連載は続く~ SF 掌編『古代と現代をつなげる場合の例えば』編


 記紀について文学から接近された山口博氏は、古事記というタイトルが語るように、推古の時期までを古事にあて、現代を書記が担うような工夫を当時の指揮・編集を担った諸氏が発想してしたような指摘をされている。
 素人老人的読みはそこらを大いに汲みたくさせた。
 用明~推古辺りの記述を読む限りで、先例としての提示がひょっとして意図されていたのではと素人的な推理に誘う内容を読めた気がしている。
 後の書記記述にとってはまさに現代の律令のしくみをよりすんなり浸透させられるかもしれない仕掛け、という辺りだ。
 だから厩戸皇子(豊耳聴聖徳・豊耳聴法大王)と仏法、儒教にまつわるエピソードも先例として使うための記述と取りたくさせる。
 その線からの推理ドラマ風には、皇子が歴史上の実在の人物をどうにかしてしまった像という具合にとらえたくさせる。
 『日本(国現報善悪)霊異記』諾楽(なら)の右京の薬師寺の沙門景戒録(しる)すの序にあたるところで、景戒氏は(以下角川文庫版の訳引用""部分)"代々の天皇"或るは高き山の頂きに登りて悲心を起し"途中略して"或るは生まれながらにして高辯"途中略して"或るは弘誓(ぐせい)の願を発(おこ)し"と三人を例示しているのだけど、二番目の引用人物は事例から厩戸皇子のことと校注者(板橋倫行)氏により注されている。
 だれかが霊異記へ原作者の意図とは別に挿入してしまったのかとも取れるし、事実関係がもう少し複雑だったのかも・・・とも取れるし。
 一応しつこくなるけれど断っておくなら、貶(けな)す意図から列島古代を引用することはしない方で最近はずっと関心を持ち続けている。問題関心は、現代においても苦渋しまくっているまとまり感(福祉とか巨大事業とか、細々へと行き届く施策への試行錯誤が実践可能な条件)のほんのわずかの達成事業が、昔も同様にできそうでできにくく、苦心惨憺だったと思えるから。
 ヒトは子供とかを食わせて育てる過程で相当を学んでしまう。
 子供たちは子供たちで、その過程で上手に学ばせてもらえれば、かなりを大人たちとは違った観点も込みで学ぶ機会を持てる。
 そういうことの蓄積と忘却の繰り返しの中でヒトの集団の営みが培われてきている。いつでも途中経過の姿とも指摘できそうだ。

 介護の現場に馴染む初期の段階は、一通りを習熟できた特定のだれかが担当して教育を担うことになっている。
 知識・技能の類の基本をとにかく身に着けてもらう。それらは、基本ということで、他の熟練も中堅も初心者もだれもが共通に尺度を持ち合える類の事項と指摘可能だ。
 けれども、だれかれと、(たとえ介護経験者であってもその現場における基本ということを習う初期においては、一応白紙の状態と見なしうる)そのだれかへ現場感覚から、親切心や自己顕示欲やがまじりあって色々を教えてかかるような事態になってしまうと、その現場におけるないしその介護事業を担う会社のくせないし基本方針のような辺りがまとわりつく知識や技能の形の介護現場担当が踏まえたうえでの現場応用とが混在したなにかしらを提示されて、基本形のものさしを持ちにくくしてしまう。現場ではなにかと個々の応用技がものを言うから、基本形の上で発揮されている応用ということの姿を基本形としてまず体で覚えられる機会を持てないと、ずっと混乱のままな状態に、そのだれかをさせかねなくする。
 ということで、基本形は飲み込んでもらえたよ、指示があるまでは、とやかくそのだれかへ既存の現場担当はうるさくは指摘したりしない。
 基本形を身に着けてしまえば、個々応用からの指摘があった場合でも、基本形に基づいて、受け止め可能で、その指摘、学ぶところ多いな、という場合もあれば、理不尽と受け止められて、上司へ、変なアドバイスする先輩がいるんですけどぉ・・とかフィードバック可能にもなる。

