連載は続く~ SF 掌編『介護話。実態はともかく、おおよそのこと』編


 膝痛も介護職にとっては身近なことばだ。
 なにげに衰えを実感されるような体験が時に繰り返されるようになった頃、どうして?と振り返ってみたものの、手遅れ、というのが膝痛人生にはありがちと察する。
 立ち仕事は無理を繰り返せば、それなりに自覚的膝痛を経験させる。
 だからって、老年期に常態としての膝痛を招くわけではない。
 確かに古傷が老年期に慢性的な苦痛源となることは多くの諸氏が語る。
 けれども、若い頃の無理であってもそれなりに若さゆえに解消してしまうこともしばしばだ。
 ところが、膝痛はだれかしらに必ずやってくる。
 多くの諸氏において歩く生活を思い返せそうだ。だから苦痛を伴う立ち仕事の類はその相対的な負荷ということで区別して認識できそうにも思える。
 同じような生活を繰り返しただれかたちが同じように膝痛を抱えることになったのかどうか。
 今時はビッグデータ処理云々とか様々にデータ処理の巧みが喧伝されるけれど、たった膝痛一つとってもそれらしい生活習慣とかその他、データから探れる原因追求の試みの公表頻度は寂しい限りだ。
 専門筋では為されているのかもしれないが、一般の生活習慣注意報に使えそうな形での発信は乏しいままだ。
 介護職諸氏からする見た目の印象は太り気味の諸氏における膝への負荷をずっと耐えてきたゆえの膝痛発症、といった辺りではないか、と素人からは仮説させる。
 男女比も出てきそうだ。女性に目立つ。
 だから肉体の人生年月上の準備如何が関わっているのかも、の想像は働くけれど、実際はどうか。そこらの統計から探れる、かゆいところに手が届く発信は希薄だ。
 同じ体重負荷でもその膝への影響度合いが違ってくる条件。
 長い目で見た場合の原因追求はあいまいにさせがちだけど、一端膝痛を発症するとそうなる以前の生活習慣の活発度を仕方なく消極的にさせざるをえなくする。それくらい生活習慣への影響は濃い。諸氏におけるご想像の通り、膝痛諸氏にとっては一種の悪循環が始まる。動きに消極的にならざるをえず、カロリー消費に通じる動作を怠りがちにして、でもそれまでの食欲は惰性のままだから、(過去の元気さがこなす)飲食旺盛の状態も継続させる。
 少しずつ体重が増える。膝痛は解消しない。暇をもてあましてつい・・・。
 糖尿病を患った諸氏の大変度合いとは比べ物にならないと、勝手なことを言ってしまうけれど、やはりこの悪循環も持てる可能性を台無しにしがちにする。
 脳梗塞な諸氏の見た目が大変そうなのと比べて糖尿な諸氏は一見、うなだれてそうくらいで、なんとかなるんじゃない、程度に受け流せる印象だけど、体も心もボロボロになっていくのが辛い糖尿病をわずらってしかも透析などに行き着いた諸氏の実際だ。
 脳梗塞な諸氏は、再発しない診察の巧みが並行できていれば、そういうタイプゆえのもともと活発系な諸氏もいらっしゃって、それなりのパワーを秘めさせながら晩年を送れる。ただし、再発しやすい症状タイプも当然あるので、そういう諸氏の突然の変化も充分に起こりうる。
 更に膝痛諸氏は見た目元気そうで動くことに段々臆病になっていく。
 ヒトは競技系の凄い連中のような活発な動きは特に必要としない(狩猟が必須ではないから)。ぷらぷら程度充分だ。でもマグロじゃないが、いつでも動いていたほうが漢方的な意味からの元気な状態を保ち易い。不思議だけで、多分そうだ。
 そこを膝痛が邪魔する。個々の生き方の勝手には違いないけれど、ご自身の老いとともに膝痛が負荷となっては元も子もないと介護現場とかでの見聞も含めて、指摘できそうに素人老人にとっては思える。
 若い頃から、生活習慣として、メタボ、太りすぎに注意するに越したことはなさそうだ。
 ただし心身"貯金"と勝手なことばを使ってしまうけれど、それなりに蓄積もしておいたほうがいいとも思え、やせすぎでの長年月を耐えて続けることもまた不必要と察する。
 膝痛後を、メタボの諸氏がニュースには必ずかなりの人数で登場するUSの事情をネットにてざっと調べてみた。すると、USにおいては、人工関節技というのがより使われているとのこと。人工関節も改良されてきて長年月もつようになっている。長生きタイプ諸氏でも一度つけて、もう一度くらいで済むくらいの耐用年数だ。もっと長生きする諸氏では更にもう一度の3回、人工関節を新調することになりそうだ。
 保険ほかでの工面が可能としても実質の費用はばかにならない対応ということになる。民主主義を標榜するお国柄だから貧富に関わらず押しなべてそのお世話になって快適な老後を送れそうだ。
 列島では、痛み止め策=薬対応、がもっぱらか。
 余程のお金にゆとりのあるごく限られた諸氏においては、二度くらいならなんとかで、人工関節にする諸氏もおられそうだ。ただし、現状、実験的要素も伴っているはずだ。
 列島の人々、USの人々、どちらにしても、メタボ、太りすぎを回避できるような生活習慣の巧みを取り込んで、快適な生活の継続性を試行・志向できたほうが、多分、ご自分にとっても、ご一緒のだれかたちにとっても幸せに通じるように思える。


