連載は続く~ Sf 掌編『過程を省く季節の移ろい方、老齢時間間隔感』編


 だれもが下手してもそこそこの生活力を享受できているようならば、格差問題も今時話題にする質とは相当に違ってしまう。
 でも今時は底上げが要る。
 その線で、地表面を構成する、ヒト、ヒト、ヒト・・・による集団の営みに関わらせて、ある努力を為せば、多少なりとも、今までよりは底上げ策にできそうっぽい話を、一昨夜か一昨日の日中かのNHKのドキュメンタリー番組をちらっとだけ見ていて思いついたので前置きにふれてみたい。

 国情はというとどうやら貧しい方で、その中でも格差がありそうだから貧しいそうは相当に苦しそうだった。
 ただ金を採掘している事例を紹介していた。
 そこで、もしも、その量がかなり程度くらいあるなら、ということで空想してしまった。
 銭儲け上手なよそ者たちが、必ず言葉使いも巧みに、その上がりのほとんどをいただける仕組みと共に介在してくるのが19、20世紀タイプだ。火器タイプの武器所有程度のことを規制、制御できない超大国という認め方は矛盾してそうだけど、19、20世紀タイプはそこを認めてきた。だからやたら裏技として超大国らしからぬ武力誇示作戦を続けてきても要る。番人タイプでのかまえを身につけ損ねたまま200年間ほどを経てしまっている。
 その副産物は荒々しく跡を残している。
 ノーベル賞受賞者諸氏の遠隔地貿易家系脈ということは明確だし超有名な事実だ。
 それくらいヒトの知見と関わる"進化・発展"史において、相互交流の刺激しあえる条件が相当に関わりうる、という事態把握にも誘う。
 もう少し間接的な学習機会を得ての発見やも相当にまじってそうだから、ここは素人のまとめ方、ということで流していただければありがたい。
 少なくともの辺りのニュアンスを具体的な事例の中にさぐっていただければ、想像して頂ければ、更にありがたい。
 単独で知見の展開はどうこうなるものではない。
 というわけで、今時の知見の試行錯誤が濃く濃く邁進している場も、自前で育てたごく内輪人脈で、なんていうことはまず起こらない。各地から各地で育った俊秀諸氏をなんらか巧みに集めて、たまたまどこで研究していたり、住んでいたりとかでどの国のだれが受賞したとかの話のまとまりでの押さえ方から、偏りがあるかのように印象を撒きがちにしているだけで、その受賞の場に集住したままでの刺激の状態ならば、追々袋小路へと誘われてしまう。
 金が取れる、そして個々の起業力は弱体だ・・となれば、国営規模でのまとまりを利用できることは相対的にいい手段と想起できる、と素人老人は踏んだ。
 そしてここらに限ってはと断って、建て前上とにかく官僚組織を育てる。一定の倫理規制を肉化できたタイプを相対的に多く育てる。
 その人材諸氏が継承的官僚組織を営み続ける。
 だからいくつか前提を満たすような作業も必須だけど、それに乗る形で、金の採掘、成形、販売や貯蔵などの業務を国規模の資金力で立上げ、情報部門のしっかり育てて、着実な金の運用を図って、その他の分野の研究にも資金が届くようにする。
 広く、商業活動に向いた連中にその手法・発想(三方良し等)を身につけてもらって、商売上手に各地で稼ぎまくってもらって、巷での支払い手段循環のある水準を保てるようにする。
 そういう諸外国を排除するというよりも、国内産業を育て、富の流出を出来るだけ避けて、まずは自分達の生活力の底上げの一定水準の達成までは、よりきめ細かく、規制を手法の一つとして応用してしまう。
