連載は続く~ SF掌編『「織物」説をちらっと思い出す』編


 とりあえず地表面印象的な生き物系については、体内系となんらか関わる成分との関りで次代をつなぎ続けている。
 胎内でなんらかを(卵とか胎生っぽく)形作ってくらいの方が今時の人々にとっては馴染の"現象"と言えそうだ。
 だから、と、強引にSFに移らせてもらいたくなるのだが、その前提以外の生命の持続性の在処(ありか)は、で身勝手に想像してみたくさせないか?と諸氏に問えそうだ。
 外で、なんとなくいつでも生命が生じ続けるので、体内経路はまったく発達しない。不適切な方でいつでも結果的淘汰を経る(体構成的)仕組みとなってしまう。
 直観的には、大抵の諸氏にとってなら、それって・・・・かなりの程度に味気ないんじゃない?!!となりそうだ。素人SF発信の担い手の一人の老いぼれとしては、そんな想像が思い浮かぶ。
 直観的なくらいに、多分、だけど・・、生き物の多くは、そこらのうるさいやつらの強力な作用に振り回されがちにして、でもそれをしっかり受け止めてきている、と推測したくさせる。
 だって、と余計なことを言えば、実際の人々に限っても、様々に人生を彩ってしまいがちにするのがその作用だったりする。次代を継承させ続けるその強度こそが、人生を時に波乱へと誘(いざな)い、時に幸せ感たっぷりの一瞬を演出しさえしてくれる。けれども、物語の類へと誘(さそ)うくらい、大小様々に現れるだけにしろ、波乱万丈の素になってきた。じっと我慢し続けて、人生時間への制約を濃くもしてきた。大変なストレス因だったりもしてきた。
 子育てとか、それに伴う快と関わるなんらかがせめてもの救いのように作用もしてくれて、だけどそれでさえ過酷ななんらかへと作用する偶然だってないわけじゃないから、たったそれだけのことなのに、物語の素材を延々と提供し続けてきた。
 だから思い切って、SF だったら、そこらの関与系を端折れる、生き物の別のあり方が成り立つ前提を"捏造"してみて、そこから新たに地表面生き物世界を SFにしてみせれば、オルタナティヴなヒトが生じていて、生活していて、オルタナティヴな人生たちが、どう生きているのかなどちょっと生活の様子など覗(のぞ)いてみたくなりはしないか。
 巷では、とにかく勝手に次代が誕生し続けていて、だけどべらぼうなことは起こらずなんとか、やりくりできるようなことになっている。色々な生き物たちが、偶然も重なって生じて、次代を繋いでいる。
 RNA だ、DNA だ、と前提すると、多分、地表面条件下では、今時の人々が想像しやすいバラエティのどれかへと今時までの年月を経て成ってしまうはずだから、別の大前提をSF的には用意しないと、様にならない。
 今時の人々に伝わりやすいような、今時の姿に寄せてのたとえになるけれど、たとえば、カラスのようにヒトが進化してきた偶然の重なり地表面を想像してもらいたい。
 ヒトっぽく形付いている生き物たちは、今時にとってはカラスの中身に近い。
 すると、カラスたちは、ヒトを見て、一つ一つの指を動かして、一体、こんがらかったりしないのか、とか、容貌が自分たちとかけ離れていて、とんでもない表情をいつもしてるな、とか、羽毛がなくて、寒くないのか、なんて心配すらしている。
 その極端な形として、SF想像後の地表面は息づいていると見てもらいたい。
 なんらか要素は関わるけれど、かなりのランダムな世代継承だ。世代と言っては、誤解が生じかねない。だれかの胎と関わる形での継承ではないのだから。
 同じ地球表面系な仲間とは言えそうだけど、それ以上じゃない。
 そんなやつらが億年単位での生命歴の積み重ねによって、文化も構成するようにしている。一応、結果的淘汰を経て、当面の環境にはなんとか通用する身体性能を発揮できている。
 想像だけど、動植物の分類はあいまいな生き物たちで満ちているけれど、中に、今時のヒトのように生意気にも観念操作を育んでしまえた生き物系が育ち続けている。姿をパタンにはめ込められないくらい様々だけど、とにかく似たのがどういう継承を得られたのか、次々と生じる新生命の似た者同士として、文化を担い合って生きている。
 SFのヒトに限らず、すべての生き物たちが、内を時代繋ぎに必要としていない、今時の人々からすればけったいな有様を呈(てい)している。