 民主主義対専制ということで、民主主義っぽさを際立たせるやり方で一応治めてきた20世紀後半から21世紀初頭をひとまず押さえて、でそれがこれからも通用するなら、だれもがそれに慣れる事の選択的有意を持ち続けられる。
 けれども、素人老人にとっての列島古代史探索から知りうる、まとまり感を共有しあえることの困難と、生活を自発的な欲動の下、秩序形成も含めてこなし合える元気度の保持を台無しにするような作為とを回避し合いながら、集団の営みの試行錯誤を継続し続けることは大変なことだな、と素人的には思わせられる。
 現にEUというまとまり感が揺さぶられ続けている。
 USは戦争とか危険頼りの、頼りない一体感一時的造作でやりくりしてきた感じだ。
 今想起させやすい民主主義の構成要素には、帝王学を伝承できたタイプの個々人が、その中の一人一人として、構成できているようなやりくりがイメージされているし、それを言わないことにして、民主主義の貴重さだけ喧伝されがちにしている。
 だからいざ民主主義っぽいパフォーマンスの場を仕立てれば、即、(明確な利害が発散して)騒乱の場と化しやすい、ないし、しらけた場を形成されがちにする((US流選挙での戸別訪問運動形態も含めて)煩く言う連中だけでやっとけぇーっ!)。
 実際に動いてる様は参入自由度を保たせながら、勝者に仕切らせろを通させるやり方だ。勝者を生むやり方は多数決ばかりではない。これも様々だ。多数決の(民主主義理念的には)矛盾が生じて困る辺りはだれもが知っている。
 世界的な情勢として、あからさまに専制を行使して対比して、これよりはましだろ?はないと、(老体からは)思いたい。実際的に民主主義を営むやり方を模索し続けてくれたほうが、宣伝に熱中して、巷の困惑を省みない政治のやりくりよりはどれほどいいことか。