 結果的に平均で高給取り化してしまうようなことが起こらない限りで、安い賃金だし安い物価だしの円満な生活条件を保ちつつ、安い賃金ゆえの貿易上手を更に上手にこなせるようにもできる。
 だから情報力は要るし、できるだけ自前での情報力を育てられることが、19、20世紀タイプを前提に出来た場合は、弱小国にとって必須となる。
 諜報の暗躍によって軍事部門への無駄な膨大出費を圧として加えられる可能性も19、20世紀タイプでは弱小国に限らず、可能性大だから、そこらも19、20世紀タイプとして独特に育った超大国利害に振り回されない周辺諸国との付き合い方の巧みが要る。
 どこもかしこもけしかけ人脈に正規の公務として潜り込まれて、いつ何時(なんどき)指令に従ってのもみくちゃ作戦をしかけられるか不可抗力性を引きずることになる。
 それでも、周辺諸国との仲、その周辺の領域のすぐ外側の諸国くらいのところまでは仲を意識しての日々の外交努力を怠らなければ、飛び地くらいに離れた超大国利害に振り回されがちな諸国が蠢いていたとしても、それでも、広く貿易展開できる余地を感じ取らせることができれば大事に至ることはない。少なくとも付き合う方での近づきの向きの力くらいは感じ取ってもらえる。
 だからいつでも19、20世紀が一応リーダーとして容認してきた超大国の振る舞いが問題となってしまう。ここが国内政治において武器の規制すらできてないのに、なぜ?と問えば、軍事部門が・・とで応えようとしそうなくらい、超大国の欧義を伝達し損ねている可能性が大のように、今の素人老人は憶測してしまいたくなる。三方良しに近い発想での学問としての経営学などを考え出す研究者も出てくる土地柄だから、だれもが単調の粗い、というわけではないのだけど、裏工作がとことん命を軽く見るタイプたちがらみのようなことを仕出かしがちにかつてはしてきたようだ。荒っぽい勢力の中を超大国とは言え、各現場を担うのはヒトの制約を持った人々だ、ということは確かだけど、指揮命令系部門には、そこらを踏まえても問題あり、の作戦をつい使ってしまう発想がまかり通ってきたのではないか。奥義の伝授がいかに大事かに気づかされる。
 そういう自らがネオナチのような連中を使えてしまうほど頼りない超大国にリーダー的位置をこれは実際にそれほどの建前民主主義国を錯覚的に実質民主主義国(となり近所に実弾入りの銃器を隠し持っていたりそれって民主じゃないだろと明確なんだけど、民が自発的に選んだから的なことば使いを通用させようと一応してきたようだ。反対意見には、地元でも乱暴狼藉が起こるじゃないか的な事件屋雇用によって反論も試みてきたような噂も絶えない)のように見なされがちだから、注意して付き合う上でも、周辺諸国との関係構築(ここらもだから駆け引きに使われやすくするのだけど)が不可欠となる。
 そういう努力の積み重ねは、超大国の中の多数派か少数派かはわかりにくいけれど、三方良しの円満解決を試行するつもりの人々の賛意・加担も期待できるから、そこそこ、問題処理が必要だったりするかもしれないけれど、独陸国の自力程度は用意できて、やがては自立も可能なくらいになれば、なんとか公的な立場を心身化できた人材が各分野にも有能として進出できて、民業部門でも、粗っぽい方ではなく、稼げる産業が育つようになる。
 そういう地味だけど積み上げタイプの手法で、底上げのいくつかは可能になりそうだ。

