いろいろ企みを豊かにする諸氏においても、一般の膨大な人々においても今時の出来事からして、とにかく忙(せわ)しない日々を送られているのではないか、と想像する。
多少急がなくても済む束の間と忙しない日々を繰り返す人々という境遇にとっては、とてもじゃないが介護理念が含ませるヒトの関係性に感応しつつ介護を引き受けられる心身、なんていうことを想像することすら無理とか苦痛とか、そのうちにの類、とかで流したくなってしまうと察する。
お互い様のある状況を心身として表現型にもっていけることはそれなりの失敗とかを重ねて、ケースバイケースでの対応力を身に着けられるヒトにとっての場面かもしれない、ということでは、普段の生活を直結できるようで出来にくい分野と言えそうだ。
だからといって、だれもがそこと関わりうるから、できないこと、無理なことを強いられて、ダメ技で応じて介護理念とは遠いところでお付き合いがせいぜいのような事実を受け入れざるを得ないな、と落胆することもない。
それなりの段どりを踏めば、自らとして技量は身につく。ないし、他人に任せることもできないわけではない。
仮に、後者にもう少し希望を持とうとした場合のことを、少々。
ストレス源といっても様々だし、人それぞれの面も含む。
ただ夜勤というか夜中、ずっと目を覚ましていないと仕事にならないタイプの介護の仕事の性質は、口出す人々が少ないとしても、かなりのストレス源になっている。
人事上のシフトでの就業時間帯配置への工夫によって休憩1時間込みの9時間就業が可能になったからと言って、ヒトの体にとっての夜間ずっと、はきついものだ。
慣れは、睡眠リズムの狂いへの慣れに通じることと実態上同値だ。
だから、医療部門にしろ、介護部門にしろ、夜勤は辛(つら)いものになる。
けれども生き物であるヒトは24時間をずっと人生分繰り返すのだから、夜間も介護という観点において特別ではない、連続した日々の一こまだ。
そこをだから、だれかが担う。ロボットに任せるとか監視装置経由でのヒトの仕事にしようという試行錯誤は今時の一面だ。
ヒトが最晩年の変化の過程を他人に委ねているのが施設での介護の状態だから、その変化に応じられる介護する側の条件が整っている必要を指摘しておける。
夜間はだから、だれかしらが必ず担う。
現状は、雇われた時点で、多くの場合、それも業務の一つとして(先ほど指摘した)シフトに組み込まれる。
そういう働き方を選んだだれかにとっては、介護仕事の日々は、時々日勤、時々夜勤、時々その中間帯のような感じになる。
同じ夜勤といっても、給料支払いとの絡みから、実質二日分を働いて夜勤明けの日と翌日を休日にするやり方や、日勤と同じ9時間働いて、週休のどれかで休日を得るというやり方やが機能しがちだ。
夜勤の性質についてヒト相手の事象として特別なプラスの給料を介護保険やその他の分野での職業で普通に可能になっているというわけではないので、そこそこの歩合プラスで、それらが世の中の全般として継続している。基本給に対する歩合だから、それぞれに相当なばらつきも生まれやすい。
夜勤だけなら介護の仕事を引き受けたい、という諸氏もそれなりにいらっしゃる。
介護のスキルがしっかり身についているなら、是非、ということになりうる。
それくらいシフト交代での夜勤はより辛いものだ。
そこらが介護現場の人事に影響もしやすい。
そこで介護施設を営む意欲のある経営にも熱心な諸氏においては、介護施設立地の近辺に介護スキルが間違いのないだれか”たち”を確保できるかどうかが、第一条件と言えそうだ、と指摘してみたい。
そこをクリアできない場合、そこでの開業は止めるべきだ。
さらに、条件が要る。
介護施設での入居者の変化についてはちょっとふれた。
その変化に応じて、緊急出勤が必要になる。
入居者諸氏に更なる出費を請求出来て、緊急時用のためだけの費用負担が可能になる場合、それなりの工夫は十分に可能になるけれど、通常は、介護保険内、および、少々の余分とかで済ませたい諸氏ばかりと想像する。
すると既存の人員による変化対応になり、夜間では介護保険指定の最低限での人員で対応している施設が大半と想定できる。
