連載は続く~ SF 掌編『老人的読後感想』編


 多少メカニズムっぽい話を素人の上げ底話ということで。

 格差の原因を見に行く気のない議論としての物価・賃金上昇話題という流行(はやり)を、不易流行の観点から素人流にふれてみたい。
 とにかくその一方の趨勢は大儀に物価上昇で疲弊する人々を賃金上昇が救い、更には、それぞれが年々上昇していくことでいいムードも醸成するようなことが添えられている。
 先にちらっとふれたけれど、格差のあり方が異様なまま、常態にしておいて、いつものことさと流せそうに思えている辺りがまず痛い。
 どういう風にか、というと、ある種の底上げがなることこそが底流としての状態ともなりうる消費の厚みをもたらすはずを、そこを見ないで、余分に使える層相手の(つまり現に格差が厳然としているのだから)、賃金上昇の話にしがちにしている。
 価格転嫁できれば賃上げも可能?!ここらは、お笑いネタにするほどお笑い界にパワーが漲(みなぎ)ってそうもないから、多分、ニュースで流れて、そしてそのまま流れ去るタイプの話になりそうだけど、価格転嫁しないでその稼ぎの状態から恒常的賃上げタイプの賃金上昇策をこうじられるところは遠慮しないでどんどんやってくれたほうがいい。
 そうではなく、無理すると、ただ物価上昇のスパイラスを生むだけの策となってしまいがちだ。
 ここらが全般を見渡すためのヒントにできそうだ。
 物価上昇させずに、賃上げできる経営上の状態が恒久的に見通せているなら労使が一致協力しあって、これぞ経営判断という合意を世間に示せそうだ。労使双方が経営について精通して見通しを立てられる組織は強い。
 ただそういうタイプの経営のある一方で、自由な活動上の経営の線で、着実経営を営む各所も膨大と素人は想起したくなる。
 でかい組織なら組織運営上、中枢との関わりに置いて、予算のいくぶんかでも使いこなせる立場の近くか周辺にでもいない限り、隔靴掻痒感を引き受けがちな日々としがちにする。
 そこらはことばの修飾上様々な表現、飾りはありうるだろうけれど、組織の大きさを美味く使いこなす知恵が今この世の中に営まれているなら、国民国家のしくみもそれを当然応用できているはずなので、おして知るべしの現代ではないか、と素人は押さえてしまう。
 格差も桁違いな下々の生活のしづらさが並行していない限りで、問題化することは少ない。
 同じ仕事をしているのになぜ差が出るという同一組織内での格差問題とは別物だ。
 それぞれの自由裁量の辺りへの配慮も要る。
 だからそこから即出てくるのは、物価が安定であれば、各所の地味に堅実にこなしている経営なり稼ぎなりは、稼ぐヤツは稼ぎなさいで、流される。時に、ストレス発散用の話題にしてしまうとかされてしまうとかのことが起こってもちっともおかしくない。
 今は物価がコロナ騒動以前から徐々に上昇傾向を生んでいたところへより過激に上昇圧を生んだ。
 国内話題として物価上昇を政府筋も含めて喧伝した程度では確かに大して動かなかったけれど、欧米圧が加わって、便乗?!を疑わせるくらいの勢いがついて、上昇し始めて、上昇してしまっている。
 だから生活苦の人々にとってはたまらないことになっているわけだ。
 とりわけ子育て層にとってはきついはずだ。
 子供達に困った風は間違っても見せられないはずだから尚大変と察する。
 世の女性諸氏も子育て、結婚とある種の自信を自らに育てる機縁を得ながら自立の道筋程度も多くにとってはイメージし易くなった半面と伴侶諸氏のちょっと困った状態が併走してか、介護の仕事をしながら多くを知ることになったのだけど、母親が育てる片親世帯が珍しくない世の中になっていることに気づかされた。
 そういう諸氏(と子供達)の世帯は、恐らく、物価高の影響をもろ受けてしまうし、大学進学当たり前のような世の中であると同時に、就職の円満なあり方が探しにくい世の中も一方にあって、多分、そちらへの出費も相当に予定されているものと想像する。
 法律とかの支えもあるから、それなりに子育て費の旧両親の合算ということも為しているかもしれないけれど、両方がそれなりに稼げている場合以外も想起できれば、困った方の事態は、困り果てかねないとも想像される。
 現役で、単身で、だけどかつての季節労働のように不安定な立場で、低賃金で稼いでいるという場合、どの政党も一票が大切だから、事情を知ればその知りえた順で声をかけてくれるとしても、今時の格差拡大しかありえそうにない仕組みが稼働中ということで、コロナ騒動一時金のようなことしかなかなかできそうにない。
 賃金上げが、列島の支払い能力の層を分厚くするほうで作用するやり方ならば、長期的に好循環となるけれど、賃上げ、無理した分ないし経営の荒波ゆえ物価上昇での事後の策が生じて、今時の経済事情通諸氏は平気でそこらを好循環と欧米との忖度関係からことばにしてくれるけれど、ここらは素人である以上に高齢者だから、以前の流れを起動の宣言の頃から沈没の宣言の頃まで眺めてこれたので、オイオイ・・・なわけだ。
 先行する一見裕福そうな各地が、段々追いつかれ、だけど追いつかれる過程で、売るのに有利な価格の条件が移ろって、そこらの平準化への趨勢もいつものことにできる。
 だけどどこか他の低賃金から出発するところが植民地化のワル巧みに利用されない限りで、おとなり中国的な商売を可能にして、やはり売るのが有利なうちにそれなりに稼げて、その土地内で広範に支払い能力の分厚い層化を可能にして、裕福な各地ほどではないにしても、堅実な消費市場と生産との整合が生じていてしかも貿易もかなり動かせるようになってしまう。
 そうやって世界において底上げ方式での堅実な基礎分としての消費市場が育ち動き続ける。
 だけど、格差問題という時には、放っておいてもらいたいな式の自由度を得る巧みが作用させる経営上手たちがそこそこの利益だけど生活もきままにやっていけるんだという活力ある人々、世間を醸すような事態ではなくて、生活苦が伴うような、必要を満たしきれない、不安定要因を世の中に育て続けてしまっているような事態のことを指している言っておかないと誤解とか錯覚を誘いかねない。
 列島の各地でのもそうだけど、地表面での出来事としても格差のはびこりの異様さは、解消できるにこしたことはない事態と見なせる。
 消費の構造は、特殊に様々に変化する商品を扱いうるだれかたちを想起できることも、江戸期を想像できれば、それなりに全体を回す上での潤滑役と見なせないこともないけれど、基本はより多くの仕事を担う人々の日々の体力・滋養・ゆとりへと向かわせられる消費市場(完全自給自足生活であっても物品の消化吸収脱糞ぬきにヒトは再生し続けることが出来ない)がそれと濃密に並行することになる日々の生産や流通や販売の活動だから、それがある種の安定性と持続性を持ち得ないと、どこかしらに無理を強いひいては全体のサイクルに軋みを生じさせかねないあたりだ。
 ここらがしっかりしていると、人口比からしてもそれなりに有意な経済活動の部門を前提にできるようにする。
 市場(いちば)は歴史的に見れば移ろい易いけれど、現代の条件からすると、世代を越えての定住を可能にするような住居の持ち方の土地柄だと、半永久的な立地となる。
 子が成年すると外へ出て行く土地柄の場合は、旧事例と似たことも起こりうるけれど、そこを工夫できれば、ないし、100年近い周期性ならば、それなりの移行対応も可能になりそうだ。
 その上に、贅沢品市場に当たるコロコロかわりうることへ対応して大もうけする商売が成り立っても、世の中にとっては不都合なことはない。
 逆に、たとえばだけど、治療の質と関わることではなく、そのほか医療サービスということで、ないし、質的にどうこうではないのだけど、高度な医療を支払い能力膨大という層向けに医療メニューに加えて大もうけして、その分、保険医療以外のでも低医療費で、一般向けのサービスをこなして一儲けしてしまうという手も可能になる。
 家具とか衣装とかでも似たことが充分に可能な事を想像することは簡単と思える。
 江戸期の暴利むさぼり系以外はそういう工夫をしていたと素人想像に過ぎないけれど、ヒトのことだから、多分してたのでは、と思いたい。
 村でのポトラッチ策よりは洗練されて、支払い手段循環にも知恵が注ぎ込まれている方に近づいてそうだ。
 ただ物価高は不利な面がついてまわるから、もろともに策を外部へ働きかけたくさせる。
 それに乗せられたり、忖度してしまう立場諸氏がたくみに振舞って、その圧を交わせるようにすることがの方が知恵の使い方としては適切のように素人老人からは思える。