 どういう巷の層序地点においてか、序列感を複数が感じ取れば、そこでの忖度行使がだれかしらから生じて、ちょっとだけ将来に向けた模索の辺りは棚上げ状態となって、そこでの政治的やりくりにだれそれと構成員諸氏を巻き込ませがちにするのが、ありがちなヒトにおける姿とも素人老人は指摘してみたい。
 そこらは超大国US由来の世論工作の長年月の結果と見ることもできるし、それを知りながら回避し損ねてきた工夫の足りなさを指摘することもできそうだ。
 ただ反発して見せてもなんの役にも立たないし、返ってその効果の方に利用されてしまう。そういう難しさが含まれるのが世論工作熟練技だ。
 それについても遠慮としては悪意がない可能性もありうる。でもだ、その企みを仕切る人々の企みそのものがあからさまに検討できる場にさらされる機会が生じるようなことになれば、多分、違った考えもたっぷり噴出するはずだ。しかも、そういう事態、混乱の場を避けたいが為に、世論工作は続行されもする。
 そして民主主義ということばだけが独り歩きし続けやすくする。
 しかも対比的な宣伝に使われる否定的現象とごいっしょだ。
 どちらを選ぶの?というわけだ。
 ハッキリ言って大人のすることではなさそうだな、くらいは素人老人であっても指摘可能。
 最初の話題とも関わるけれど、列島の中央集権の試みは、第一次試行は官主導ともたとえられそうだけど、7世紀半ばから10世紀末(指標として貿易など)に終わった。
 倉本著『平氏』('22.7 中公新書)でも紹介されているように、とても有力な層(天皇系の皇位を離脱した脈、藤原氏平氏、源氏)が地方に根を張ることをはじめてもいた。特に藤原氏天皇系の脈を取り巻くように必ず周囲を固めている(村町市名)。
 それぞれの土地柄において仕切り役は自分たちだと息巻く勢力間には争いを持ち込む形で、中央からのそれらが抜きん出る。そういうリアルを紹介されている。
 広瀬本発想で人名事典をめくって事態を追えれば、地表面各地の少々くらいなら、そういったことを探れるわけだ。ただし、学者諸氏のように余程しつこく調べ尽くす作業を億劫がらずにこなすことが肝心となる。素人ではそこまで追いきれそうにない。大体はわかって予想がつく程度だ。
 それでも、面子とかどちらがよりさまざまに"実存"とも交流させる類の事情に通じてるかとかの割り切れなさとかが介在して、戦国のような争いごとも避けられなくする。
 でも歴史にはもしもが可能だ。
 そこからたっぷり学べる。
 中央の知見、はぐれざるとは言え、それなりの理念を鍛(きた)えた脈、そして地元勢とが、その持つ知見を持ち寄って徹夜続きでもへこたれないパワーでもって更なるアイデアをひねり出せるようなことがあれば、その土地を誰に任せるかは、自ずからその付き合いの中で、人格検証を経ているから見えてきてしまう。だれかを選ぶ、アイデアは散々話し合って、絞り込めている。どう材料、ヒトを捻出できるか、そこは、既存では足りない場合、更なる工夫とかアイデアが求められそうだ。でも、そうなっても、お互いが熟知の状態だから、遠慮なく、だれかれとアイデアを試案として持ち出しあえる。
 その中から実際的に選び出せる。
 ただそうやって時間を費やしているところへ、部外者の煩型が突如参入したがる、ということもごく稀には起こりうるから、そういうことまで含めて、集団の営みの動態は構想できていることが必要そうだ。それでも多分足りないだろうね、と更なる事態理解を得ている諸氏こそが、そこらの次代へむけた提案として、具体的に発信してくれそうだ。
 世界の巷も同様と察する。
 自分たちのアイデアこそ卓越している。だから、これを押し付けるしかない、と思い込んで、むちゃくちゃにしがちだったこれまでの歴史に、転換を求めることができる。求めるだけではなくて、やり方への工夫のちょっとしたヒント程度が持ち出せる時期になった。


  川柳もどき

   地道な策が支えていることは間違いないけれど 愚策も目立つ だからか 台風までも臍(へそ)曲げて まるで梅雨のような台風一過
   梅雨ならば ふわっと過ぎ去る 艶やかな姿 今は秋