連載は続く~SF掌編『福田氏に依る春日局』編


 福田千鶴著『春日局』('17 ミネルヴァ書房) p214 から

 春日局、辞世の歌二首

 けふまでハ かわくまもなく うらみわひ
  何しにまよふ あけほのゝそら
[漢字かな交じり]
 今日迄は 乾く間もなく 恨み侘び
  何しに迷う 曙(あけぼの)の空

〇何しに:なんのために、どうして、(反語的に)どうして
〇恨み侘び:恨みつづける気力もなくなる
・・・『岩波古語辞典』('74)
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にしニ入 月おいさない のりをゑて
  けふはくわたくおのかれぬるかな
[漢字かな交じり]
西に入る 月を誘い 法師を得て
  今日は火宅を逃れぬるかな


●今昔物語十三の三
くゎたく(火宅):欲界・色界・無色界の迷いの世界を、燃えつつある家にたとえた語
"我、長くくゎたくを離れて人間に来たらずといへども"
東大寺要録(天平勝宝四年)
 "のりのもと花咲きにたり今日よりは仏のみのり栄え給はむ"
・・・『岩波古語辞典』('74)

 いつかは死ぬをわかっていても、そのいつを今ほどには切実に受け止めていなかった日々としての今日まで。
 そして自らのこととして死を自覚している今日という日。
 そのそれぞれを歌にして並列効果を死の間際において"あそんで"いる。