 余ほどひどい教育状態のところでしか起こらないことなんだけど、介護施設では、一応部屋に入る際、ノックする。
 夜中は就寝が早いから、避けたりもありうるけれど、日中は必ずノックして、了解を得て入る(ことになっている)。
 けれども、そうではない方で慣れてしまった中堅どころになると、ノックせず、いきなり部屋へ入って、介護の業務をこなしたりがいつものことになってしまいがちにする。
 余ほどと指摘したように、こういう日常を施設見学で見たら、余ほどの施設だから、という判断には使える。施設探しの際、通常は見かけないと思うけれど、万が一そういうことがあったら、要注意くらいは10年選手程度の素人介護職でも指摘できる。
 また分業とはいえ、業務を引き受けた場合、それは自らが起点を終点を確かめての業務終了にしないと、介護の場合、自らが解決する力量を欠きはじめた老人諸氏相手ということで、危険状態へと誘いかねいという脈絡から。業務途中の都合で、一応、手のあいた同僚に一時しのぎに頼むことは可能だけど、そうしたからと言って、最終の状態の確認を怠れない仕事の性質を持っている。
 介護は仕事途中でも注意を怠れない。何が生々しく起こるかわからない。体の状態が衰え始めた老人諸氏にとっては、自らの制御で危険回避ということの確度がおちる状態とともにの生活なわけで、そこらのフォロー役が介護職の一面だから、そして業務の流れを複数の介護職たちとして並行している状態だから、頼まれたことが後回しになるということもおこりがちだったりするわけだ。だから、頼んでおいたのに・・という言い訳が通じない仕事の現場の性質を持っている。
 そして仕事を覚えて図々(ずうずう)しくなって他人の部屋へノックとかシグナルを送ることなくズカズカ入るようなことに慣れないことが肝心ということも、初期の教育できる時期にしっかり身につけてもらわないと、粗雑な方で慣れた介護職となって、介護職というのは意外に色々な介護施設の会社を移ろったりしている諸氏が多いのだけど、自らが馴染める介護施設の幅を狭めかねなかったりするわけだ。