 

 そういう元気部門でのやり手諸氏がまったく介護部門に入り込むと、危ないだれかに変身しかねない、というようなことを前回、前々回ふれてみた。
 ただ、他人の仕事も喜んで引き受けて忙しくして決してへばったりしない誰かたちは、そうなる暇もない、ということで、ボロをださないまま無事退職年齢、ということも充分に起こりうる。
 介護現場の暴虐は大抵、介護する現場担当諸氏が引き受けるストレスに"負けて"の場合が多そうと、10年選手でしかないので介護素人老人と自称してしまうけれど、大雑把に受け止めている。
 忙しくてストレスの結果を表現する暇がないラッキーさ。
 一方、業務仕事を時刻表通りにさっさとこなして、おしゃべりに(なぜそちらへ向くかの職業柄の因子の一方で介護仕事の孤独に誘う加減とも関わりうるとも想起される)時間を費やすことがそのままストレス引き受けの効果を表現する時間的余裕を提供し易くしているとも指摘可能だ。
 ヒトは通常、対しての意味合いからだからその半面ではという要素を考慮しつつ、自己顕示の向きも濃く持ち続ける。ここらは恐らく例外なしだ。(言うに言われず耐えてきた諸氏においては少し肩の力を抜くことば発信になりえた、かな・・。自分こそは謙虚の典型だとかで振舞う無理のあたりを表出し損ねてのタイプ諸氏にあたる)だから、介護現場でのストレス圧が、相手の反発表現の一方で対抗力の腑抜け状態という、こちらとあちらの対抗関係上のアンバランスゆえの圧しの可能性を知らず知らず行使して、暴虐をついつい表現できてしまう。
 まさかとなりのおじさんが、おばさんが介護施設では凶暴な王様然として大変身!なんてことが世界中の介護施設ではたっぷり可能性を秘めさせてしまう。
 技とか知識も雑なままそんな暴君ぶりを発揮してしまっては、はずかしくて好いヒトっぽくふるまうなんてできっこない状態にも陥りやすい、と察する。ここらは心の病系の専門家、事情通諸氏の知見とか改良手法の応用の場となりそうだ。
 内面的には旧師範の指導層ノリで、介護の場を賑わそうと好いヒトを演じきる諸氏においては、同様にストレス圧からくる副作用を日々表現させかねない。更に、師範ノリの押し付けがましさが分け隔てのない人格に満ち溢れた面倒見の良さの恩恵分を制圧してしまいかねない(ここらは一般論として正しい事柄の伝授者としての職業圧の弊害だったのではと、そういうことの過去を想像する年寄り年代の想像)。
 成熟過程を経た晩年に近い諸氏はメダカの学校の生徒ではない、といったことをどれほど切実に感じ取れるかとも関わるので、そこらは、初期の一応の介護の建て前伝授がどう行使されたかとも関係してしまいそうだ。
 巷での張り合いつつ、同情の感受性を働かせて、他人だとしても、我が身の経験からそのなんらかを捕らえ要素少しだけはしてしまうのに、なぜ、介護施設の弱者諸氏相手だと暴君に、正義・正解の使者ないしその統率者のように振舞って、指示にひれ伏させるように振舞いがちにするその半面を少しだけ意識できれば、暴挙の一歩手前でいつもとどまらせるできそうだけど、ついなになにしなさいっぽい方でのことばを押し付けがちにしてしまう。そして巷では、反発を恐れてというよりも、適度の反対側からの圧が行使されて落ち着くところにすんなり収まっていたのを、ここでは、言うことを聞かせられるとついおもえてしまえる相手の圧の弱体がはびこっている。そして、大人たち相手だからそれぞれなのに、そこをなになにしてくれ、という指示するわけだから、きついときは相手にされなかったりもありえて、暴虐圧に向かわせるストレスが付いて回るし累積させやすい。
 仲間との仕事で、ついだれかに手伝ってもらえる体験を普通のことにしていれば、言うことを聞いてくれないモロ生な体験が、弧の場で生じがちとくるから、ヤバイ方のストレスの作用となって、別に普段、圧しの強いだれかではないタイプでも簡単に暴虐に近づいてしまう。
 だからって、そもそもの論へしてしまうこともない。

 もう少し介護という場の多様を認め合えて、晩年も最後まで施設には行かないが通るし、最晩年だけならやっかいになりたい諸氏ならそういう使い方ができるしで、受け入れる側の柔軟性がはびこるようになれば、もう少しストレス圧を生じるやりとりの機会とは違う方での出会いが多くなりそうだ。


  川柳もどき

   陽射しを見て水撒き
   花びらに溢れる水滴
   だれかたちは自分のぐしょぐしょする目のようだと受け止め
   だれかたちは、颯爽と町を闊歩していて、カラッともしてそう
   植物は芽を出すところまでは逞しい
   芽が出て、その後の様々は、溢れすぎない地球生命系の知恵とことばにしてしまえば
   勘違いにも誘いがちにする擬人化の類
   知恵がまずいとして、なんとする


付録
 PCem の v17 に 50MB で有名な(だけど古い 2012 頃の) DSL linux(Knoppix系)を導入してみた(32ビット版) 。
 今時のlinux はほとんど半自動状態でインストールできてしまうみたいだけど、もう少しだけ、手間を惜しまなければ、こちらも着実に使える状態にインストールできる。
 しかも軽く動く。(1024x768 画面、16ビット色設定で上手くいった)