連載は続く~ SF 掌編『昔を知りたいときの昔の資料など』編


 古代を探れる文芸作品ということで
  懐風藻(75?頃):『懐風藻講談社学術文庫版 江口孝夫編・訳
  藤氏家伝(76?頃):『現代語訳 藤氏家伝』 講談社学術文庫版 沖森・佐藤・矢嶋 訳
  古語拾遺(80?頃):『古語拾遺岩波文庫版 西宮一民 校注
           『現代語訳 古語拾遺』 新人物文庫版 菅田正昭
  日本(国現報善悪)霊異記(82?頃):『日本霊異記』 角川文庫版 板橋倫行 校注

 これらを歴史資料として扱うには、それなりの手続きが要る。
 で原典そのものではない場合の確からしい度合いを探れる研究史などをさらさらっと"軽快"に目配りしてみた。

 懐風藻については最近('18、'21)になって土佐朋子氏が2冊(*)研究所を出版されている。'18の「まえがき」を汲古書院ページで読める。
(*)'18 静嘉堂文庫蔵『懐風藻箋註』本文と研究(汲古書院)
  '21 校本懐風藻(新典社)
 素人の読みからだと、倭国以来の努力の底流を外れて傲慢かましている序の著者という扱いになりそうだけど、一応、序の短い文章から歴史をどう掴(つか)んでそうか等探れる内容だ。けれども、土佐氏が紹介する通り、(現代語訳を含め)現存する『懐風藻』をいかに扱いうるかは、未だ専門家諸氏の作業次第のところがありそうだ。

 歴史を紐解く資料としていかに扱いうるか、そこらについて素人には戸惑わせるのが『藤氏家伝』。"四 諸本"の章(p135-)にて現存本を概説してくれている。
 この三氏による『藤氏家伝 注釈と研究』(吉川弘文館 '99)が出ている。

 同じような地道な調査・研究の一端について『古語拾遺』に関しては岩波文庫版の西宮氏が"六 諸本"の章(p208-)において、紹介されている。
 序の章にて齋部広成氏は、文字を採用する以前を具体的にイメージしながら、文字導入以後の周辺事情を比較対照しており、原典があったとして、それの継承の厳密度など、より確実な辺りと著作時期決定の精密度などより文献上の落ち着かせ方について方法をとその結果を示してもらいたいところだ。

 『日本(国現報善悪)霊異記』についても、序文にあたる一章が置かれていて、仏教養と儒教養の置かれ方についての見解が示されたり、興味を惹くのだけど、やはり"霊異記諸傳本のうち・・"(p209-)ではじまる諸本に関する概説からして、この貴重な指摘のいくつかを歴史に落ち着かせるには、専門家諸氏の相当な研究が必要そうだと思わせる。
 『日本霊異記諸本の研究』(清文堂 '88)として小泉道氏がより詳細に検証作業されているようだ。


 文字ことばを用いて以後のヒトの営みに関して、近藤健二氏がちくま新書にて仮説を紹介されていたが、素人はそこらも含めて、アイヌ語のことも想像したくなった。
 仮に、相当に沖縄の人々が経てきた移動も含む歴史性を共にしていたことがより確実に証明されるようなことになると、もっぱら話し言葉を用いることでの伝え合いを事としてきた集団の営みにおいては、記憶の筋は強力だ。内容も相当に精度良く伝承され続ける。
 一方で、話し言葉は、それゆえに、状況に左右されて変化も蒙り易い。
 変化しつつ継承の中味だけは強く作用する記憶ゆえ継承され続ける。
 ここらは強引に『古語拾遺』の中での指摘を援用したくさせる。
 だから途中の長年月のより身近な環境とのやりとりからその影響を取り込んだりも起こりえたかもしれないけれど、その記憶の原典の継承をたどれるのでは、ということは、多くの神話の中は、その出自の土地柄のことをより濃密にしているのでは、という仮説に行き着く。
 そこらが文字使用になって、記憶頼りの相対的軽減を伴わせて、過去は過去、現在は現在での記憶と留め置き仕様に変化させてきたヒトの営みの一面へと想像を誘う。