 とこんな事例を持ち出して、列島古代の件の続き。
 列島古代において、分散的に集住してそれなりに自律的な営みを成していた各地へ、もう少し意図的にまとまってそれゆえに可能になることを長年月計画でやっていく来ましょう、と初めて、簡単に意図をわかってもらえて賛同を得て、順調に物事を運べるならそれはそれ、でも今でも世界においてはうまくいきそうでいってないくらいだから、その昔だってその試行錯誤は大変だった。
 発明した"天皇"位置の担い手は邪馬台国以来の後々には科学的思考とも折り合うはずの呪術師系の統率に慣れた人々を採用、そして実務では奥義込みで後の藤原氏北家を成す人脈に委ねられた。だから、その基礎のまとまり伝承系統を成すまでも陰陽の技が使いこなされ、力業も辞さなかった。
 ただ、道長氏の頃においても、文書保存の感受性は貧弱だったようで、藤原氏脈においてすら気づける奴は気づける程度にしか奥義は伝承されてなかったのでは、と素人老人的には見ている。
 天皇脈に入る女性たちを支えた人々が、とにかく光明皇后の頃からずっと仏の中の真髄のような何かしらを引き受けて、仏の教条とかにも走らずだけど、基本を外さずで、列島の相当なブレをなんとか収めるような作用因を提供し続けてきた感じがしている。
 もともとが、個々の脈上の「神々」(神とかの単語で同一化することもまずいと思えるが)へのなんらかを下敷きに、書記での蘇我氏(馬子は百済僧に受戒を頼んでいる)以来のリーダー層が仏を大乗理念としてだから大げさな方での秩序形成とからめて取り入れている。聖武の頃以来、列島中央集権は大乗理念とともに始まってそうだ。
 易姓革命観念を除外できて、武士層の儒教の学びは、薄利でも相当な技能を注ぐ製品つくり発想を列島に育ててしまったと想像しやすい。
 そこら個々の自発的事業の展開まで可能な時期を迎えるそれ以前のまとまり感、税やそれを基盤の諸策が可能なるような発想を薄っすらとでも共有できて、それが継承すらできるようにして、だからこその弱者共同体ともとれる市民社会は成り立ちうる。
 その線からして、古代も現代も、まとまりへと誘う工夫の検証作業と、それを成すこととの並行性は大切だ。下手すると、わかりきったと自認しがちな中間管理職層が、下々に向けて言うことを聞け!的なまとまり型を目指させる趨勢を生じさせかねなかったりする。そこらは是非避けつつ、巧みを成し、より個々の自発性やを誘える、今必要な事々の膨大量へのアンテナが機能するヒトの集団性が活性しているといい。
 そこらが、簡単にたどりつけない距離に住み分ける人々の間で、今だとインターネットなどや時差やきめ細かさで非力なマスメディアなどが協働できて、ある程度のまとまり感を息づかせられ続けるなら、それなりに一方の世界国家的ディストピアとは違った、地球圏を育めそうな気もする。


 さて少し前の経済学著作から一般向けに出された吉川元忠氏の『経済敗走』('04 ちくま新書)を持ち出したい。
 氏の指摘から素人老人的な過去以来のあらすじを押さえた気になると、USは超大国であるということから自ずと地表面をなんとか活性的にまとめあげる役柄を担う帝国的な働きが期待され続けてきたと思うのだが、その役には不似合いなくらい自国の発展のために諸外国を利用することに長ける方で活躍しがちだったのではないか、それに鮮明に気づかれれば、US離れの趨勢は激化してしまうと、想像できるので、なんらか素人的ヒント発信のつもりで以下。
 その前に、USは(副島氏が紹介してくれた意味での)共和発想を根のところで持っていることを思い起こしたい。
 だからラムズフェルド氏のような発信もありうるし、先日のバイデン大統領のアイスクリームほう張りシーンのようなことも普通に起こる。
 特権気取りなニュアンスでの貴族風を多分嫌う。あくまでも通俗的に普段着的に、カジュアルなだれかでいいわけだ。
 役者諸氏だとそうは言っても、実は、ヴィンテージ物の普段着風を着てるんだ、値段はちょっと手が出ないくらいだよ、と余裕っぽくふるまう場合もあるかもしれないが、政治家はそうではない。
 ただ、逆に貴族風を装いたくなってしまうのがヒトのサガの一面だったりするから、USでの共和発想の持ち主諸氏であってもカジュアルは厭(いと)うようなだれかたちを演じてしまう諸氏もそれなりに多そうだ。
 USの民主党の人々にしろ昔以来を発想できる人々は根のところでは共和党の人々と同じはずなのだ。その上で、さらに民主党を選ばせた何かが途中で生じたのか、紆余曲折を経たのかだ。

