連載は続く~ SF 掌編『大震災に遭ったとして、今時の情報面からは地球人の一人として見られている』編


 色々問題がニュースの形と取って持ち出されがちにしている。
 とはいえ、格差の肥大化が底をしっかりと支えていて、一向に事態の改善へと向かう仄めかしすら感じられにくくしているのが実情に近そうだ。
 金融商品の数々を使いこなす上で生じがちにする誤差の類がそのままその日の暮らしの多くに、ないし一週間程度の生活の趨勢に影響しやしないのが巨富の巨富たる所以に近い。
 大金持ち程度の人々はきっと今時かなりの数いらっしゃるだろうが、その"定義"もそこらの誤差の影響圏の違いとして、巨富層とほんのちょっと近そうだ。
 そうはいってもほとんどが、その誤差が生活の質を直撃してしまう程度の収入構造と共にの諸氏のはず。
 それくらい、今時は勘違いがはびこっていて、誤差など(もちろん元手を減らすとか儲けの一方で損やが生じたりで心おだやかでなかったりのようなことは当然起こる)、程度の諸氏が少々とほとんどの、誤差とか物価の変化がもろ生活の質に響いてしまう諸氏との格差が厳然と継続中だ。
 しかも、素人老人的な知見の歴史的継続性の観点からすると、生に直面している若者諸氏がどう受け止めておられるかはひとまず棚上げしてもらって言うと、何か変化をもたらす試行錯誤の歴史的継承の中で、株式市場を盛んにして、そことからむ陣容がなんらかそこらに関わりうるような目論見が20世紀終わり近い頃から今日にかけて続いていて、それがどうやら思い通りになっていないのでは、と、一面、好意的に見る。
 一面だから、他面なり多面的には、問題を相当に副産物として残し続けてないか、と問える。投げかけも出来る。
 納税番付同様に、表舞台で巨富っぽさを演じて色々話題を撒く一方で、様々に圧も受け易い立場を得てしまうだれかたちのことは、一応、ちょっとだけ同情的に見ておきたいが、継続的に巨富の境遇を得て、組織的な活動をなさっているそれなりに膨大な諸氏こそが、組織なりが、問題解決の一方を引き受けうるという見方も、だからこそ可能になる。
 雇用と物価の安定こそが、為政者なり専門家、事情痛諸氏の技の見せ所のはずだったけれど、相場を動かさないと稼げない方で株式手法を肥大させてしまったので、そこらについての勘違いも相当に肥大させてしまったようだ。
 とことん老人年代の素人経歴からして、株式市場を大切にしうるのは、銀行とかからの借金苦での自殺者が頻発しすぎていた時期的反省が底流としてあったと若者諸氏に紹介できる。そういう時期が列島も含めて世の中に生じていたのだ。
 で、責任逃れというわけではなく、また立ち直りとか再度挑戦とか人生を終わりにさせない工夫としての法治との絡みも含めた経済活動上の工夫としての株式会社化への趨勢を歓迎するようなきっかけのあったことを、過去の新聞記事やニュース録画とかで確かめてもらいたくなる。
 えっ????!とほとんどの若者やかつて若者だった仕事人生現役層の諸氏はおっしゃるかもしれない。
 そんな株式市場じゃないでしょ・・・。
 そこらも同情的に素人老人はコメントしておける。
 一応、株式市場が活性状態になっていないと、株式会社はできたれけれど・・になりかねない。
 だからお金が集るような動機付け作戦は相当に工夫され続けている。
 一方で、株式市場への工夫は19,20世紀のりの惰性が続くから、それなりに稼ぎの策略がこんがらかり以上に絡んでしまう。しかも結果巨富を沢山生んで、そこから抜けられなくなっているし、他人を支払い手段の寡占の度合いに応じて使えてしまえる実質が伴うのだから、余計に格差問題を肥大方向へ誘ってしまえるわけだ。
 より突っ込んだ経済についての思索をヒトは忘れてこなかったから、帳簿の経済学側面も一方に息づくけれど、ヒトの活動を踏まえた経済学の観点は、結果作りすぎるし、同じように手に出来ないから、そこを時期、時期に応じて、ばら撒く(というと今時の慣用からして悪いほうのニュアンスでとらえられてしまうかもしれないけれど、昔の建て前儀式におけるばら撒きへの歓迎に近い、といっても若者諸氏には伝わらないか・・)。たまたまその経済サイクルにおいて溜め込めただれかは、気前良くばら撒いて、そのサイクルをしめくくる。すると巡っていてこその支払い手段(金銭タイプだったり物品だったり)だから、再び世の中に活性を生むことに通じてしまう。
 ヒトの活動は、活発に放置すれば、必ず不平等は生む。それが極端なほどヒトの生活を困難にしない程度のところで、サイクルを中断して、ばら撒いていれば、その活動自体は致命傷とはなりえない。
 でも一種の市場任せというか、成り行き任せの状態では、できることもできないままにしがちだ。
 そこらを中央集権発想が、各独立の営みを更に可能性に挑めたりの機会提供に役立たせられるようにする目論みに使われるようになる。
 支払い手段をある程度の規模集めて、人や道具を開拓、集積できることで、構想だけだったなにかしらを実際の形にしてその先の可能性追求へと誘える。
 小規模な事はずっとヒトゆえに試行錯誤してその実績経験は積んできている。つまり事のどういう性質かには精通して理解もできている。
 だから、いざ、その方法的整理がうまくできはじめると加速度的に様々をこなせるようになってしまう。