 古い時代のある土地柄の様子を再現できるかどうかの前提に、それはいつごろのどこにありえたのか、辺りは確定しておく必要がありそうだ。
 宇佐市の一部に古代列島っぽく、廃寺の跡が残っている。
 小倉の池廃寺跡
 法鏡寺廃寺跡
 虚空蔵寺塔跡
 四日市廃寺跡
 ごく狭い範囲にそれらが分布している。
 できればカシミールとか地図ブラウザを使っていただきたい。
 そして大分県宇佐市の辺りを探る。
 海岸沿いに東から大き目の川の河口が三つ(寄藻川、駅館[やっかん]川、伊呂波川)見える。
 宇佐市はそれぞれの川筋について洪水ハザードマップを公開している。古代からは変化してるかもしれないが、一応の参考にもできる(立地条件など)。
 素人の第一印象。高麗郡に似ている、だった。
 相当に古い時期の廃寺跡が複数確かめられている。
 米田氏は現東大寺ほか木造大建築への素材を提供していると仮説されている。
 移築に関する話題は騒乱の史実ほど賑やかに話題にされないので、わかりにくいままだけど、啓蒙(enlightment/aufklärung/émancipation intellectuelle) 発想も控えさせているはずのマスメディア発信では時に、民間の知恵として移築を手際よくこなす技術が継承され続けている辺りを紹介してくれている。
 ただし、米田氏においてはそこが元々の地、ということになるのだけど、読者からすれば、もう少し説明が要ると思える記述が多い。
 それはそれとして、宇佐市駅館川と伊呂波川に挟まれた直系にして5~6km の円で囲える地域内に少なくとも4つの廃寺跡が見つかっている。
 伊呂波川沿いの東西を山並みに挟まれた領域は特に左岸はより洪水の危険有りとハザードマップが示している土地柄だ。
 見つかっている廃寺跡は一つだけ例外、四日市廃寺跡の場所を調べ切れなかったため、残る2つは、安全圏に立地している。
 官寺扱いだった法鏡寺廃寺と見なされる立地は、やや洪水をかぶりやすそうだ。
 現ため池小倉の池の中に立地していた小倉池廃寺跡は、西側の洪水をぎりぎり凌げる相対的高さの平地が、小倉池(台地上のくぼ地)の台地(小山でもある)下の景観として広がっている。
 この池の南東に展開する山地の東裾野の山本地区に虚空蔵寺塔跡(伽藍配置が若草伽藍ではなく改築後の法隆寺伽藍)はある。
 ここら辺にはその昔、宇佐神宮宮司や女禰宜を担ったいくつかの有力な豪族がいた。
 大神、宇佐、辛嶋ら(渡来系とされる)。
 考古知見から、近畿圏との濃い行き来も指摘されている。
 いまどきのネット地図(今回はgoogle)は、3D空間として実写の中を歩けるので、宇佐市から入って、小倉池に近づければ、ほとんどの道筋に実写で確かめられるルートが張り巡らされている。
 一応素人観からは、昔の道は水害を避けるような等高線続きの道作りが為されている感じだ。
 つまり水害とか自然災害への観察が相当に働いていた人々と見ることができそうだ。
 そして、古代の寺は多分、水源とかを押さえる役目も果たしてたかもしれないが、台地上とか相対的高さの選択が為されて、平城京興福寺東大寺春日神社やの立地も大いに参考になる。
 洪水は絶対的標高でより土地柄での相対的なことが原因になるから山地の村落でもとてつもない被害が出る。そういう観点のもっともっと鋭いのを働かせたプロフェッショナル諸氏が古代の建築を担っていたはずだ。
 カシミールならば、断面図表示(も、ぐにゃぐにゃ距離)も簡単にできるので、その土地の微細な生活感を引き出すヒントにも使えそうだ。
 現国土地理院地図はレベル15-17辺りが地名表示も詳しく便利そうだし、標高のデータも5mの分解能のが公開されているので、ちょっとした小川程度まで凸凹表示可能になっている。


 宇佐市宇佐神宮の大宮司をめぐる覇権争いだけでも有力豪族諸氏の間に盛衰がごちゃごちゃしてしまう。
 素人見的には、その流れの中で必ず血が混じり合って、相続記憶の継続性から連続をことばにはできるけれど、実態は円満に手広く、子供をわんさか作りながら混血しまくってきた感じだ。
 戦乱とか力任せの迫られた動きとかを伴わなくても、追々、ヒトの営みはまぐわいつつ混じりに混じっていってしまうもののようだ。

  川柳もどき

   動かないぞ、と決めてかかった植物でさえ、気をきかせた鳥たちがとりもつ、とりもつもぶたもつも美味い。