 福田氏については、先日、NHKBSにて放送された綱吉エピソードの番組で知ったばかりで、この番組の立ち上げにも関わったと自称されている学者氏とともに、江戸期の一時期の詳細と関わる一端を指摘するようにことばを選んでおられて印象づけられた。
 もうお一人の学者氏はどちらかというと儒教系からの読み解きをこの番組では担うように登場されており、素人関心からは、人選間違いの感を持った。
 ここらは何度か指摘しているのですが、仏教系、それも藤原氏脈のなんらかが作用したそれとの絡みで、江戸期の趨勢と関わらせて語りうる人物と綱吉氏およびその頃を見ているので。
 進行役の学者氏は"綱吉"把握における開き始めた扉の数々という可能性をちらつかせることばを沢山発しておられたので、そのうち読み物的な専門家著作を読めるようになるのかどうか。
 一方の福田氏についてはネットにて、『奥向研究の現状と課題』から問題関心の幅を読める感じだ。
 素人読者的には、早速、図書館を利用していくつか目を通すことができた。
 或る種特定方向へのおさめ方を匂わせつつ、可能性のその先を閉じようとしない関心の持ちようくらいは、素人老人的には受け止められた。
 できれば、先の学者氏同様、綱吉の時代とその前後の数十年間のどよめきを一般読者も含めて専門知識をどっと持ち込んだ時代読みとして提供してもらいたい気がする。
 今どきのどよめきを追う"老人の視線"的には、イデオロギー系のことばをわんさか動員して今はとかかつてはとかでラベルを張ってわかった気にさせて今のあり様の合理性と可能性の辺りを納得させようとしている風について、660年画期の頃の、高宗氏や武則天氏らがことばにしたその当時の超大国ゆえの構えをあらわすことばたちと比べて、今がどれほどその後の試行錯誤を育ちとして経てきたのかちょっとぐらつく感じがする。
 各地の独自性や自発性の継承や育ちはかけがえのないヒトならではの営みだ。
 並行して、そこには他の視点からして過不足が当然把握されてしまう。
 それぞれが補い合い、補正し合い、次のステージを用意して、その上での試行錯誤を可能にできるかどうかという落ち着かせ方はとても大事なことのように思えている。
 戦争戦争で荒れていると、人心は自ずから同じように荒れがちにする。
 粗雑に流れる。指導層はそこらをいち早く感じ取って、軌道修正を図るかもしれないが、そんなことをずっと同じように繰り返していていいものだろうか。
 列島版の未完で進行形でもある中央集権化試行錯誤は、そこらへかなりのヒントを提供し続けているように素人老人的には思える。
 たまたま列島では波としてやってくる渡来系集団の営みが各地で育った。
 だから放置しておいてもそれはそれで自力で集団の営みの歴史を積み重ねることくらいは可能だったはずだ。
 でも、集団がまとまっていたとしても、思惑の様々の内側が同様に寛容に我慢強くとはならない。軋みを生じさせやすい。ないし、そういう歴史を一方に記憶として持つ大陸系、半島系の渡来民諸集団の中で、たまたたま倭国として大国から認知してもらえていると押さえることが可能になった人脈においては、今でいう藤原京近くに集住するようになって以後も倭国だからこそ半島系の小国たちとの独特な付き合い方が可能な辺り、列島においてはそれら渡来系が共存できてしまう不思議を可能にしていた。
 ところが660年の出来事が起きて、百済系の中に大きく二つの脈を生じさせた。
 列島の倭国を担う人脈の主流がなんと!?和睦を達成した脈とは別行動を取り後には内部分裂まで生じる残党の脈に加担して多くの犠牲を払う。
 対外的な大失敗だった。
 けれども大勢は、大国と和睦した主脈が生き残り、超大国の理念の通りに自発的に平穏に国を営むことを推奨された。
 その流れに乗って、列島は様変わりするきっかけとできた。
 半島でのように日々争うようなことのないようにまとまりを形成する試行錯誤に出た。
 大負けした百済倭国と名乗り続けるわけにはいかなくなったけれど、当面はそのままで倭国やの引き上げ兵隊たちを統率して、大土木工事を可能にした。
 プランの先には、各地に役所を設け、お寺も建てる。
 もともと自律的集団経営を可能にしていた列島各地だったから、まとまり形成の困難をいかに進めうるかが問題の急所になりうる。
 端折りに端折って、藤原氏プランの仏教理解の列島版を元に、争いごとを可能な限り回避しての国の経営を目指される。
 そこに藤原氏プランを叩き込んだ女性たちが大活躍する。それは江戸期まで、ひょっとしたら今日まで延々と試行錯誤されてきたかもしれないと素人からは想像しやすい。
 そして奥義を共有できた新規天皇を担った元呪術系でずっとやってきていた九州脈の指導層だからこそのノウハウを活かして、まとめ役を引き受けてきた。
 この両脈を持ち上げすぎることは多分失礼に当たる。しっかり明晰に計画的な作為に基づく事業だ。それに列島ではたまたま各地に集団の営みが育っていた。実に幸運だった。
 それらを平和裏にまとめておければ大成功だった。
 ところが古代列島では文字以前の諸地域を多く含み、地名が文字地名として落ちつきを持つことすら試練を伴わせたはずだ。
 そのためにかどうか、今どきの中央官僚層と同様に、生まれ故郷を超越した渡り歩きのような人員配置が古代からずっと試行錯誤されている。
 収入源、という性格もあるだろうが、他の性質も見逃せない。
 素人老人的には列島の実相のなんらかが今日においてより鮮明になったとしても不都合であるよりは、可能性を開けると察する。
 というのは若者たちのやる気に関わらせうるからだ。
 故郷を持ち、幼年期やその後の十年くらいをいっしょに過ごせた仲間たち、同世代経験は多層世代との濃い付き合いも伴わせるから、自ずからやる気に誘える(当然大人たちの付き合い方次第と関わる)。
 いきなりグローバルに活躍する人材とか言っても、映画が教えるように、むしろ危ない利害関係に巻き込まれやすくして、人格を壊す方へ誘われやすくする。ないし危ない人脈の手先と知らず知らず誘われがちにする。他人の大儲けのために、小金持ちにさせられるタイプ。
 戦時感覚で性別役割分担を明確化する強力な動機付けが働きやすいようにしておけば、余計なお世話の性役割分担論がまかり通りやすい。
 グローバルになんらか試行錯誤をはじめたいならば、平穏持続の条件付けも重要な一要素としうる。
 ただしヒトの営みのことだから、ワンパタンな持続は飽きへと簡単に誘われてしまう。考えることにおいても停滞させやすい。そこらを混乱ではない誘いかけを工夫し合えて、しかも放っておけばヒトの営みは軋みだらけで、コツコツ技を蓄えて新知見へと、などというのは埒外ともとられかねない。だからそこらはこれまでを踏まえて、工夫し続けることも求められる。
 教義というか、生活習慣というか、その含むそれぞれ性のどこらまでをお互い様で流しあえるかどうか、その包容力ということも、列島が試行してきた列島版仏教の"ほどよい"加減さタイプの締め付け要素性質は、多分、今どきの各国、各土地柄において参考にできそうだ。
 たとえば、財産を贈与とか工夫して、相続対策を済ませ、残った資産を自分たち一代で使いつくして差し支えない状態にできたグローバルなリッチ層の中で、宗教的縛りのゆるい土地柄で晩年の長期間を過ごしたいと思うなら、今どきの列島はうってつけだ。
 事前に住む土地柄の性質くらいは調べておく必要がありそうだけど、今どきは田舎でも個々の生活を尊重し合う風に傾いている。
 たとえ山奥でも列島サイズでのことだから車か空の便で人、物の往来は容易だ。
 台風・地震・洪水・地すべり・噴火(・竜巻)への備え方に熟知しておくことも老人生活には欠かせない。
 今どきの家電ほかの生活器具類は、完璧ではないけれど認知症老人でも安全に使いこなせる方向性をめざされているから、それなりに老人のみ生活でも列島生活を保ちやすい。
 ここらが肝心なのだけど、ある程度の支払い可能な人々に限ってなら、列島介護の世界も人が必要分採用されて面倒を見てもらえる、或る種のゆとりと環境が整っていれば列島の場合それなりの熟練が育つ可能性大。
 今どきのグローバル環境は地球統一国家の中心と各土地柄での自律的集団の営み群というあり様ではまったくない。
 各地の営みがあって、その中で選抜的にどこかしらがその大変な役割を担う格好だ。
 だから無理は言えないだろうな、と素人でも想像くらいはつくし、一方に、お互い様感を忘れてほしくない要素も持ち出せる。
 他集団が散らばって躍動しているという状態を想定できる場合、ある小集団におけるリーダーをことばは悪いけれど、ヨイショくらいは工夫の一つとして初期の段階では使いこなすと察する。
 どこまでやってくれるか他の構成員が協力しつつ見守る。
 経験不足の面が少しずつ各所で露見するようになる。
 でも皆我慢して見守る。そこをどう修正するかの辺りへの関心が働く。
 修正の仕方が下手だったり、修正すらできなかったり、間違っていることに気付いているのかどうかさえ不明な対応が続くような頃、個人的に近づきやすいだれかが、ささやきとして注意を促す。ヒント発信する。
 それでも修正の兆しが見えない。それが続く。
 関係者以外の視線にさらされている環境は避けて、問題を表立って事が起きたときに指摘するようなことが起こり始める。
 それでも問題の大事なところを気付こうとしないまま、問題の"伝染"が始まっている。
 たとえば別室、会議室、事務所などを選んで、強めに注意を促すような段階になる。
 受け止めるリーダーは既にストレスをためている状態なので、注意の内容が届くはずの強さを逆にストレス源の方でとらえがちにして、注意する相手の問題行動(リーダーへの反抗)のように見做してしまう。そういう問題として事業所の上層へ話が伝わりやすくなる。
 現場に無知な事業所上層のような仕立てだと、問題ははぐらかされて、他のだれかの問題行動として処理されやすくしてしまう。
 そういう現代的問題群も膨大な日常の中に埋まっている。
 大きな重層的組織ほど、果敢に潜入的監査のような手法が欠かせない残念な時期の一面も老人的には指摘できそうだ。
 グローバルには、使わないことで大中小暴力への威力として機能する核兵器という独自性を20世紀に発見できた現生人類は、限定的に持たせることに成功したことの半面として、その持つ諸国が弱小化して維持に苦労しかねない時にどう対応できる??という深刻な問題を抱え込ませた。
 現超大国と現(資源的にも)大国の旧冷戦の主だった面々が、やがて経済的な営みにおいて不利な立場に陥るかもという趨勢が見えたとき、使わないからこそ使えてしまう核兵器という戦争抑止装置の置き方問題浮上にどう対応できるのだろう。
 今どきの原発装置の危険性は事故で証明されている。だから核兵器反対運動も貴重だけど、その一方で実際的などよめきとして、使わないままにメンテナンスは欠かせない限定的核兵器の持ち合いの状態維持がいかに可能かについてのこれからの俊英諸氏の思索も重要と察する。理念的試行錯誤と実際的装置性に関わる思索は欠かせそうにない。