 発明発見は、真似して工夫しての機会をじっくり時間をかけて経験できた土地柄だと、他所からすれば発明発見を知らず知らずこなしてしまっている、というようにヒトのこととして生じがちだ。
 たとえばゲームでの The cockpit は様々に派生しえた。参考に出来た諸氏にとっては偉大な発明だろうが、作者氏にとっては、学んで、工夫できた経験の一つと映っていそうだ。
 列島では職人が育つ。それもじっくり時間をかけて熟練というとてつもない肉体(観念系もそれに伴う)が育つ。
 でもそれは列島に限らない。世界中で、時間をかけて育ててきた。時間をかけずに質を犠牲にして速い仕事を歓迎しがちにするのはごくごく最近のことに過ぎない。
 実際的時間ということもあるから、そこらは実際には大変な事の方が多く生じてきたとは思えるけれど、それでも、育つ時間的な要素を指摘しておくことが要る。
 平城は・・・と素人考えを以前ここでも指摘してみた。
 当時の海外知見を得られやすい条件が伴っており、当然といえばそうなのだろうが、とにかく学び、持ち前のなんらかの応用の形として表現してしまった。
 だから、とまたもや素人式に端折ってしまうのだけど、列島各地に海外との出会いの機会を得てそこから刺激され学び、熟練や職人技でそれに応えて自前の工夫を形にしたものが作られ残っていたり継承されてその継承ゆえに形が残っていたりをちょっと旅行する程度で観察できる。
 もしも、海外の諸氏において、相当に熟練を積んで、だけど発想上手詰まり感をおぼえ、迷っていたりの状態だったら是非列島まで足を伸ばされて、現物を観察して、ちょっとその由来云々など知見も得て、出会いが形を生むその経路を想像されて、新たな今日におけるきっかけとできるのでは、と素人ゆえ簡単に想起してしまう。
 自前の技が、出会いの対象である別の脈絡で出来上がったなにかなのに、そこできっかけを得て、その由来の応用だったり、その由来とはまったく別物を作ってしまったり起こりうるけれど、それを職人仕事の質でこなしてしまうケースに出会い易いのがかつての列島だったりする。そしてそれが未だ残っている。
 今でも、企業活動のどこかしれで、そういった学びの成果が沢山生じているはず、と言えてしまえるのが列島の職人気質が消え去らない現状程度を感じる素人老人だ。
 海外系の職人でなくても、真似て、それだけにしない工夫のあり方の一つを、手仕事タイプでたっぷりみることができるのが列島だから、そこらは一般の海外の諸氏においても旅行した後に、なんらか手仕事する人生上の刺激を得られるのでは、など余計なことを言いたくなるのが老人年代だ。

