連載は続く~SF掌編『広瀬本年寄り系読者がSuiスイFuらふら』編


 できることならば推古の頃から道鏡騒動の頃までの考古知見が整理されてくれているとありがたいわけだ。
 たとえば、(九州王朝("王様"がいたかどうかハッキリしないという意味から、ないし共和制志向の側が想定する確固とした形だったのかハッキリしないという意味から)と王朝概念を安易に持ち出すことには慎重になりつつも九州の地の倭国以来の権威筋を素人が追う上では九州王朝説の諸氏の知見に接せられることは貴重だという意味合いから)九州の北部域での寺院建築に関する各地元考古系の掘っている実力はどのあたりまで(時代特定など)追跡可能になっているのだろう、と期待とわからない加減が混ざった感じを持ち続けるようなことにしがちなのが実情。
 そこらは、関東域での古墳についての時代特定は措いて、とにかく活発な居住や移住やの動きがたまたま見られる地域ということから、居住の跡や寺建築の跡などがかなり緻密に時代特定とともに進行形の状態らしいことを出版物から知ることができる現状ゆえ、九州でもどうなっているかなど、ネットから探ろうとしている素人老人からは、いまいち探りにくい感を持っているあたりを指摘できる。
 確かに米田氏ほかの仮説提供はあるのだけど、その確度を押さえるための掘ることが九州現地でどれほど為されているのかがわかりにくい辺り。
 つい先日も昔放送されたNHKの番組(よみがえる新日本紀行)の4K再生版を見ることができ、薬師寺の作り直しに取り掛かる以前の三重塔の事業を知ることができた。そこでも少し若い西岡常一氏が棟梁として関わっており、おじいさんの頃からの継承も紹介されていて、父親の代の時に、今作業されている三重塔の(建築資材集めとか)再建準備は始められ整えられていたような話にもふれていた。
 中で、鬼瓦のデザインを九州の古い建築から採用して、というエピソードまで登場。
 再現の作業に九州が参考にされている辺りが、なにげに興味を誘う。
 九州王朝説諸氏においても難波副都説とか一定の権限の移譲とともにの活動域の集団的移動を想定するような考えを柔軟にされているので、既知の660年の画期(平凡社刊の東アジア民族史2(ネットでも入手し易い))での当時の半島各国での出来事記述を知ることで、中国との関係も鮮明にできるし、日本書紀のまったくふれない時の流れとしての密接な交流を持ってきた各国の同時代史の中で列島の一面を押さえることも可能になる。
 そこらを押さえておけば、各国のだれそれと関わらせた強引な論についても、自らが判断可能にして、当時を振り返りやすくする。
 ただ高志書院とかの出版物で簡単に読めるようになっているのだけど、関東でも当時の超有名な人物肖奈福信氏と絡めて高麗郷と関わらせた、ないし貴田氏の著作で有名な仏像エピソードとも関連付けられそうな、国分寺が建てられていく時期の諸相とも関わらせられるような考古掘削作業が結構地道に継続的に整理されながら進行中であることを先の出版物から知ることができる。
 エミシ知見もそういった考古系の最近の作業の積み重ねによる知見提供に当たる。
 とにかくその昔の仏教伝来の幅のあるころについては、渡来系の出自の地こそが、文字や文字をしたためたなんらかの財が作られていた。
 それをなんらか術中にした人脈諸氏ならば、渡来後もきっと扱い続けたはずだし、文字と関わらないで生活が成り立つ渡来系の諸氏においてはそれはそれで、技術系を育てることは可能だったはずだから、周囲からは重宝されたと想像できる。
 土佐日記紀貫之氏との絡みで、ある範囲内の人々が文字を術中にしえた生活が成り立っていたとして、しかし、今読める古典と古文献の文字の群れに接せられる範囲で、その読みづらさ、しゃべり言葉としてならこなれていなくて、わかりにくいとか、濁点なしの文字の羅列とか、江戸期においても、文字を使いこなしつつ、共有財産のようには使いこなしていなかった質の辺りは隠しようがない。
