連載は続く~ SF 掌編『理念に"血流"をうながす』編


 高齢になるとどれほど日ごろの姿が元気であっても、ちょっとしたきっかけが急展開に通じ易い、ということは、介護仕事と一年間くらい付き合う程度でも、気づける。
 だから人生の長年月を緩急の濃密さを楽しいほうで実質のところで味わうような過ごし方をたまたま可能にした諸氏はストレス由来の急展開に誘われること無くそれなりの天寿を全うし易くする。
 そういうことから、栄養面でも外れたほうで過ごし易かった大勢という構成がありふれていた時代時代では、より多くの諸氏が、天寿の短いほうでの引き受けが満ちがちにする。
 そして幾月を経て、今時は、とりわけ列島では、女も男も相当な長寿の方の天寿を引き受けるようになっている。
 だからか、年寄りに向かうほどに、別の観念的とらえ方が要るらしいことに気づき始めたようだ。
 赤ちゃんの時期から、やがて成長して、初老の時期を迎え、そして晩年に至る、的な流れではどうもなさそうだ・・・・といった辺り。
 赤ちゃんからという感じで個々の成長の様を押さえるやり方だと、夫婦の営みという前史を形式上組み込んでいても、遡及の度合いはそこそこにしてだけどとてもわかったつもりでの把握に流しがちだ。
 ところが、やたらと多くの諸氏が長寿となって、その年月も数として比較してしまうと、とても半端な量ではないことに、気づいてしまった。
 若者のノリで、子作りして活発に家庭生活を学びつつ熟成させていくことの年月は、子供達にとってはかけがえのない、そうなんだけどたったの十数年間だったりするのに、子が手を離れて、そしてその後の年月と老年期以後の年月ということになると、人生の半分以上を実は構成していた。
 確かにヒトは知恵を応用しまくれる。そういう観念系を実力として持つ。
 そして思い込めた。親達年代がまず思い込みで伝承継承を果たしてしまって、それが継続する。
 子の立場から親年代を学ぶように観察できる。観察できるだけではなく、大人のことばと行動との整合性の如何のあたりを学び取る。
 地域社会のように大人の共同性・集団の営みが実は新規の参入者たちをしっかり迎え入れ、育ててくれるような質を大人年代に近づきつつ越えつつ体験できてそこらも継承する気にさせる。
 若年の頃からの知人友人間で形成される一種の油断できる空間享受なども地域社会の知らず知らず恩恵となっていた包容力が育んでいた感受性を具体的経験として印象に残す方で作用してくれる。
 でもだ、一方で、そういう理念的押さえ方は必須なのだけど、包容力豊にで育てることを厭う言論もそれなりの一面的説得力を発揮させるほど、その都度の関係性、機会での軋み体験はより溢れるばかりに個々が蒙り易い。
 そういうことに耐えられる個々になるように育てることの方が余ほど大事だ、というわけだ。
 そこらの込み入った辺りが生じてしまうのも、これまでの思い込みがかなり作用してしまっているからだ、ということを今なら指摘可能だ。
 お互いの尊厳を大切にし合える・・とかのことばにしてしまうと、法律とかその手の難しい含蓄を行為として日々守らなきゃの圧に体感させかねない。
 でも、言葉の内実は、実は、民主主義へと向かわせる理念とか志向と似て、大昔からヒトの集団の営みが大切にしてきたことだ。ただ時代時代のもみくちゃに合いやすくして、整理整頓できにくいままにしてきただけだ。
 生きていくことの難しい辺りの具体性と一般的対応性の観点から、多くの集団の営みにおいて一人前教育課程は、今の先入観から少しずれてもらって、想起できる必要を指摘できる。
 実際に役立つためだから、一面、厳しいところもほんのわずか含まれていたとしても、大半が、積極的に学び取れる動機付けを伴うものだったことは、その成功事例との符合への推察から自ずと気づけそうだ。子供の頃から少しずつ、年代に応じた事柄を教え蓄積させ、試させ、身につけさせ、他人への伝え方にも結びつくような内での育てに向けさせる。
 一人前観念は、当然、今時の固い概念としての民主主義理念よりも、実践的な、そして具体的あり方としての試される観念の表現に近いほうで、判断できそうだけど、民主主義の担い手に今の概念系よりは向いている。自惚れたほうからする啓蒙発想抜きの、距離感を認めうる民主制の担い手感が漲(みなぎ)ってそうだ。
 そしてその未完の試行錯誤をヒトは静かにずっと集団の営みの要素してきている。
 19、20世紀の欧米主導型の試行錯誤はそれらことばを借りはしているけれど、別の方へと誘い勝ちにしてきたように素人老人には伺える。
 政治がきつく硬い方へと先鋭化させがちにして、含みのところを見誤れば巷での極端が即生じるようなことにして、高みからはそこらを逆に利用して、地表面規模での策に使ってしまえとか思惑を膨らまさせ易くしてしまう。なんとかの誘いの一種に近い。
 ワルは使い捨てだけど、使えるときには使う、の方式を跋扈させがちにしてきた。
 それが今、ひょっとしたら裁かれようとしている。
 技能集団という(将来展望における確実さと密接な)生活力にともかく食い込んだ集団の営み性のほとんどを外へと放った後の宗教の営み集団という特殊性が、その制約の辺りに無知のままヒトの幻の営みに食い入るようなことをやりすぎると世の中はもともと脆いものだから、壊れ易くする。ワルを使える時には使い捨てにする方式を世界の諜報利害が応用しまくれば自ずから世の中は乱れてしまう。
 内輪のパーティの中でこそ指導層間の馴れ合いは警戒されるのが、集団の営みにおける注意点だったはずで、たとえ形の上だとしても、弁証法役割分担として明確に異なる志向の集団の営み間が、喧騒華々しい状態は、むしろ嫌な気持ちの方で受け入れやすい。だから、そういう犬猿の中が建て前上だとしても、バレバレな間柄こそが、演じることがバレてしまう素人芝居でもよいから、交流はしっかり保てていて、万が一の暴走はなんとか制御できているよ、のちょっとした信号を万人に向けて、今時のメディア状況なら尚更、いつでも発信できていることが、肝心、と素人でも指摘できる。
 今時は、まったく逆の状態にしていて、素人より下手な政治手法を派手に演じまくっている感じだ。冷戦っぽい演じ方は、19、20世紀の下手は手法の継承、と専門家や事情痛諸氏がしっかりことばにできるようなら、19、20世紀タイプの思い込みに誘う左・中・右の学問系統も含む文字の世界の数々も読み直される、し、別の脈絡も登場させうる。
 創業者たちが滅んで、ボンボンとかその系統のボンクラ諸氏が富を勘違いして我が物を奪われてなるものかの関心に固執してしまうようなら、たいしたことは出来ない。
 下々からすれば、持っていて、個々の多少の利害には左右されない頼れるやつらと性別を問わず見なされる観念の幻の辺りを指摘しておけるが、一方で、悪乗りも含めて、奪い返せの発想も煽ればそれなりの人気を博し易い。それでも大勢は賢いからやがて落ち着くところに落ち着く。
 無謀な方に誘われきれるということはヒトの集団の営み、個々の発想において避けさせてきた。ただ、ヨーロッパの人々においては、技能集団の要素を抜いた残骸としての宗教の集団的営みの経過の中での殺戮のすごいのをトラウマとしているはずだから、その観念のどよめきを整理しきれないまま諸外国へとその先鋭度合いから関与し続けてしまってきた辺りに気づいてもらって、諸外国が決して"遅れていた"わけではない辺りを欧米知見の蓄積からも今よりもずっと以前から知られるようになっていたのだから、過去は過去にする必要はあるけれど、民主とか自由とかが、欧米の専売特許以前にヒトの営みとともにずっと引き継いできた観念系であることに気づいてもらって、ただそれだけではなく、欧米政治思想で育ってしまった世界各地の心身に、そこらの反省的概念練り直しを、我が身には厳しくこなしてもらってその成果を包摂の方で外へと発揮してもらいたくなる。