 大昔の、今の時点から用語化して指摘する宗教事象には、今の時点からすると諸芸が一杯詰まった事象として理解しなおすくらいの作業が、実は要る。
 今に至る途中のある時点から宗教部門が観念操作上も分離したような要素に絞り込まれる活動域が成り立つようになる。それでも内部、外部の区分けは、あいまいさを伴うのがヒトの成す諸々にはついて回る。
 だからこその確実さ希求のバイアスのことは、いつでもどこかに想念しておくことが大事だ。
 かつての、今でいう宗教ことばが包摂する諸事象には、人々が生きていく中で諸困難に遭遇し続け、どういう回避、対処がありうるかで、知識、技芸の様々を試行錯誤するときに欠かせないそれらの結果的な持ち主とそう結果させる育てを込みにして、いつのまにか成立していた技芸・知見の専門家集団を眺めるようになっていた。
 その中で、先日指摘したように、固執できてこその継承の確実さの保ちを担う立場の人々と、もう少し推論や実験やに加担できる立場の人々や、それらを傍目で見ていられる立場の人々とが、協働しながら、実際の生活の形を為し、継承していた。
 が、固執系がその観念系では対処しきれないことに気づき、実験系がなんらかを発明なり発見して形と為そうとしているときに、傍目の人々は、確実さを支えてきてくれた固執脈が変節されたらきっと困ったことが起こるとか失敗過剰になって大騒ぎでもすれが、それはそれはの時代趨勢を生じさせたろうな、くらいの想像を一方に置けそうだ。
 そうではなく、の想像も可能だし、そこらは諸氏において時間がおありならちょっとなさっていただきたい。

 中央集権化試行錯誤の過程においても、余計な犠牲は不要とリーダー発想なら当然思うから、計画プランが決まるまでの、あくせくもそれなりに想像できるが、そこらはなんとか経て、として、このプランをどう推し進めることができるか、という段では、世間のうるさ方策が、ありがちな世の中では模索されそうだ。
 中央集権をイメージする側が偏って、怖い方の SF が描く、動物農場スタイルで頭に置くならそれは、ちょっと違うと指摘できる。
 各地がなにかと争いごとを生じやすい利害の調整能力不足が蔓延してそうな土地柄をちょっとだけ想像できればわかりやすい。
 そういうことを持続的に無い状態で、しかも、集積による恩恵部分の応用力をより盛んにできる工夫の辺りだ。
 そこらを思念しつつ、異論の出方が強引だったり将来展望上、混乱しか生じさせかねないな、と憶測なり予測が立つと、そうならない犠牲も生じにくい手法を政治的にはその都度即出し続けなければならない。それくらいにはしっかり実践的タイプたちが担っている。
 そして、と後付け的には、列島の古代史、その後の歴史が語ってくれるようなことになった。と素人的には端折って、指摘できそうだ。
 列島の古代史をしっかり整理しなおすと、今にまで通じる、根拠ある通史が描けそうな気配だ。
 しかも素人老人観測からはそれは継続中だ。ワクワクしてこないか!?
 そして列島で閉じて成り立つものではない、ヒトは僻みっぽいし、簡単に信じあえたりしない。もちろん、出会いの偶然が簡単に信じあえるように仕向けるという個々の事態を否定するものではないけれど、これが集団間、となると、サギ的駆け引きが個々で生じるよりも手が込んで使いまわされて、と混乱の上に混乱を招くというようなことも土地柄によっては生じさせてきた。そこらを、危ない要素も含むから全面的に支持するものではないが、生真面目を強いる観念教義を、ヒトの営みとして、有名どころをいくつか今日にまで継承し続けている。それくらい集団間を円滑、円満に、平穏に保ち続けることにはヒトヒトヒトの努力が欠かせなかったりする。
 そういうわけで、そこまで世界ってせこいか?と若年層からは逆に問われそうだけど、僻みっぽい思惑、名誉欲とか、むせるけれど"誇り‟だらけだったりすると、深謀遠慮というのか、相手をいかに大事に思っているかを演出も含めて示すことが必要になったり、立場次第では大変な人生時間をそこへ費やすことになる。
 それでもそうやって、信頼しあえた時には、無駄なことをしたけれど、信頼のためには貴重な時間だったんだな、とか人生の思い出にできる立場の人々が後日談を本にして残したりメモを残したりしてきた。
 日頃から相手の語用に慣れていることを欠かさない立場で、万が一のホットラインは、急場をなんとか平穏へと誘ってきたというのは、逸話なのか、実際に大変に緊迫した事態だったのか。とにかく、ことばは交わされて、活きた場として営んでいないと、ツーカーでの対処に遅れをとらせかねない。ネットの時代も同様。

