連載は続く~SF掌編『どこかでだれかが(土地を)耕している』編


 灌漑工事すれば、その昔においても高麗郷の大半の土地にもヒトは農業を営みながら生活を持続させられただろうに、その昔においては、その水利の事情から農業適地ではなかった大半の部分にはヒトは住まず、川筋にポツン、ポツン、ポツンと住居跡を残す程度の起点を持っている辺りは富元久美子著「武蔵国高麗郷とその周辺地域」(『古代日本と渡来系移民』('21 高志書院)所収)に詳しい。
 人口の分布とか趨勢とかに関わる要素を探れる指摘とも取れる。
 ある事象の動態と関わりうる要素の多元的な観点の持ち込みは大切そうだ。
 その昔、寿命はどれくらいだったか。この問いは一見単調に受け止め得るように効果してしまうかもしれない。
 その昔の或る頃ということで特定の時期を想定できれば環境その他の詰めも可能になって、それなりに人口を想定すらできてしまう、とも思える。
 けれども、たとえそうだとしても、寿命ということばからは、多元的な接近が求められてしまう。
 どこかのだれかたちについて、戸籍っぽい資料が残っていて、確かめられるとしたら明確になる。そして大抵の場合、ばらつきに戸惑わせられるはずだ。
 長生きするだれかもいれば、事故でもないのに相対的に短命だったり。
 時代的に栄養事情が悪くて、結核が蔓延しやすくなって、多くがそれゆえに子供は作って世代交代は果たせたけれどその先の余命はごく短くなっていたとか。
 けれども、栄養事情ということでは子供たちとっても致命的だ。しかも免疫系と関わるときたら子供年代での死亡が半端ではない時期を想定できた方がより実際に近づけそうにも思える。
 ここらの説明だと、色々な要素をごっちゃにして、わかりずらいかもしれない。
 余命ということでの寿命の平均的な押さえ方という指標で寿命を扱うなら、多くの場合、子供年齢に死亡が沢山出て、余命に大きく影響させて、寿命が短命だった、という総合的な意味でのその時期での寿命表現が可能になる。
 そして列島の多くで過去については、そう語られるのが普通だ。子だくさんでも残って成人してくれて働き手になってくれるのはごく少ない。列島の現代の走りの頃だってそうだった。昭和生まれたちの多くが(二桁とかそれに近い)沢山の(両性を含むのだけど)兄弟を持った。走りの頃の列島人口は今と比べると(その昔よりははるかに多いとしても)一桁違う。世界的に急激な人口増を経験したのが現代の趨勢だった。
 それには医療が関わって子供年代での死亡が極小へと向かったことが指摘されていることは周知のことに属する。
 そんな現代でも、個々によってまったく寿命連令は異なりすぎるほど異なる。極端に違う。
 生き物、動物系のヒトは成人になる過程で免疫を相当に鍛えこんでしまう。
 だからそれなりに可能性としては昔から長寿だ。人によっての人名辞典に載るようなだれかの長寿も珍しいことではない。
 それらを均せば・・の話と、子供がたくさん亡くなっての話を混同してしまうことも寿命の実際を振り返るうえでは錯覚の元だ。
 ヒトの2000年間でなんらか変異が生じたのか。そうは見做(な)したくない。
 関係性とか社会性とかが関わって老けるとか若々しいとかはかなりぐらつくものだ。
 酒飲み諸氏は肝臓を壊さない工夫した飲み方を可能にしている限りで、肌艶は良好な人々が多い。
 酒の力を借りなくても、今時の70代、80代の諸氏はいかにも張りがある感じのタイプであふれている。おかしくないか、と指摘できそうだ。
 昔は同じ年齢でもだれもが老けて、すぐ亡くなってもおかしくなかったと断言してしまっていいものだろうか。
 いつの時代でも確かに、事故的な自然現象との遭遇もさけられなかったしで、突然の死は避けられなかった。けれども、そのヒト自体が長寿を初めから避けるような免疫系の弱体であるはずがない。
 今時の清潔仕込みで固めてしまった生活習慣よりは、余程、大抵のことではくじけない神体を維持していた可能性だって想像できそうだ。
 事故の一つだろうけれど、戦争とかに駆り出させて、自ら進んで参加して、短命に終わった成人も沢山出る。そういう時期も想起できる。寿命が短くなる原因を明確にし易い。
 昔も今も、ヒトは成人年齢に達する辺りからかなり丈夫に生きることができていた、と見たい。そうなるまでの不可抗力の可能性を探って、それが寿命にどう影響したかで、相対的に長寿層が沢山残りやすかったか、残りにくかったかなどの考察は可能と想像する。
 今時は、子供年齢にとっては、かつてよりは生き残りやすい環境をある程度達成できている、と見做すことも無理が少ないと察する。
 しかも相対的に子供年齢にとって過酷と見做される土地柄への改良・援助を求める機運も働いているから、人口にとってはめぐまれつつある時期とも言えそうだ。


  川柳もどき

   働いて食っていくことで精一杯さ とはいえ だれかしらがどこかで工夫していて その恩恵に浴せる
    と思うだけじゃなく だれもが 仕事を通じてなんらかそれと関わっている