その場合、近場で、介護スキルの水準を一応クリアできていて、緊急呼び出しに直ぐに対応できるだれかが、居てくれる必要がある。
そのだれかが、先の近所の頼める新設介護施設要員の中に複数してくれる必要がある。
当番がどうしても不可能な場合にも、だれかが補助要員として現場に駆けつけることは必須だ。
だから施設の規模から判断して、その何割かが、近所に居住しいて、その中の複数人が夜間緊急時対応にも応じられる陣容を得たときに、立地が可能になる。
だから逆に、そういう人材が揃っていて、しかも介護需要を見極められる場所があれば、そこに立地するということもありうる。
そして実務が始まれば、休む暇はない仕事性質ゆえ、施設の設計(防災・避難や喚起やの条件については少しだけ以前ふれている)とか、事務系等と現場(看護部門、介護部門(食事等も含め))の事物・情報の共有のシミュレーションの積み重ねや事前に直観的水準で応じ合えるようにしておく必要を指摘できる。
もちろん、介護担当者個々への個々性に応じた介護技量の達成度の確保も事前に必要なことだ。現場に出たら、だれもが同じように入居者諸氏から厳しい目で判断される。ただし、列島の大人たち、ご老人諸氏同様に寛容だから実態はなかなかつかみにくいようなことにしがちにして、万が一が発生して、気付かれたりする。ここらを予め避けられるなら避けるに越したことはないわけだ。
準備万端でも介護の生々しい現場では意外なことに満ち溢れがちで、とことんスタッフは振り回されがちになるけれど、技量を身に着けている限りで、その場の対処をなんとか工夫くらいはできるようになっているものだ。だからストレス源としては、多少緩和されている状態。
つまり、準備さえ怠らなければ、それなりに介護保険の範囲と少々のサービス提供に応じた収入によって施設は円滑に日々が過ぎていくようなことにできる。
作り急ぎして、スタッフを準備できない場合、亡くなる頻度とか、入退所の頻度とかの指標が率直な事態を説明してくれることになる(入退院の指標は、変化の一面だから、そこでの指標としては、退院時のリハビリ度合(介護度がどれくらい落ちた状態で退院してくるかどうかなど)を見ることで、その施設と利用病院等の質を測れることになる。)。
いつでも短いかもしれないが燃焼してというタイプ諸氏もいらっしゃるけれど、最近の超有名な諸氏の亡くなった年齢は90代が目白押しだ。
90代が珍しくない時代到来だ。
しかも、老人は確かに脆い、ちょっとしたきっかけで急展開してしまう。
けれどもだからこそなんだけど、その急展開以前は結構肌ツヤ良くご自分のペースで安全確実に移動も自在にこなされて、食欲もその方なりに旺盛でということが、より多くの諸氏において到来、ないし可能態として到来していると言えそうだ。
11何歳なんていう方々がそれなりの肌でもって今日のテレビ画面に登場されていたけれど、もっともっと見た目元気そうな100歳はたくさんおられるわけだ。
ただ脆いだけだ、ちょっとしたことで崩れる。
そこらをお互いの物にして、その時はその時でお互いの了解事項として納得できていれば、余計な関与も不要できままな付き合いすら可能になる。
そして救急対応に慣れていれば、最晩年のその瞬間すら、一応、本人の願いに近い形で応じられる、という具合だ。
大雑把な話でいかにも素人話になってしまうけれど、それが事故っぽいケースならば、3条件(意識・呼吸・心拍)をチェックしつつ、出血なら止血を試みるかわからなければ、わかるやつに頼む。呼吸が怪しければ、看護経験のあるだれかを探して、場合によっては気管確保とかの緊急対応する。AEDで済む事態ならば、それを探して即応用する。
脳梗塞系の症状かもと思えたら(救急が先だけど)、いくつかの指標(ろれつ試し、左右バランスの失調)を試してみる(救急要請の際にしてきできるかも知れないし、救急到着時に急いで!と促せる材料にできる)。
その他、動かさない方がいい転んだ時とか、介護技量に必要な知識として、介護を仕事にすると色々学べるので、是非、これからを目指す諸氏においては仕事にしていただきたい。
川柳もどき
動物たちはいかにもな死にざま、植物はというと、多分、繰り返しの方がいつもか
じめじめ印象の環境を思い浮かべて "苔"で区切ると、なぜかあじわいふかく