連載は続く~ SF 掌編『鬼界彰夫訳『哲学探究』(’20 講談社)』編


 読書する癖(くせ)ではなくて、読書に関わる癖という話。
 たまたまの脈絡からウィトゲンシュタイン氏の『哲学探究』を図書館から借りてきて読み始めた。
 癖の辺りは既に起動していて、目次ほかをざっと眺めて、筆者コピーしとうこうとか想念しつつ、
 ”そもそも進歩というものは、”とはじまる序に目を通し(おおまかに著者自身による意図が仄(ほの)めかされる)、"パート1(1-133) 言語と哲学―新しい言語像と新しい哲学像の提示―"とある扉をめくって、第一章 言語とゲーム―新しい言語像 (1-25)を読み始める。
 (a) アウグスティヌス的言語像 (1-4)において、2のところで”完備した原初的言語”を著者は具体的に例示してくれた。
 建築者Aと助手Bとが石材のうちのブロック、円柱、板、角柱の受け渡しに関わるコミュニケーションをこなせる過程が、建築石材移動工程と重なる。
 石材とBが認識しているかどうかはどうでもいいことになっている。
 建築用石材が現物としてそこに用意されていて、しかも、作業行程上意味を成すようにAが円柱と言えば、Bははいそれは円柱ですと認識して満足することで終わるわけではなく、円柱にあたる具体物を必要な動作、位置など総合の形で運ぶ。その一連の作業と結果を含めて、その円柱単語が引き受けていたということでの、完備された原初的言語という著者ウィトゲンシュタイン氏の翻訳されたことば上の指摘を素人読みは受け止めた。
 そしてもう少しざざざっと読み進める。
 一ページも先ではない(b) 「言語ゲーム」という概念 (5-7)の初めのところ5のところにて、訳書のp24初めの数行のところだけど著者ウィトゲンシュタイン氏は、(ここから引用)"子供は話すことを学ぶ際に、"(引用ここまで)と(ここから引用)”原初的な形の言葉”(引用ここまで)を関連付けて説明されている。
 素人読書の癖がそこらでつい働いてしまって、確かにその箇所にて著者は(ここから引用)”概念”(引用ここまで)の問題について率直に指摘して、その働き方としての言語の働きをもやで覆ってしまう性質を踏まえて、(ここから引用)”語の目的と働きがはっきりと見渡せるような原初的な言語の使用に即して探求すれば、霧は晴れる。”(引用ここまで)として続けて(ここから引用)”子供は話すことを学ぶ際に、こうした原初的な形の言葉を用いる。その場合、言葉を教えることは、説明ではなく訓練である。”(引用ここまで)としてしまう。
 含みをそのまま受け止めて流し読みする限りでは、その帰結の辺りにも合点がいってしまいそうだ。
 けれども、素人読者の読書の癖ゆえ、そこで躊躇が入る。
 ことば初年者にとってのこどもたちは視界を埋め尽くすそれぞれとして要素的に見ているのだろうか、という疑問。著者は概念への問いを持ち出していた。だからそこらを含めての探求なり考察を意図していそうにもとらえうるのだが、どうもここらの文字面から読み取れるニュアンスは、子供たちは、区切られた物々(ものもの)の要素で充ちているような認識の状態を既に前提にしてしまっているように素人読者からは受け止められた。
 視野を使い慣れた年齢に達している助手のBならばなんなくこなせることも、分節化の初歩すら達して移送にない幼年期の子供たちにとっては、名称付けすら冒険に近いはずだ。
 区画がどう作用してくれるかの"ヒト性”慣れに乏しいのだ。
 が、やがて付き合いの中でことばのやり取りの中で、仕分けの対象区画"化"に馴染んでいけてしまう。
 そしていつのまにかことばを使い慣れる。概念化のウソの受け入れがし易い流れとしてそこらが活性していたわけだ。
 学習の到達度の個々性発生について、そこらを押さえておければ、どう区画化の世の中が期待している区画のし方の独自的な厳密さを時代相応にこなしているかどうかの辺りと関わるから、その内面での作動の肌理を探れることでの、”改良”くらいなら本人に希望に応じてある程度可能だろうな、程度のヒント発信くらいは素人老人くらいになるときっと多くのばあさん、じいさん連中とともに主張できそうだ。
 とにかく、この読書の癖によって、その先への誘いよりも、既に、前提を困らせているのだから、まずはそこを解決してから論を展開してくれないとの、心配性が先走ることになってしまって、折角の読書の機会は失せがちにする。
