動きでも同様。ただ問題も生じる。作りすぎるほど作れてしまう食料をだれが買ってくれるか。そういうことは起こりうる。
 実力の使い道に錯誤が生じている現象として即修正にかかるか、それとも余剰を売って、他所で儲けようとなるか。
 ここらが国民国家の経済圏のとらえ方と遠隔地貿易一家の経済圏のとらえ方の違いを生じさせると素人的にはここでの理念的な話の上では持ち出せそうだ。
 つまり、一方で、双方の発想を混同すると、世界貿易にとって迷惑な事象を生じさせやすくもするし、同時に逆に制御することの根拠を得たように感じさせる。
 一方の遠隔地貿易発発想からはたとえば取引上のレートの差異にうまこと乗って、トンでも収益に結びつけることも可能になる。そして我が家の支出になんらか影響を与える。
 国民国家経済圏では、貿易は各国間である理念的期間においては均されてお互い様で落ち着いて、お互いの過不足を補い合えていることが希求され続ける。
 一方的にどこかしらがごそっと持ち出しで、勝ち逃げすると、グローバル事象として不都合を生じさせやすい。
 昔から富の偏りについての叡智として、たとえ狭い経済圏内でのことであっても、ポトラッチなど大盤振る舞いを巧みの一つにしてきた。そうやって、気持ちの上でも、下々が得したかも感を得られるようなカーニバル的な出来事を介在させつつ、局所に滞りがちな支払い手段に通じるなんらかを流れの中に戻す。
 今どきは、20世後半的特徴を引き受けて、USドルの膨大量をどこかしらが滞留させつつ、流れにも載せていくようなやり方でなんとか安心安全な経済圏をやりくりしようと試行錯誤してきている。
 だから未だにことばにはしてくれないのだけど、ヨーロッパはその資金量保有の秘密のなんらかが働いて、EUの中央集権化の現代版試行錯誤さえ、遠慮がちにしか行使できないでいるみたいだ。
 もちろん、個人とか一家とか一族のところに富が集中しすぎて、のトンでも事態ももう一方のいくつか目として注目を外すわけにはいかない。在り様では、世界経済の混乱の元ともなりかねない。小国の予算規模暮らすの巨富が人口比ではコンマ%はいらっしゃる世の中だそうだから、他人の労力をどういう風に使ってしまうかで弱小諸国はトンでもに巻き込まれないとも限らないのが今どきのリアルな一面に違いない。
 そういうことを広瀬本を読んできた素人老人年代からは、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけで、多くは、民主主義経にもなりかねないけれど信念の持ちぬ諸氏の試行することだから、と極端な理念先行の暴挙は起こりえないと踏んでいる。
 ただ、ケインズ氏の注意に耳を傾けずに、有効需要ということにも無頓着だし、回収することにも無頓着な自称経済通諸氏が、つい目立ちたがって経済の本流をかき回す流行が続いてきたので、多くの副作用を積み重ねていることへの、対処が相当に重層的な負荷ゆえに、どう解決させるつもりなのか、心配して見せる程度は素人老人ゆえ、できる。
 帝国的にふるまうべき超大国が太っ腹よりは理念押し売り系の隠密を酷使してきた可能性大のツケがありそうな辺り。
 だから素人老人からする願(ねが)わくは、左右中の弁証法の対立軸ではなくして、本論をめぐるオルタナティヴをかつてのいくつかの大国やこれからのいくつかの大国が持ち出して、可能性にかけるようなことに持って行ってもらいたくなる。
 気象変動にすら翻弄されがちなのに、気候スケールでの変動を読めずに、その最中(さなか)に突入しようものなら、現数十億のグローバル環境が翻弄されてしまう。
 軍事のエネルギー力は使い道に(超大規模な土木系工事とかに)代用がありうることも想起しながらヨーロッパ全域、北米の大半がヒトには住めない土地に徐々に移行していくことへの対処を、ヒトの移動が、たとえばつい最近のトレーラー虐殺事件とかを思えば、ヒトの無力を見るのは実に簡単で、そこを叡智において、なんとか試行錯誤するのがヒトの観念系だ。諜報利害が放置してしまった暴力系の弱小諸国での跋扈は、超大国が一番の責任だ、とマスメディアではいまのところ言葉にされないことも、広瀬本を読んできた素人老人なら、ささやける(広瀬本の急所は、その関わった知見諸氏が、海外のとりわけ欧米の主流では常識のその知見が(なにしろその本流中の本体自体が出版して欧州・USで一般向けの出版すらこなしている)なぜか列島ではまったく知らされない状態になっていることに危惧されて、或る意味、近現代史研究の底流へ、画期的な刺激を与えている。陰謀論とかのレッテルを張られたくないメインストリームの研究者であっても、そこで指摘されている歴史事件と関係者を知らないとは言えないくらいに、列島の人々が海外出版の一面に通じるきっかけを提供していたわけだ)。