 吉川氏の指摘からして、USにおける移民の問題はUS経済運営にとって根幹にかかわることだった。
 奥義を継承しているUS指導層にとっては、そこは譲れないことだ。
 ところがトランプ氏はそこに手を付けて、まったく作用系の外へと追いやったから、惰性の指導層は慌てた。そしてペンス氏やポンペオ氏らの脈の代表のようなトランプ氏に仕立てられて、列島でのネット発信でのトランプ氏応援もその辺りを汲む格好になって、相当におかしなことになってしまった。
 移民の問題は、US経済運営とどうかかわるか、吉川氏の指摘を素人的理解から紹介すると、その(合法、非合法に関わらず)膨大量が前提になるけれど、住宅建設需要と密接だった。20世紀末から現在に至るまで、USへの移民諸氏は、なんらか住むことが可能になり、その住むことをめぐっては必ず住宅が建てられたり、(中古などが)売買されて、巨額を動かしてきた。
 並行してクレジットによる巨大消費市場がUS独自に消費の膨大量を生んできた。
 投資や消費と所得を関連付けてそれらにおける関係を見出した式。

   Y=C(Y)+I
   Y:所得, C:消費, I:投資

 USではなぜか市場の趨勢任せゆえ、過剰設備をも極端に生じさせやすいようで、消費と住宅建設とかへつぎ込まれるお金がたっぷり生じている間に、過剰設備の状態を修正させるやり方が採用されてきた。
 なんらか経済分野にブームが訪れればそこへ過剰状態くらいまで設備投資が成される。けれど途中経過においては経済活動が賑やかとして成果を分かち合えてしまう。そういう仕掛け。
 ところが、USにも無理が生じて、これからもずっと景気はいいよ、の趨勢つくりが目的になるような経済の営み状態になってしまって、仮に(投資に向けうる)ドルが足りなくなるようならその方へ悪循環が始まりかねない危ないことになったこともあった。
 その時に、円安気運が続いて、基軸通貨であるドル買いが並行したので、ドル不足はずっと防げた。
 今日の円安は、吉川氏の紹介も参考にして、三方良しの策に近いと素人的には見ている。
 長期の見通しも、対象的対応も、ともに含ませる展望を持って対処できれば、慌てず、沈着に合算すれば、とんとんも可能になる。

 吉川氏はITによる人減らし趨勢を問題視していたようにも感じた。(デフレ要因)
 実際、人余りの話題は、適時登場してくれる。AI絡みでの話題が身近そうだ。
 余った人々は・・で、リスキリングなのかどうか。
 いつでもだけど、サギっぽい欲動で経済活動に参入する安直なのか、勇断過ぎるのか、とにかく困った人々も参加意欲は旺盛だから、学びの場の質を保つことへの潜入捜査部門は暗黙にだけど欠かせそうにない。若い、お金の準備の無い連中がカモにされることは避けないといけない。

 大きくは仕事と生活との絡みにより関心が持たれるようになって、職住は離れているけれど、理念的な農業活動のように、無茶しない給料仕事と、人生の中で位置づけられる生活の構成などを集団の営みの中でお互いに工夫しあえるその冴(さ)えの辺りの現代版を実現できるかどうか。

 

  川柳もどき(度々の娯楽版)

   ナメクジは線虫が寄生しやすいので注意が要る(要勢い水の手洗い)
    とはいえ、ナメクジのキャラを確かめたくなる
    ちょっとくすぐってみたら
    わずらわしがって
    いきなりガリッと喰いついてきたっ!
    ナメクジの名に、ナメンナヨが似つかわしい