 というように、仕事現役発想で邁進できる年代の人々においては、なかなか、気づきにくいと素人老人には思えるのだけど、元気なうちは、実はお互いなんらかその具体的場のなんらかに応じて「張り合って」いたりする。そこでの折れ方の工夫次第が、人間関係のそこでの具体像としてその構成の人々のキャラと見なされたりが生じる。
 そう一応、大胆にも、端折って、単調な押さえ方を置いて、一方にやり返せる老人の境遇ではない、介護が欠かせない状況をかこった諸氏を含む世の中の年月を想起してもらいたくさせる。
 介護ストレスは、巷の介護の担い手諸氏をして暴虐に向かわせ易い。
 なぜなのだろう。普段の上にちょっとふれた「張り合い」という圧の場を生きている諸氏にとっては空気と同じいつものことで意識ののぼせにくい。でも確実に直感的というより反射のようにして日々、時々刻々それらを駆使し続けている。それに慣れきっている。
そういう巷の人々のノリが、介護ストレスの猛烈なのをいとも簡単に引き受けることになって、やってられない!と心では受け止め、でもやらないわけにはいかない、という反射から、無理にやり抜こうとして、暴虐なだれかへと変身し続けてしまう。
 逆らう反応のなんらかは表現できる相手であっても実質がすでに伴わない状態の主に相当な年齢の諸氏は、その暴虐の仕打ちにたださらされ耐え忍び、困った方のストレスゆえの寿命食われの日々を送ることになる。フレイルの兆候が現れてもリハビリの巧みで回復させてしまう人脈は列島でも育っている。でも限られてそうだ。だから大抵のお年寄り諸氏は、そこらが天寿の終着点かと断念の方で受け入れることになる。
 日々の万人がこなす「張り合い」惰性が実は、特殊な生活手法要素だった、と気づけそうだ。
 そこを意識的に気づけるように出来るなら、実は、世の中の営みは、その不可欠ではないけれど、安上がり手法でもありうる巷特殊政治場における「張り合い」手法を相対化して、それが困った副産物を生じさせない限りで便法として行使すればよい。だって外交の場で、それ抜きに巧みの技を使いこなすことは、余ほどの暇がないと不可能に近い。適度の「張り合って」、個人的な仲間関係を表現してしまうとヤバイ方での利害誘導が生じるのではと憶測も膨大に膨らませてしまうのが、世界規模での外交のはずで、そこらは公人としての振る舞いの巧みの伝承が欠かせそうにない。巷に近づいての賄賂政治が、避けられてこその感受性が巷に普通に普及している状態は、そういう公人気質が表現されてこそだったりする。
 それでも、特殊を生きているわけだ。多少の「張り」に対して、喧嘩にしない巧みな「張り返す」技を使いこなせないだれかたちとともにある世の中の場では、別の観念系が育つか、混合、使い分けできていることが必須だ。
 年を取って、今の持続的・連続性を伴う記憶化に不得手となった老人諸氏は、そこにこそ必須のノリではなく「張り合って」いた頃の記憶が健在ゆえの、圧しの強さを発揮し易い。そこらも介護ストレスの元を構成しやすい。だからって、介護担当諸氏が、「張り」で応じてしまっては元も子もない、ということに、ここまで素人が強引にだけど説明させてもらったので、少しくらいは気づいてもらえそうだ。
 相手の尊厳をお互いのものと出来る事態は、張り合いならお互いがその巧みを駆使しうる条件をある程度同様に、にしておけないと駄目だ。
 まったくそれが通じない状況は、各氏にとって、晩年に近い頃だけか、というと、そうでもなく、100mを全力で走りぬけ切れない体調を自覚できた辺りから、だから、若い時にそういう境遇をお持ちの諸氏のことを想起できるなら、世の中の成り立ち自体がそういうノリの入り組み状態であることに気づかせるようにもする。
 ただそういう状況により遭遇し易いのがたとえば介護職の”現場”なわけだ。
 そしてそこでお互いの尊厳を保ち合えることを試行する。
 普段、巷での惰性感覚を相対化できたとき、その特殊性に気づけ、世の中の営みには別のノリも相当な年月、人々は生きていることに素直に気づける。
 しっかり生活習慣を身につけた老人諸氏の姿はというと、マスメディア発信賑やかな時代にあっても、マスメディアが仕向ける流行(はやり)の類の一部くらいは採用していても、音楽とか飾りとか、好みのなんとかとかの内容はマスメディア発信の影響外のことが多い。
 すると介護職の側が誘いたい会話のとっかかりを持ちにくくしたりもあって、やっかいな入居者っぽい扱いにしがちだ。
 しかし、そういう諸氏は、生活習慣がしっかりしている分、たとえ今の連続性についての記憶を保ち続けにくくても、生活破綻のくせは、今やったことのフォローの継承性とか規則性を介護職の方で補足できるから、対処の向きをとりやすい。
 しかも、しっかり自分を主張できる(言うことを聞かせたがるタイプに変身したまま介護職を担う諸氏においては嫌な相手となりうるのだけど)ことばもついてくるから、人格として面白いというか興味深い諸氏が多いと、素人老人介護職には映りがちにする。
 そういう親の子供達というわけではないと思うけれど、しっかり者なのかなんなのか、大抵は、通い易い近くの特養に入れず待機の間の入居ということで、より民間施設っぽい介護施設から、そちらへ時期が来ると引っ越されてしまう。
 ちょっと悪乗り・・の一億人版を想像してもらえればおわかりのように「張り合い」を避けえたとして、観察眼が認めた悪乗りをいかに制御し合えるのかとか、そう簡単に問屋がおろしてくれる訳ではなさそうな辺りは指摘しておいて、だけど別ノリが要る年月の方がべらぼうに長いよ、と添えてみたい。