 そこらを踏まえた、古代の再現の難しさを学究諸氏ならばこなさないことには事態記述すら難しくなるだろうから、なんとかこなしてもらいたい。素人は本当に素人なわけで、諸文献とか一次資料に接しやすい境遇諸氏ならではの接近が求められる。
 列島(各地。そして世代間の現象として、簡単に別のことば系も育ちやすい性質を踏まえることも欠かせない。たとえば方言のあり方の条件次第の変遷とか、語彙として記紀とかに影響されずにずっと継承してきた意味系がありえたとか、そうはいかなかったとか)では、どう発音が文字として落ち着いていったのか、その特定領域での整理、というのではなくて、列島(各地で)のある程度の活発な部分での落ち着き方として描いていただければ、それなりの時代相が浮き出てきそうだ。
 しかも各地に活発な半島・大陸各地からの渡来系の人々とが波状にやってきて住みついて共同性も発揮し合っていた。広域な交流をこなしていた。
 関東知見では、鉄や古墳と関わる石材の流通とかの考古知見が紹介されている。
 そして高麗郷でいうなら、高句麗ということになるけれど、やがて或る時、中国でも宋と元が南北を構成していた頃、列島住民との間で事件を生じさせているが、高句麗ネットワークが機能しないはずがない!と素人は少しだけ若いころに教科書的知識を越えない程度の知識の中で、勝手に想像したものだったが、広瀬本の自分流読みの流れの中での気付きだった。
 列島内では上手に諸地域の人々が共存できているのに、なぜか半島ではケンカっぽくふるまうし、現に国境すら作るようなことになっている。近代のルールの中で、国境となると、それなりの手続きを伴わせる。
 もちろん原因は明解で、超超大国のUSが冷戦仕掛けを持ち込んで、一応の落ち着かせ策としてきたからだ。(ナッシュ均衡の条件に見合った均衡の状態で落ち着いてくれるかもしれないし、ざわざわさせるかもしれないし、とにかく、真実の思惑はどうでもよくて、一応表向きの役割分担として敵味方関係でのライバルとして設定てくれさえすれば、大国は安心できる(こういった一方の大国発想タイプと唐の高宗氏や武則天氏のころの大国発想の違いを質的につい比較させたくしてしまう。練度(こなれているかどうか的)とかも想起される。戦争戦争で人類史を繰り返していると観念系の進化は望みにくくなのだろうか?))
 完成品ではないグローバルな仕組みの苦労を無視して、USだけを責めるわけにはいかないにしろ、半島の人々にとってはいい迷惑だと思える(弁証法役割分担発想の副産物)。
 核を限定的に持ち合うことの平和策だったのが、走りすぎていたシオニズムの余波が例外を生み、それを隠すためにか、他国にも持たせる動きとなって、今はやや落ち着いているものの、限定的にその内部で緻密に使わない工作が為されて初めて成立する戦争をできるだけ極限化しておいて、平和状態を保つ模索は、騒がしい事態も込みで、突発的なイレギュラーを制御するようなこともこなす。
 それだけに依存するようだと厳しすぎて疲れてしまうはずだから、その他の要素も副次的に機能させて、気持ちだけでも、そちらに傾けるようなやり方が採用されている。
 USに限らないとは思うけれど、たとえば映画でも紹介されているナッシュ均衡(お任せシステム運転の大儀に使える発想源。素人が対比的に出せるヒントとしては、ヒトは毎日が更新の機会を要する的なことを指摘しやすい。たった数分間の極端なストレス負荷によるそれ以後の人生丸つぶれのようなこともヒトの生身は生じさせる。介護知見からだとイレウス原因から出るものが出てくれず、それがたとえばおならだったとして、それが出したいのに出なくて七転八倒の苦しみへ直結してしまう。喜び系も逆にたわいないことで元気につながるとか色々指摘可能だけど、大変な方も忘れない方がいい)とか、市場原理主義的にお任せで、勝ったら、そいつが一時占めるけれど、直ぐに、他のだれかがその争点での勝者を目指してという参入の自由度を、法治的行動範囲の中で可能にする仕組みを一応民主主義という風に見做して、核の限定的持ち合いの厳しさを隠す、イデオロギー対立の構図をも援用するように使いこなしているのが実情のようだ。