 有り余る小麦の消費地に諸外国を使う、ということのせこさの帰結を今どきに見ることができている。イギリスの綿工業がインドのそれを潰えさせたことは有名すぎるエピソードだ。生産効率の差だとか、色々理屈はつけられるだろうけれど、過程への加担次第では、どうにでもすることができるのが経済活動だ。
 そしてサイエンス・産業社会(雇用のあり方を含む)が何かしら人々の生活に貢献したように見えるのは極端に短気の成果として見るからで、そこでの水ほか貴重資源の浪費や、大量消費の不可欠性など、膨大な浪費を伴わせないとやっていけない仕組みであることが今では鮮明だ。
 粗放だし、のんびりしているし、なのになぜか人々が活き活きしているとかのオルタナティヴを描けるような生活体験をしてこられた世代は未だおおぜいグローバルにはいらっしゃるはずだ。イギリスの元貴族のご婦人だって、そういうタイプと見做せそうだ。
 ただし、そこにも改良のきっかけをわざとみなようにすることは失礼に当たる。どこでもどの時代でも完成品はない。不完全で、わだかまりも生じさせてきた。
 US風の手の内がバレバレなるほど、それってヒトの生理にちょっと無茶を強いてるんじゃないの?くらいの疑念はその真っ只中の青年層にも感じられ始めてそうに思える。
 感じないで済むように魅力的なイヴェントに次から次へと誘いこんで、暇な時間を与えない。観念的に暇なことを悔やむような仕向け方を採用している。
 目標を持ってやりたいことが出来ただれかたちにとっての貧乏暇なし状態とはわけが違う。
 そこらも既に汲み取られていて、一方に多少の支払い手段大量保有層をこしらえて、一見ゆとりの生活維持上は大量エネルギー・資源消費型に誘ってしまう。そこから抜けにくくしてしまう。心理誘導の学の褒められない応用をずっと使いこなしてきている。裏の流れ。
 そうやって、民主主義っぽいなにかしらを発信しておいて、先のグローバルな諜報活動、闇の作業(民主主義経の普及)にまい進してきている。ここらも素人のことばを真に受けすぎず、表裏の或る当たりとして受け止めておいていただきたい。ある土地柄では、困ったこともあったけれど助けられたという大勢を生じたかもしれないし、多くの土地柄では、それまでも集団の営みに活かせた伝統とも絡む叡智をかき回されて、実質は夢想でしか成しえない民主主義のどこを採用したらいいのかと惑わされてしまう。
 ネットのどこかで列島版仏教は建前を教条化させる圧が少ないから精神衛生上は良いとか紹介されていた。
 それかどうか、列島での法治は、その難しさを踏まえつつ、民主主義というよりは、法を行使する際の、だれもにとって正義とか平等とかの観念に極端に反することのないような営みを明治を忘却できるきっかけを得た20世紀半ば以後は試行してきているように伺える。それでも明治の勘違いを招くタイプがその職に付かないとも限らないから、注意は怠れない。江戸期は犬を大切にの暴走だったのか、殺し合いや、殉死を極力避けるようにした主流諸氏の叡智が再び育ち始めた時期なのかなど検討くらいはできる。日常を支える倫理観といことではドキッとするくらい江戸期の江戸域は緩かった。地方でも田舎の粋がったタイプたちがなぜか切腹したがったという特徴的なエピソードも残されている。
 そのどのタイプが明治の動乱を(誘われて)誘い、生真面目層をいたぶったかくらいは、反省出来ておいた方が、(心理操作学を相当に育てて世論・集合誘導に長けた人脈に誘導されない耐性(不満・愚痴の類をつい放言してしまうタイプ)を育てあって)将来のためにはなりそうだ(そこで更に心理操作術を巧みにしてと出るか、そこらはオープンにして、こうい鵜操作術があるから注意してねと出てくれるかで世の中の出来方は相当にちがってくる)。
 つまり、帝国的大国の営みは寿命を持つということだ。ポトラッチほどではないにしても、持ち出し覚悟で、人々の営みを円満に支える力量(時に軍事的に出てネオナチのようなのを叩くとか、警察的に弱いのを見つけてはいたぶる不良たちの実際の行いを『所轄刑事』の不良タイプで生活安全課担当氏のように観察眼によって未然にしておける、そしてやがては心身の成長が大半を不良グループ依存から離れさせる)が要る。そのための配置は映画が知らしめるUSの辛苦の様から自ずと察せられる。だから帝国的大国として依拠する相手がたまたま20世紀後半期はUSだった列島政府事情からして、お隣中国の跋扈は困る事象に映るけれど、立場に変化があるなら、そこまで出費をして海域を守る気になってくれているなら任せてもいいっかな、と心変わりするのが自然の成り行きと見ることも可能。
 そこでもかつての遠隔地貿易系と政治哲学部門が総合してなった唐のグローバルなあり方を支えていた政権のような、各地の政府の独立性と自律性に任せてそこでの負担は負わないし、貢いでくれたら、更にお返しはたっぷりだよ、ただし、円満なグローバル展開の支え手になっていてくれよな、的な発想を現習近平氏とそれを支える知見諸氏が共有できているタイプたちかどうかは、勉強不足のため、素人で年よりなんだけどわかっていない。