 『頭痛肩こり樋口一葉』は政治思潮上の左中右とか"弁証法役割分担"的な張り合いなどなんのその、追々だれもが引き受ける死に行く自分という境遇について、身を細らせるような心配は無用だよという方に誘う作りになっていたと素人が感じた辺りは相当以前にふれた。
 だけど死を迎えるだれかを見送る生活を共にするくらいの近さの人々の悲しみのどうしょもなさの方は面倒を見てくれていなかったかも。
 介護職は、他人の位置でご家族の寂しい様子を伺う機会を持つことになりがちにする。
 やっと終わったという安堵もかすかにある場合もあっておかしくはない。けれども、そこはヒトというか生き物どうし、悲しい出来事にどうしてもなってしまう。
 逝(い)っただれかの思いのどれほどを叶(かな)えてやれたろう、せめて死の間際、本人はどう希望してたろうか(突然の度合い次第で、また、ことばの交わし合いのあり方次第で、本人への認識の内実がそういう時に限って想起されてしまうものだ。そして不足感から苛(さいな)まれる)。
 ご本人諸氏も『一葉』氏のように中断をかこった。だから満足かはらほど遠いと想像はしやすい。でもだれもがそこらは似た条件だ。
 一方見送ったほうのより親密でありえただれかたちにとっては、とにかく本人が亡くなった後も観念を肥大させうるので、とてつもない状態に陥り易い。
 普段会う気もないだれかが、社交上やってきて悲しんでみせる儀礼の部分はここでは流しておこう。
 そうではなく、どうしても親身になってしまうどなたか諸氏を想像してみたい。
 それはそれはお辛いことのはずだ。
 そしてやはり亡くなる諸氏の方は、ほとんどが似たり寄ったりで、人生途中下車して逝かれる。
 素人老人的には、それゆえここでも端折って恐縮なんだけど、お先に失礼することが、その悲痛を避けうる唯一の手段のようにとらえてみることも事態対応力につなげそうではないか、と持ち出したい。
 親達より先かよ、なんてことだ!悲しすぎるじゃないか!!
 事態はそうなんだけど、先に逝く子供からすれば、育ててくれて、反逆した時期も見守ってくれて、その後、一人前風吹かせて親たちの人間関係を豊かにさえするほどになった時の対親関係感覚も体験できて、その上に親達が順に亡くなってその都度、悲しみの深度が爆発的に生じて落ち込まされるよりは、どれほど人生を楽しめたままで逝けるか・・・。
 先に逝ったモン勝ちと勝負ごとにしてはまずいけれど、失敬、お先に失礼ってなもんだな、と実は親達のことを観念的内実に留めていた成人となった子供諸氏は、ことばにできてそうかも、など余計な空想を読後感としてしてみたくさせていた。

 

  川柳もどき

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