 さてわき道にそれすぎないように、戻そう。
 素人老人年代的には広瀬隆氏や歴史家の網野氏の著作からヒントを得た辺りも以前ここでふれた。
 時代趨勢としてそういう企図が動いていたし、そうし続けてきたようだ。
 資金難のだれかたちが再起も可能になるような仕方で救え、でおさまることなく、金融打ち出の小槌策が肥大し続けてきた。
 そして、物価高が生活の質に直撃してしまう膨大な人々にとっては相当に辛い時期を迎えている。
 包摂の観点からは大成功していたオスマントルコの試行錯誤は、よりある一時のシオニズム勢力の暴走によって、更に、壊され易い状況を生んでしまったという不可思議な19、20世紀事態はほとんどの世の大人たちがわかってはいても、各地の様々性が温存されていたがゆえの奇異の知見(同じ死刑でもガス室を眺めるUSでの法治上の出来事の映画と比べて江戸時代の見せびらかし死刑と似たことを中東のどこかでやっていたその当時を思えば、野蛮との対比発想を生じさせる時期的な偶然は働き易かったと素人からは思える)が災いしてか、とにかく、欧米の先進性との対比で他の各地を見なすような趨勢を生じさせ、実は、ついこの間まで巷の次元で宗教信念をめぐって殺し合いの膨大量を競っていた土地柄であることをどこかに忘れさせてきた。
 そういうことだから欧米でも包摂は今日においては通用する合言葉のはずだけど、というか欧米からその概念を取り入れて列島でも学術用語にしている。
 ということは、実は、包摂経験の達人だったにもかかわらず統治策として、ばらばらにして争わせて治める条件にしてしまう欧米系の一つの策が浸透して今に至ることの困った様を、ニュースで見ることになってしまうのが、今時の若者諸氏だ。
 あることがきっかけとなって、とんでもが歴史的年月をかけた結果となってしまう事例だ。
 昔から、欧米に限らず、潜り込ませて情報を得て、混乱の種を撒いて、統治なりをしやすくする手法は使いこなされてきたのだから、宗教信念での争いごとも格好の餌食となりえたと素人には思える。
 それでも、しっかりと歴史的脈絡を具体的にたどるならば、より、なにがどう関わってか、の辺りは実質に近いところであぶりだされやすくする。
 老人の介護施設をじっくり観察できれば、世界各地が似たり寄ったりで、巷の人々だって、それほど優しくないと言う以上にお互いの人格を尊重し合うことには慣れないまま大人年代に育ってしまうことを知ることができる。
 そこにヨーロッパでのような宗教的信念の違いが争いを生じやすくするようなきっかけをしょっちゅう持ち込むような策動が行われるようなことがあれば、可能性に向けた観測や組織化や営業やなどは、この際どうでもいいことにさせかねない。日常が様々の思考が試行錯誤させて具体的に持ち出されて、試されて、形を成して人々の生活の質へと応用される好循環を生むためにも、そういった事態よりは包摂の巷に近づけておいたほうがぐっと好都合だ。
 しかも資金循環をめぐっての20世紀末から21世紀初頭へと試行されている金融市場依存のタイプが、格差が固定化しがちにして、しかも落差も極端化させやすくしている、という事態は、壊してどうなるというものではないから、流路の切替とか、工夫は事情痛諸氏なら、相当に既にお持ちになってそうだ。
 しかも、膨大量としてヒトの数までイメージし易くなった今日このごろの時勢にあっては、物価安定の一方に雇用も想起できて、その雇用の膨大量をどうする?はUS式でない場合、相当に工夫と思考が要るし、ヒトの世はUSと違って、そうしてきた。
 USだって、市場原理主義の一方で、しっかりばら撒いておいたので、激動の物価方式にもかかわらず路上生活者が急増、というのやニュースにはなっていない。
 ちょっと問題といえば、共和思想の革命発想が、なにかと原理主義的な問題定義発言を議員にさせがちにしてそうなことだ。
 グレタ・ガルボ氏が出ていたエルンスト・ルビッチ監督の映画『ニノチカ』では、相当に変わり者の貴族風男子が動き回っていた。
 けれども、そういう変わり者こそが、利害の落とし穴を避けさせる。しかし、巷のちょっとした利害で心を動かすほとんどの諸氏にとっては、風変わりもいいところの人物だったりする。
 USの共和革命発想は、貴族から一般人化へと誘って、その一般人風をもてはやす演出を多用しがちだ。
 けれども、ルビッチ氏らのヨーロッパの世代は、そこらのからくりをより歴史的に知見として別の世界を持てているようだ。
 個々の利害にもてあそばれる格差ゆえに物価高に翻弄されがちな人々の膨大量が、その膨大量でもって個々の利害を主張しはじめたら収集はつけようがない。
 そこでUSプロパガンダ手法が19、20世紀版として再発明されることになった。
 話題の焦点化を誘導してしまうのだ。”場違い"な話題を持ち出すことを心理的に避けさせるタイプのモデル化だ(空気を読めタイプの決まり文句を流行らせたのもだからどういう人脈かは想像できそうだ)。
 けれども、そこには、民主化の逆説が紛れ込んでいて、そこを責めてなにかいいことにつながる性質の事態ではない。だれだってさまざまに思い、他へ向けて主張しなきゃ、と思えるような状況を生じさせる事だってありうる。でも、そういう事態が一般的な話として持ち出される時、とてつもない矛盾を同時に想起させてしまう。
 そこらをヒトの世は大昔から気づいていて、工夫し続けてきた。安直に大国に誘われた(武力の強さを見せびらかす手法もその一つだし、暴力への頭脳(ペン)側からの工夫の面も含む)USが、ともかく19、20世紀の知見を踏まえて、その一工夫として用いてしまった。
 情報公開タイプの営み、工夫をしつづけて、それでも政治世界に混乱が通常ということにはしない、各地性温存と中央集権のありがたみが巷に行き届くようにし続けられるかは、当面、しばらくか、これも試され続ける。
 問題をわざと生じさせて、巷の問題提議に翻弄されない政治手法をプロパガンダ術は多用する。ということで、当面は物価高にもてあそばれるのが、より多くの世界の人々、ということになりそうだ。
 しかも、肝心の問題への解決に近づけさせるわけではない。

 各地性を忘れがちにさせて、困った事態を並行させてはいるけれど、集積を応用できる中央集権部分で、支え部門は保持、持続させえている偶然の世界の諸国が、困った状態をなんとかしようとできることは今時、大切な事だ、と包摂発想のなにがし程度であっても応用できるといいのではと思えるかなりな老人で素人の仄かなこぼれことば。


  川柳もどき

   衣食住のなにがしがしっかりできていれば(適度の緊張の分野)
    なんとかいい加減さが通用して、生活習慣病の多くはどこ吹く風と
    できるよ、な。