連載は続く~SF掌編『文書に埋まって・・の悩みのないころ』編


 文書が行き交う官僚組織を前提に出来ない時期を想像しまくる必要を素人老人は古代列島っを振り返ってみたいときに、とりあえず、想起するわけだ。
 やがてそういう古代の時期が到来したことも一般的に知れ渡っているけれど、確実に木簡研究の現状において、ぞの急変以前、前史のことも実はだれもが意識はできるようになっている。
 聖徳太子の時期はそういう前史の頃のことだ。
 日本書紀記述からは蘇我氏が文字使用となじみやすい環境をより早くから自発的な要素込みで取り込んで応用し始めている。
 その蘇我氏との関係の中の聖徳太子という見方がよりリアルに近そうに思える。
 文字使用に熟達した僧が何人もやってくる。元興寺(飛鳥寺)、法隆寺はそういう文字使い諸氏を迎えることが出来ていた。
 特定の人物にとっての日常にどれほどの文字使用が関わっていたかという条件次第だろうが、子供年代に特定のことばを習い覚えられる機会を持てて、しかも相互作用的な環境も並行しているならば、それが普通のことば運用の状態としうる。
 親世代にとっては貴重な通訳となりうる。それくらいの違いを生じさせるのがことばの生々しい世界だ。
 ただ下手とすると生々しいこれこれをことばにするとして、どのことばをつい用いてしまえるかの体験(ことばの通有性・関係性と密着した運用・自己で完結する内話内での欠損などなど)をバイ(マルチ)リンガルゆえに欠いてしまうようなことも起こりうる。
 全人生を棒に振るようなこともごく稀に起こる。
 600年を堺のそれぞれ20年間ほどを、聖徳太子は渡来のことば・文字運用に熟達した僧たちからかなりを学べたのかどうか。
 ことば運用をかなり学べたとして、仏典についてどれほどの学習が可能だったのだろう。
 優れて、しかも独自性を含むようなことは不可能な条件だらけの時期と察する。
 仮にできるとしたら、むしろ多くに過去目を通し、様々な解釈ともことば運用の中で交流できてきた渡来僧諸氏だ。
 もちろん、その渡来の僧諸氏から多くを学ぶことは、数十年の人生だから可能だ。
 当時の仏典の使用漢字の種類、数はどれほどだったのか。解釈内容について学ぶことはできても自らが相対的な立場からの解釈となると、今どきの文字運用に慣れた人々の想像を絶する、やっかいさがともなったと想像できる。
 そこで素人考えということで持ち出せば、渡来して更に学んで、それなりの著作が可能な僧の実績を、法隆寺と関わりの深かっただれかに仮託して、聖徳太子と名乗った、とした方が、ことばの当時の制約状況からして、受け入れやすいのではないか、と想像するわけだ。

 文字の行き交っているわけではない行政組織が、どれほどのことを可能とするのか。
 そこらはともかく、"倭国"とその役割を濃く意識できる人脈諸氏が、日本と名を変更する時期までいたことは鮮明なのだから、その人々がどう移動してきたのか、たどれれば、古代史の一面の不思議が、明確な事実となって現れてきやすくなる。
 列島は、各地の独立した経営が、歴史のもつれの中で、地元というわけではない有力層も混ぜて複雑な人脈化を伴いながらも、各地利害からの発信が絶え間なく続いた土地柄だ。
 それが西欧風時代区分の中世や近世の出来事として派手に飾る。
 列島流なのかどうかは、より学問系が研究を重ねてほしいけれど、同じ中国といっても儒教系を厭(いと)い、仏教系を受け入れてきた。列島内部での抗争上も、儒教で打って出ようとする動きをけん制しつつ、時に圧倒され、それゆえの易姓革命発想的戦乱を生じさせてしまうものの、武力も使ってしまうのだけど、表向きの仏如何にかかわらず、統御しようともしてきている。
 半島が仏の輸出先であるよりは儒教系が濃いような時期になると、交流のあり方さえ変化してしまう。
 伝染病とも無縁ではなかった列島生活において、仏は食事の場での派手な会話を慎むような習慣を世間に広めた。手洗い他の清潔系な所作はお馴染みだ。
 仏の底からの圧を働かせ始めた江戸期において、肥溜めの農業応用も盛んになった。
 イエズス会+遠隔地貿易商人の組み合わせが、一方でアルメイダ(外科医)氏のような逸材の招来を可能にしたけれど、一方で、わざとと素人は見ているけれど、宗教利害からそれは禁止しても止まないにしても、しっぺ返しが起こるよ作戦に使えると性病の質(たち)の悪いのを列島にも流行らせた。
 おおらかな列島風仏教下での乱れていたかもしれないしそうでないかもしれない恋愛事象に衝撃を与えることになる。(蘭学知見での杉田玄白氏とかかわるエピソードからもそこら知ることができる)
 素人の今の時点での見方は、660年以後数年間の出来事ゆえに、九州域や近畿域での、特定の人物と関わる事蹟はなかったことにしよう作戦が敢行されて、もしそれが起こらなければ元北九州域にも、現法隆寺っぽくオリジナル観世音寺がわかる程度に残りえたと思える。実際の現北部九州域はその特定の人々と関わる遺跡はあいまいになってしまった。
 いつ、対外性を意識した"倭国"の"役割"の記憶伝承をこなす人脈のどれほどが、どこへ移動して、持統~文武の展開を可能にしたのか、を探りづらくしてしまう。
 その移動の様を追跡できる発見とか読みが起これば、即、時代描写が可能になる。
 文字使用のない土地柄では記憶頼りの伝承がもっぱらと思えるが、そこへ文字とともに物語りが記憶へと介入してしまうことの圧倒性のことも想像できた方が、今どきの勘違いの修正には使えそうだ。