 

  川柳もどき

   活発な連中がとにかく活動中で
   というような場合、隙がなんらか意欲していなかった悪乗りに誘いかねないとして
   それなら社会工学パスカルの原理応用の場、と言っておいて差し支えなさそうだ
   怪しい市場をつくって新規参入を歓迎してそこで貴重な財の循環すらこしらえてしまう
   というそこをすかさずか見越して、公務系もが開拓・参入を嗅(か)ぎ分けて先行してそこを占めてしまう、そういう各所
   ”ミイラ取りがミイラにな”らない巧みも並行させている
   過剰ノリの生き物達に未来はあるのか・・・
   過剰さが(ヒト助けを含むやりくりの為に使える)道具立てを巷に新陳代謝も含めて溢れさせ・・・
   ならば・・・
   そこをめぐっての争奪は生じさせにくいかも・・・の観測も成り立つ。
   この場合、過剰さが幸いしていることになる
   そして別のノリに気づける時・・・・・

* 細胞の個々における止むこと無き呼吸
* 必須要素の流路=血流
* 法律に通じてどうこうできることの一方にことばの運動性がその(法治)独り歩きがもたらす実際の場への制約強要作用の濃縮化に気づける法治通も、もっと言えばことば通も育ち続けて、円満な状態をなんとか保ち続けられる。
* というような心配性をはね除(の)けてくれるのが、別のノリが実はヒトにとっての長年月の辺り