 ウィトゲンシュタイン氏の知性に接する機会を今回も失せさせる気配だ。


  川柳もどき
   網野善彦氏は百姓の百姓性とその含みとしての元気度合いを、単に打ちひしがれる貧しい生活を我慢してきただけのような先入観を生まない歴史読みの可能性を一般読者に伝授してくれた
   世間離れした歴史学者諸氏だとつい民衆ということばに逃げてしまいがちのようだけど、網野氏はそうじゃなかった。民衆は使うけれど、民衆の一般史などありえないことをごく厳密に承知されての学問をされていたと素人読み。
   ニノチカの主役のお一人の貴族の生き様、観念にきっと網野氏の描く巷の人々は感応できる。けれども、自分たちは家族とともにありたいだろうな、と思わせる人々を描いている感じだ。映画ニノチカの顛末と似てきた。
   支配・被支配の区分けで歴史を見てしまうことを超絶的に超えていることすら気づかせない手際で、人々の元気の度合い、継承の様を描ききる歴史学者諸氏。
   記紀をプランAなりプランBとして、中央集権の先の可能性としての満遍なく同時代に居合わせた人々がおたがいさまを達成できているなり、試行・志向できている事態を想起して、照らしての分権とか、自律とか自由の問題を可能性の方に持ち込める辺り。
   奥義(おうぎ)をプランとして持つことを可能にできて、解釈の分化のことが追々わかってきて・・とかの途中経過の大混乱を始めて経験してしまった世代は酷(ひど)いことも含めて成してこられたようだ。
   今なら、それらを参照して、そこは避けるべし、と察知できれば手法としての別の採用ができるか、しないとまずいわけだ。
   諜報利害からナチ賛同勢力を使ってしまったUSのお荷物ゆえの大混乱を今世界が経験している。だからこれからはたとえ大国USであっても別の大国であってもお互い様を前提として拒否する集団活動を悪用することは、してはいけない事に属すると、決めておけそうだ。
   だからって、他国へ無理やり押し入っての解決を目論んでも、今時の可能性段階への仕打ちに近い。
   超大国USが種をまいて、追々、悪を使って、問題解決しながら悪を自滅させるなりで、葬ってきた手法で流せると思っていたのかもしれないが、今の事態は、エネルギーや原材料価格上昇による主要な欧米各国の見た目インフレ状態を生んで、その策としてなぜか中央銀行の策が採られて、その方の影響が、弱小国の中央銀行の同様の策での応じ方を仕方ない形で誘って、経済をお互いに疲弊させている。
   主要な欧米各国は日用品の物価上昇すら招いてえらい騒ぎになってしまったが、弱小国のなかには金融上の都合からとても不利になりかねないゆえに中央銀行の同様の策を採用せざるを得なくして経済を壊しかねないようにしているという、とでも副作用を撒き散らしているのが、超大国のUSである、というなんとも困った姿だ。映画でもドラマでも食えないギャグのような話になってしまいそうだ。
   中国の唐の一時期の知見からすると、ナチ勢力とロシア語を話す勢力とがウクライナ国内で死人も出すような騒動になっている時点で国連なり、世界のマスメディアが問題視できる態勢が必要だった。市民社会化が進めば進むほど武力での解決は避けたくさせる。今時はかつての両大国USとUSSR改めロシアくらいしが実力を持って、相手を静めさせることに加担してくれる兵士たちを沢山抱えている土地柄はなさそうだ。貧困と脅しと洗脳手法によって弱小国の中にはそういう人々を強引に生んでいるところもあるのだろうが、今時、大国的振る舞いを踏まえた制御された押さえ込める軍を作動できる大国はごく限られている。国連の機能の補完を充分にできるところは限られている。
   武力を解決の手段にしないヒトの性(さが)が勝(まさ)ってしまうありかたは、生活感覚からして、それほど悪いことではないと察する。それでも弱みを見つけて、襲い掛かるあくどい企みへは、それなりの注意報がいつでも必要になる。
   巷での(こどもや弱者に向けての)DVだって見ぬふりでは・・・の類はいくらでもでてくるだろうけれど、そこらと混同してもまずい。並行して注意報が要る。
   最近は飼い犬たちで溢れているけれど、散歩中のあふれかえる最近の犬たちはとても愛想がいい。飼い主が好いからなのかなんなのか、動物たちがわずらわしがるのとはちょっと違う。