 列島の若者たちは、かつては広瀬本を出す必要を感じた多くの人々の問題意識(欧米では既知のことが列島では知れらずに歴史をなぞっていた事情)をクリアできるくらいの列島出版事情を踏まえて出発できるのだけど、それでも、欧米流が育てた黒子役を担うグローバルな組織での異常な位に厳しい面を広瀬本読みの素人の足りなすぎるけれど、ひょっとしたら少しくらいは参考にしてもらえそうな想像の辺りをちらっと、読み流してもらえるならありがたい。
 ただもう少し、市場原理主義的な発想を支えている辺りにふれないと、構造のところがわかりにくそうだ。
 USのテレビドラマを見ている限りでは、市場原理主義なんてくそくらえ位の馬力のあるやりて諸氏もプロフェッショナルとして仕事にまい進されている。限りなく。
 それでも、市場原理主義には埒外の立場が可能なので、そこらのしくみくらいは若者であっても集中して諸事情を学んで、そこらからうっすらとどうして可能かを気付けるようにできそうだ。(市場で敵味方的に競り合っている膨大なだれかたちを操作的に高所から接近できるだれかたちがありうるという事態性質)
 毎日のように見ることができる大リーグの野球中継も参考にできる。
 ファンとともにだけど有り余るエネルギーの持ち主たちでもある大リーガー諸氏(野球が一線の娯楽であった時期だとスポーツ身体の最良の時期を野球と関われる時期に迎えた若者たちがそこへと集中したので、硬式野球のプロに近い連中は(特に投手の場合)長距離走も強いし、ダッシュ力も抜群だし、内外野、捕手などどこでもこなせるくらいのゲーム勘やからだのこなしが人一倍だった)は、いっしょにだけどそれ以上に体を動かしまくって、野球を楽しみたがっていることがひしひしと伝わってくる。
 だけど、契約とか移籍とか、本人希望でない場合のつまらなさ圧力も並みではないようなので、結局、市場原理主義圧が相当に働いてしまっている現場の要素もぬぐえない。
 巷感覚ではスポーツ系で実際に体が動くタイプ諸氏が集(つど)ってプレーに汗をかけば、それなりに熱気を共有できたりする。
 良い疲れ体験になりうる。
 ばくちのりに気持ちが持っていかれている状態の諸氏には通じにくいかもしれないけれど。
 それではプロではない、という諸氏もわずかいらっしゃるかもしれないが、たとえば野球ならば、その実力に応じた編成が可能ならば、プロも素人野球も変わらない。お互いが、その実力を引き出しあえる関係が成り立ちやすい。インディ500のプロレーサーの厳選と同じ。
 技に差がありすぎると危険だ。
 たとえUSの一面がやばいとしても、そこで生きまくる人々の多くは市場原主義に染まっているわけではないことに気付ける。
 でも埒外から参入を誘われ続ける仕組みになっている。
 そして超大国の事情だからグローバルに各国に影響が及ぶという仕組みだ。
 だからこその工夫が求められているとも言えそうだ。
 つまり適応して、その危ない方のプロを目指すことも列島の若者諸氏だって可能だけど、オルタナティブを目指してアイデア込みでの参入といっても既存の巨大条件を無視するわけにはいかないわけだけど、工夫してみる挑戦の有意義度合くらいは歴史が語っている。
 素人老人的には介護施設で働いて、(介護に関わる様々を習得しつつ)まず自分を知ることから出発してもらいたい気がする(年をとって、自分はそろそろそちらのお世話になる側だと息まける元気すぎる言論系諸氏も是非!)。


  たまには川柳もどきを
   川面シリーズ、早速追加は群れた、ニゴイ
   もひとつ追加で、不良してるわけじゃない、若者のヘラブナの群れ
   ヘラもニゴイもオイカワも、側面の輝きを見せたがる、のはなぜ
   涼は向こうからやってきた、今年も団扇一本
   猛暑予報でかき氷、夏日予報でアイスクリーム、暇な老人のひととき
   夏場、きゅうりのまるかじりは美味い、半分だけならばが年寄り事情
   残暑、餌の子オイカワ達と亀やスッポンが、寄り添っていっしょに暮らしている