 そして列島版中央集権化試行錯誤は今になって、過疎問題を抱えてしまった。
 超大国主導のグローバルな営みの副作用の可能性大だ。
 まとまり感の手法にアイデアがドンつまりな場合、他の構成諸国においては、いつでも混乱の種が渦巻いていてくれた方が営みやすい。自国でさえ国内的には混乱の種作用を応用させがちにしているほど手詰まり状況なのではと心配させられる。
 でも列島を見てもらいたい。極端な民主主義的発想で、国を大事にするのが一番と息まくタイプは明治のお土産程度になりつつあるけれど(戦前の列島はむしろ江戸の記憶世代が相当に貴重な知見を残してくれたということでこれからも記憶されつづるはずだ。ただし切腹したがり屋的自己主張タイプとか陽明学系のおっちょこちょいタイプも含まれるから注意は要る)、戦国の混乱にもめげずにというか戦争する人々が密かに工夫し合ってとしか思えないが、ずっと住み続ける人々を絶滅するようなことはせずに、なんとか、中央官僚層タイプや、なんらかの機縁で移り住んできた集団や、地元でも動いた人々とずっと地元の人々が混成して、工夫して、今どきの自治体運営をこなしている。
 地元の慣れが、プライバシーということで発想される個々の情報の扱い上の繊細な要素をお手軽にしていたのを、いつのまにか気付かせるようにして、多面的に個々を尊重し合う試行錯誤くらいはこなせるようにしている。
 元々が中央においてすら影の実力者だった女性たちが、欧米化の中のごく一面を切り取って、"女性"を貶めたりしてきたけれど、今では、グローバルに、そこらに気付いて、女性だって一流でやってきたことに気付くようになって、春日局氏じゃないが、現役時代は火宅の人を強靭に滑らかに生きつくすわけだ。
 欧米系だと分裂させる夢判断を流行させたから、その回復には時間がかかりそうだ。