 そこらでつい、土地柄特性などどうでもよくて、皆が皆、コスモポリタンになってしまえば、地表面各地が平穏無事でいられる、とかそれこそ身勝手すぎる想像に走らせそうだ。
 実際には、考え方としての身に付き上は、だれかれ分け隔てなくとはいかないかもしれないが、土地土地の具体的制約を相当にしっかり学び継承し、その改良も並行させて、土地土地ならではの快適な生活の形、質を成し、それも継承可能にする。
 そこに先の一般性観点として、確実さの保ちのために、伝統知の継承に固執しなきゃならない立場の諸氏とそうでないいくつかの立場のせめぎ合いはいつでもふつふつとしてしまう。
 そういうローカルな政治の場へ、コスモポリタン発想に近い中央の官僚組織からの派遣員が、中央の思惑を強引に押し付けるようなことを、中央集権化試行錯誤の過程では仕方なく(混乱をできるだけ避けるために、うるさ型のリーダー層やその直属の集団の営みなどを相手に)力を行使するようなことも起こり得たし、そうではなく、個々の利害を先行させて狼藉に出た人々も歴史に名を残す。
 そういうことがないようにする一つとして、素人流大雑把手法としては、中央派遣員と地元のオルタナティヴ脈と、固執脈とが、頭を突き合わせて時間をかける、ということを以前、指摘してみた。
 ここらは地表面規模での試行錯誤にも指摘できそうに想像しているのが素人だ。
 でないと、翻訳本で読めるように、生真面目なオクスフォード卒の中央からの派遣員諸氏が相手側からすれば一方的な啓蒙活動によって、植民地経営の犠牲のようなことを強いられるような結果史を残す事態を招きかねなくする。
 地元も中央集権化の試行錯誤を欠いていたりすると、土地土地の個々の利害に固執するだけのようなボスたちが、不良たちに乱暴を働かせて、巷をおとなしくせるタイプの荒々しいほうでの秩序しか試行していなかったりで、落ち着かせどころの探り合いには途方もない時間がかかりそうな風を発散させかねない。戦国期を経させないで、そういう乱暴な秩序形成の浪費について語り敢えて、リーダーの発想転換を誘えれば、官僚気質よりはよほどヒトの心をも包摂するタイプたちのはずだから、その後の展開にとっても、大いにやくだってくれるそうに想像する。

 一応使ってしまった包摂、ということは今時だと通じやすい用語だ。
 列島版の仏の脈は、列島の人々を、仏教徒ではないにもかかわらず、ずっと包摂してきた非常にあいまいなというと少し綺麗すぎるか、鵺とか、その手のことば相応しいくらい、とらえどころのない、寛容なあり方で、まとまり感の達成へと邁進してきたように想像しやすい。
 勘違いして、リーダー中のリーダー的立場が、政治に力の政治を持ち込もうとすることを、避けさせてきたような工夫の跡も素人からも探れそうな気がする。
 秩序のためには、つい強引な力の行使が要る、と思えてしまう勢力を巧みに排除し続けるその離れ業を、学者のしつこさで解明してしまうなら、列島の芯の一つくらいの解明ともなりそうだ。
 でも継続中だから、本命に届くかどうかはわからない。
 世界事情においても、三方良し的に考える経営学者が育つくらいだから、継承の脈はたたれているどころか継続中と思える。
 しかも、心配過剰層や、諜報脈のやりすぎを抑止するために武力行使を余儀なくされるどこかしらの立場も無くしきれない制約条件が露見している今時なのだ。
 極端に持てる脈における仕掛けの発想の中身が今時、かなり問われ始めている、とも素人の老いぼれ的には指摘してみたくなる。
 リーダー層が円満にニコニコで、そこから外れた勢力が苦虫をつぶす、みたいなシーンよりは、お互いが切磋琢磨の緊張感を発散しつつ、情報交換の濃密度が(敵味方的ではない意味合いから)錯綜できていることの信頼感が地表面に漲(みなぎ)っているような世の中の動いている様の方が、学んでそのやりくりのどこかに参加したくさせないだろうか。

 薬師寺の僧という僧景戒氏(生没年不肖)が残した『日本国現報善悪霊異記』は、平安時代の初期の作品。
 そこでは、形容からし聖徳太子のことを(平安期にはことばとして成立していたはずの)天皇扱いしている。
 日本霊異記が改変されたのか、歴史家諸氏の研究がそこを無視して平気でいるのか、そこらは素人老人だけどまったくわからない。
 平安初期だから、平安京遷都からそう時はたっていない頃、と勝手に想像すると、一応、日本書紀の成立が720年、としてみても、100年間かプラス少々くらいの記憶だ。
 文字、巻物文献が熱心に作られ、使われ始めたころと想定すると、景戒氏へ伝わった聖徳太子天皇説は疑わしくない方の確率が高いと見なせそうだ。
 そういう前提で、改変の噂かまびすしいはずの日本書記を振り返れるならば、聖徳太子の名をあてはめれる天皇はだれだったのか、ということに行きつく。
 そういう作業も多分、欠かせない。